「学生の意見を聞くなんて、プライドがないのか」「僕にその類の「プライド」はありません」
「お金をもらって仕事をしている以上、すべてのビジネスマンはプロフェッショナルです。そのプロフェッショナルが丹精込めた仕事に、お客さんというその道の素人が平気でクレームをつけてくる――。そのとき、プロのプライドは揺らぎます。しかし、そういうときこそプロとしての本質が問われるのです。
お客さんが商品やサービスに対して不満を述べたとき、「素人に何がわかる」と開き直る態度は感心しません。自分の仕事にプライドを持つことは大事ですが、仕事のゴールとは何かをよく考えるべきです」(p.36)
「もちろん真意をわかってくれない相手もいます。しかし、そういう場合にも相手が悪いと決めつけず、わかってもらえるように努力し、工夫する。初めは不満の塊だった相手がついにはよき理解者に転じたとき、やはり自分はプロだなと、そこで初めてプライドを保持すべきなのです。ゴール(目標)はどこなのか、よく考えてください」(p.37)
「僕の場合、受講した生徒の成績が上がり、受けてよかったと思ってもらうことがゴール。その手段として授業のクオリティーを上げる必要があるので、そのために頭を下げることは平気です。東進ハイスクールの若いスタッフ(まだ大学生です)には、「授業で気づいたことがあったら、どんどん言ってくれ」と伝えています。
すると、彼らは優秀なので、「あの部分はこうしたほうがいいのでは」とアドバイスしてくれます。僕はそれを喜んで受け入れ、絶えず修正し続けています。
「学生の意見を聞くなんて、プライドがないのか」と言う人がいるかもしれませんが、僕にその類の「プライド」はありません。
すべては結果です。結果を出すために必要なアドバイスであれば、誰が言ったものかなどは、どうでもいいことなのです」(p.38)
教えすぎる先生=考える力を奪ってしまう先生
※強調は引用者。
「僕は人に本をすすめません。読みたい本は自分で探すべきだというのが持論です。書店でもネットでもあふれるほどの本の情報があるこの時代に、自分が読みたい本を見つけられないというのは困った話です」(p.169)
「僕は生徒に対しても、手取り足取り「こうやってやるんだよ」と導くようなことはしません。できるだけ良質な「考えるヒント」を与えること。これが僕の授業の目的です。「よい種」を生徒に渡して、あとは本人の努力で上手に育てていってほしい。そういう考えです」(p.169)
「しかし、実際には、教えたがりというか、教えすぎる講師がほとんどです。「わからせます!」などと叫ぶ講師を見ると、本当に情けなくなります。勉強って、そういうものではありませんからね(なぜ、その講師はそんなことを言うのかといえば、結局、本人自身があまり勉強の本質がわかっていないからなんです。だから、「わからせる」などというバカげたことを口走る)」(pp.169-170)
「また、自慢の「必殺の解法」などを売りにする講師も少なくないのですが、それは単に「覚え方」にすぎない場合が多く、次から次へと「覚え方」を教えて、結局、自分の頭で考える力を奪ってしまう講師が少なくないのです。」(p.170)
「「覚え方を教えてもらう→(気合いで)覚える→点をとる」。こういうリズムにはまってしまうと、大変なことが起きます。社会に出ても、「こうやれよ!」と誘導してくれる人がいない限り、自分では何もできない人間になってしまうんです」(p.170)
「欲望が散らかっている人間は、永遠に何も手にすることができない」
「「みんなが食えるような業界になればいい」と格闘技関係者は言うが、逆にそれでは問題だ。勘違いしてほしくないのは、格闘技界は恵まれていないが、食えない業界では決してない。大勢の何も考えていないファイターが食えていないだけだ。「チャンピオンが食えない業界はおかしい」のではない。「チャンピオンなのに食えないファイターがおかしい」ということだ」(p.77)
「欲望が散らかって、何も考えていないにもかかわらずメシを食える。そんな業界がまともなわけがない。自らの苦境を業界という外的要因に求めるようなファイターは、どんどん淘汰されるべきだ。はっきり言う。格闘技界のためにも、ダメなヤツは食えない業界のままでいい」(p.77)
「強制」と「報酬」による問題解決が社会全体のガバナンスコストを増大させる
「途上国や新興国のみならず、先進国においても新自由主義の論理と力学が、従来の社会的な紐帯や信頼を分断し、経済格差や意識格差を拡大し、個人を孤立(原子)化するリスクが顕著になりつつある」(p.51)
「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が低減し、「協調」(コミュニティ・ソリューション)が困難になれば、「強制」(ヒエラルキー・ソリューション)ないし「報酬」(マーケット・ソリューション)による問題解決に頼らざるを得なくなり、社会全体のガバナンスコストは増大する。「他者」への想像力の希薄化は監視社会や訴訟社会、厳罰社会を誘引するとともに、かつて思想家アレクシス・ド・トクヴィルが警鐘を鳴らした、付和雷同的な「多数派の専制」を助長しかねない」(p.51)
「ある個人の活躍や能力がすぐに「ユダヤ人」として括られることが問題だ」
渡辺靖『<文化>を捉え直す――カルチュラル・セキュリティの発想』岩波新書、2015年より
「本来、多様な属性を持つ個人を「イスラム教徒」という大きなカテゴリーのみで括ることはフェアなのか。私が日本の大学の学部生だった一九八〇年代半ば、日本ではいわゆる「ユダヤ本」がベストセラーになっていた。ユダヤ人の活躍や優秀さを称え、その秘訣を解き明かすというもので、ほとんどユダヤ礼賛に近かった。しかし、在京のイスラエル大使館は「反ユダヤ主義」の一種だとして懸念を表明していた。不思議に思い大使館の知人に訊ねたところ、「ある個人の活躍や能力がすぐに「ユダヤ人」として括られることが問題だ。今は称賛されているが、いつ反転するか分からない。そのときの恐さが私たちには歴史を通して身に染み付いている」と語っていたのが印象的だった。似たような乱暴な括り方を「イスラム教徒」にも当てはめているのではないか」(p.vi-vii)