「慰安婦」問題をめぐる国内の「歴史戦」

 

海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う

山口智美、能川元一、テッサ・モーリス-スズキ、小山エミ『海を渡る「慰安婦」問題:右派の「歴史戦」を問う』(岩波書店、2016年)より

 「最後に指摘しておきたいのは、右派論壇が日本軍「慰安婦」問題、南京大虐殺をめぐる国内の“論争”には完全に勝利している、と確信している点である」(能川p.30)

 

 「「慰安婦」問題を日韓問題としてとらえ、かつ「強制連行=物理的、ないし法的な強制力をともなった連行」の有無こそが問題の核心であると考える右派にとっては、「吉田清治証言」の信憑性が否定され、「慰安婦」は「女子勤労挺身隊」として動員されたわけではないことが周知されるようになった時点で「勝利した」ということになるわけである」(能川p.30)

 

「このような勝利の強い確信こそが彼らにとってはいらだちの原因となる。「南京」も「慰安婦」も「捏造」であることは彼らにとって自明であるがゆえに、日本に対する非難や抗議が止まないのは日本政府が自分たちの主張を国際社会に伝えないからだ、と彼らは考えることになる。実際には彼らの主張それ自体が拒否されており、新たな非難を呼び起こしているにもかかわらず。日本政府が右派論壇の期待に応えて「毅然として声を上げ」ればあげるほど、国際社会の反応は彼らの予想を裏切るものとなる。すると彼らは「まだ歴史戦の努力が足りない」と考えるのである」(能川pp.31-32)

 

「櫻井(よしこ―引用者)はクマラスワミ報告に含まれる元「慰安婦」被害者の証言について「日本人なら決してしないような野蛮な、残酷な罪の数々」だと否認し、一一世紀に成立した中国の史書資治通鑑』を引き合いに出して「元慰安婦だったという女性たちが、このようにして日本軍に苛められた、拷問された、挙句の果てに殺されたという証言と同じ内容の刑罰が中国において罪人や政敵に与えられていた刑罰と全く同じだったということがわかりました」としている。評論家の黄文雄らによって右派論壇にもちこまれたこの論法は、第1章でも触れた本質主義的民族観に基づくものだが、政府与党と浅からぬつながりをもつシンクタンクが主催するシンポジウムでこのようなあからさまなレイシズムが無批判に垂れ流されてしまうほどに、右派論壇の論理はこの社会の中枢を侵食しているのだ」(能川p.138)

 

辻元清美衆議院議員が第一六六回国会で提出した「安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問主意書」に対する答弁書(二〇〇七年三月一六日)は「同日〔河野談話が発表された一九九三年八月四日を差す―能川〕の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」としている。この答弁がいわゆる「スマラン事件」に関する資料を無視していることは第3章で指摘したとおりである。『朝日新聞』の「吉田証言」報道が国際社会に「誤解」を与えたと主張する日本政府は、その『朝日』が一九九二年七月二一日夕刊の一面トップで報じたことがらについてはすっかり失念しているらしい」(能川pp.139-140)

 

「だがこの閣議決定は同時に、一九九三年八月四日以降に研究者や支援者たちが発掘してきた多数の資料(連合国による戦犯裁判資料を含む公文書資料だけで五〇〇点を超える)を無視することで成り立ってもいるのだ。(中略)河野談話の発表から〇七年の閣議決定まで一四年、現在までならすでに二三年が経過しようとしている。これほどの期間における調査研究の成果を完全に無視した主張を政府が平然と行い、マスメディアの多くもそれを無批判に受けいれてしまっているのが現状なのだ」(能川pp.140-141)

 

ルワンダ大虐殺で「武器としてのレイプ」を生き延びた人たち

ルワンダの祈り―内戦を生きのびた家族の物語

後藤健二ルワンダの祈り:内戦を生きのびた家族の物語』汐文社、2008年より

「虐殺の時、女性に暴行することが武器のひとつとして使われたんです。」

「武器?」

「はい。男たちはフツ族民兵の中に、女性をねらって暴行するグループを組織したのです。そこにはエイズウィルスに感染した者が大勢含まれていました。彼らの目的は、女性たちに感染を広げることでした。ただ殺すだけではなく、ゆっくりと時間をかけて感染を拡げて、ツチ族の血を永遠に絶やそうとしたのです。」

 銃や刃物と同じように武器としてレイプを用いたという話は、これまで聞いたことがありませんでした。わたしは言葉を失いました。(p.28)

 

 「ここの患者は、みんなとても深刻な状況にあります。彼女たちは、虐殺事件の時に暴行されて、エイズウィルスに感染させられてしまったのです。一番憎むべき相手からうつされてしまったのです。だから、彼女たちは精神的にもいつも不安定な状態にあります。」

 中には、気が狂いそうになると訴える女性たちもいるといいます。(p.29)

 

「ジェノサイドが始まった日のことを覚えていますか?」

「はい、四月の十四日のことでした。午後三時くらいだったと思います。フツ族民兵たちがとつぜん家を襲ってきたのです。家にいた両親と兄弟姉妹はその場で殺されました。あっという間のことでした。

 わたしは、男たちに暴行されました。その後、体中を切られました。彼らは、わたしも含めて全員死んだと思ったようで、なにか言い合いながら、家を出て行きました。本当に嵐のような出来事でした。

 次の日、わたしは目を覚ましました。自分は死んでいないと気がついたのです。

 助けを求めて家を出て歩きまわっていました。前日にわたしたちを襲った民兵がわたしを見つけました。そして、『まだ生きていたのか、それなら歩けないようにしてやる』と言って、また足を切られました。今度は足の裏です。」

 マリアンさんは履いていたサンダルをぬいで足の裏を見せてくれました。直線の傷が無数にありました。(p.35)

 

 それまで、仲良く暮らしていた近所の人たちがとつぜん変わって、自分や家族を襲いかかってくるようすは、いくら言葉できいたり、文章で読んだりしてもなかなか想像できるものではありません。でも、ロザリーさんやマリアンさんが無数に持つ体の傷跡を見ると、こちらも心臓の鼓動がはげしくなり、体中の関節が痛くなります。(p.36)

 

「これから、やりたいと思っていることは何ですか?」

「何か商売をしたいです。それに、ジェノサイドのせいでわたしは途中までしか学校に通えていないので、勉強したいとは思いますが……。太陽の陽射しを長い時間あびていたり、火を見たりすると頭が痛くなってしまうんです。ですから、あまり無理はしないようにしています。

 今は、生きているだけで幸せです。」(p.37)

金融審議会の報告書を読んでみた

https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/tosin/20190603.html

  先日の国会でも論争を引き起こすことになった金融審議会「市場ワーキング・グループ」の報告書。約50ページに及ぶこの文書を読んでみたが、自分のような金融の素人にも大変わかりやすい言葉で書かれており、少なくとも「誤解を招く」ような箇所は一つもなかった。むしろ、これから大変な時代を迎える日本人に対して、元気な現役時代のうちから少しでも早めに備えをと訴える姿勢には誠実さが感じられた。

 例えば、結論部分の以下の箇所は、困難に直面することが予想される我々全員に対して寄り添ってくれているように感じられた。

「日本人は長生きするようになった。さらに、現在の高齢者は昔に比べて格段に元気であり、社会で活躍し続けている。これ自体は素晴らしいことであり、多くの人にとっても、社会全体にとっても望ましいことである。しかしながら、寿命が延び活動し続けるということは、それだけお金がかかるということを意味する。余暇活動を楽しむなど心豊かな老後を楽しむには、健康と同様にお金も重要である。長寿化に応じて資産寿命を延ばすことが重要であり、この観点から、ライフステージ別に知っておくことが望ましい事柄をこれまで紹介してきた」(p.35)

 

「特に2025年は、いわゆる団塊の世代が75歳を迎える年とされる。75歳を超えたあたりから認知症有病率は大きく上昇するとされており、今から準備を始めることが重要と考えられる。認知能力・判断能力の低下は誰にでも起こりうるという認識の下、これに備え、対応することは、本人にとってこれまでと同じ形で金融サービスを受けるという意味で必要であり、家族など周囲の者を混乱させないという意味でも非常に重要である」(同上)

 政府・与党サイドから批判されたのは、以下の箇所である。

「老後の生活においては年金などの収入で足らざる部分は、当然保有する金融資産から取り崩していくこととなる。65歳時点における金融資産の平均保有状況は、夫婦世帯、単身世帯、単身女性のそれぞれで、2,252万円、1,552万円、1,506万円となっている。なお、住宅ローン等の負債を抱えている者もおり、そうした場合はネットの金融資産で見ることが重要である」(p.16)

 

「収入と支出の差である不足額約5万円が毎月発生する場合には、20年で約1,300万円、30年で約2,000万円の取崩しが必要になる」(同上)

  多くの人が直感的にわかっていることを簡潔に書いてくれているように自分には感じられた。

  自分にとって一番ショッキングだったのは、以下の箇所であった。

「なお、米国では75歳以上の高齢世帯の金融資産はここ20年ほどで3倍ほどに伸びている一方、わが国の同年代の高齢世帯の金融資産はほぼ横ばいで推移しており、対照的な動きとなっている。米国では、市況が好調だったことに加え、401(k)プラン等の制度的な後押しもあり、現役期から資産形成を実行し且つ継続するとともに、そのような世代が歳を重ねるに従い、高齢世帯の資産が増加していったと推察される」(p.17)

  米国ではみじめな思いをしながら老後を送る必要がなく、豊かで充実したセカンド・ライフを楽しむことができる。ロバート・キヨサキの『金持ち父さん貧乏父さん』ではないけれど、やっぱり金融についての基礎的な教育は、日本でも小さい頃からある程度は必要ではないかと感じる。

性犯罪者の特徴とAVの影響

性暴力

読売新聞大阪本社社会部『性暴力』中央公論新社、2011年より

 

「「性暴力は、性欲だけでは説明できない」。少年鑑別所の専門官や刑務所の矯正処遇官を務めてきた藤岡淳子・大阪大教授(非行臨床心理学)は、加害者の心理をこう指摘する」(p.73)

 

「自分に対する少年たちの振る舞い方に、共通点があることに気づいた。人を見くびった態度、にらみつけるような視線、わざと発する下品な言葉……。みな自分を誇示し、虚勢を張っている。そんな相手と信頼関係を築き、少しずつ本音を引き出すうち、彼らの「弱さ」「自信のなさ」「思うようにならない日常への鬱憤」が見えるようになってきた。虚勢は、そんな自分を隠すための行動だったのだ。自分よりも弱い相手である女性に対する性加害も、その延長線にある――。藤岡教授はそう確信するようになった」(p.73)

 

「藤岡教授は、加害者の心理をこう分析する。「性暴力とは、誰かを支配したい、強さや男らしさを誇示したい、ダメな自分を忘れ、尊敬や愛情を得たい……そんな欲求を、性という手段で自己中心的に満たそうとするもの。強姦犯は、特に怒りや支配欲が強い」」(p.74)

 

警察庁科学警察研究所で主任研究官を務め、少年非行などを研究してきた内山絢子・目白大教授(心理学)が、性犯罪の容疑者553人(平均年齢28.7歳)と、無作為に抽出した一般男性688人を比較した調査がある」(p.74)

 

「「女性は『嫌だ』と言っても、本当はそんなに嫌がっていない」は容疑者が21.1%(一般2.5%)、「セックスしてしまえば、女性は自分のものになる」が13.5%(同0.9%)、「女性は誰でも強姦されてみたいと思っている」が4.5%(同0.6%)――。各設問に賛成した割合は、性犯罪の容疑者と一般男性との間では、大きな開きがあった」(p.74)

 

「このように現実を曲げてとらえる「ゆがみ」は、性犯罪者の特徴の一つだ。藤岡教授は「成人の性犯罪者の半数は少年時代に性犯罪に手を染めている。最初はのぞきや痴漢でも、欲望を満たすにつれ、ゆがみが深まり、犯行がエスカレートする」と指摘する」(p.74)

 

警察庁科学警察研究所科警研)が1997~98年に、強姦や強制わいせつ容疑で逮捕された容疑者553人を対象に行ったアンケート調査では、33.5%が「AVを見て自分も同じことをしてみたかった」と回答した。少年に限ると、その割合は49.2%に跳ね上がった」(p.79)

 

「好んで視聴するAVのジャンルをたずねたところ、「ロリコン」「SM」などが3.2~17.6%なのに対し、「強姦」は42.2%と圧倒的に高かった。強姦の被害に対する認識については、26.5%が「1000万円の銀行強盗より軽い」、12.3%が「腕を一本折る傷害より軽い」、7.8%が「交通事故でけがするより軽い」と答え、性犯罪を他の犯罪より軽く見る人が少なからずいた。また、35.6%が「セックスは、いくらしても減らない」と考えていた。性行為自体を軽々しく考え、強姦によるダメージを考慮する意識も乏しい傾向が浮かび上がった」(pp.79-80)

 

「強姦シーンを描いたAVなどの「暴力的ポルノ」と性暴力との因果関係についての評価は、定まっていない。「欲求を発散させる効果があり、犯罪抑止につながる」とする説がある一方で、1980年代に米国で行われた実験では、「視聴者の攻撃性を増長させる可能性」が報告されている」(p.80)

 

「実験では、男性被験者に▽暴力的でないポルノ映像▽暴力的ポルノ▽性的な要素のない暴力映像――のどれか一つを見せた後、サクラの女性に対し、電気ショック(実際には通電していない)を加える機会を与え、その回数や強度を調べた。平均強度を映像条件ごとに比べると、暴力的ポルノを見た場合の強度が最も高く、性的要素のない暴力映像、暴力的でないポルノ映像の順に続いたという」(p.81)

 

「学者や出版編集者らでつくるポルノ被害調査団体「ポルノ・買春問題研究会」代表の中里見博・福島大准教授は、「女性をモノ扱いし、女性がレイプを楽しんでいるかのような描き方をした作品は多い。見続けているうちに『レイプは大したことではない』と、性暴力を容認する価値観に偏ったり、女性への攻撃性が増大したりする危険性がある。視聴者は“理性的な大人”ばかりではない。未成年への影響も過小評価してはならない」と強調する」(p.81)

性暴力

性暴力

読売新聞大阪本社社会部『性暴力』中央公論新社、2011年より

 

「あなたが、家族が、そして恋人が、性暴力にあったらどうしますか 心の痛み、苦しみを超えて語られる真実 坂田記念ジャーナリズム賞特別賞受賞の新聞連載を書籍化」(帯)

 

「二〇〇四年七月。深夜、車で帰宅途中、コンビニエンスストアの前に駐車すると、見知らぬ男が助手席に乗り込んできた。「殺すぞ」。人気のない場所まで運転させられ、殴られ、暴行された」(p.64)

 

「被害者が十三歳以上の場合、強姦罪の成立には「暴行・脅迫」の手段が使われたことが要件となる。一九四九年の最高裁判決は、その「暴行・脅迫」について、「相手の抵抗を著しく困難にする程度のもの」とした。この六〇年以上前の判例が今も生きている」(p.45)

 

「認定にあたっては、被害者の当時の行動が突き詰められ、抵抗したかどうかが吟味される。たとえ「恐怖のあまり動けなかった」という理由でも、被害者側に積極的な抵抗行為が認められず、暴行・脅迫の程度が軽いとみなされた場合には、強姦罪が成立しないことがある」(p.45)

 

「性暴力の被害者は、特に精神的な後遺症が重いと言われる。「自分にはどうすることもできない」という無力感、「自分の体は汚れてしまった」という自己嫌悪、そして、「自分が悪かったからこういうことになった」という自責の念――。悩み続けてうつ状態になったり、感情や感覚が麻痺したようになる「解離状態」に陥ったりするケースもある」(p.30)

 

「さらに、襲われた時の記憶や恐怖が鮮明によみがえり、パニック状態を引き起こす「フラッシュバック」に苦しむ人も多い。突然起きるため、仕事や家事、通学に支障が出る人もいる。加害者と同じ服の色、コロンの香り、車のエンジン音――。何でも引き金になりうる。久美子さんの場合、引き金になったのは、「目の前に突然現れる男性」だった。その途端、恐怖で足がすくんでしまう。条件反射で生じる反応を、自分ではどうすることもできない」(p.30)

 

「迷った末、身近な人に打ち明けた。「お前だけがつらいんじゃない」「誰にも言わないで」とさとす家族。友人たちは、「ごめん」「何も言えない」と困った顔をした。腫物に触るような態度が「黙っていろ」という圧力に思えた。周囲との衝突が絶えなくなった。気持ちが荒れた。最初は受け入れてくれていた恋人とも次第にうまくいかなくなり、「支え切れない」と去っていった。ただ、話を聞いて、「つらかったね」と言って抱きしめてほしかっただけなのに……」(pp.19-20)

 

「家族や友人、恋人など被害者のごく近しい人による二次被害もある。大切な人が被害を受けたことを知って動揺し、やり場のない怒りや無念が募って「親のいうことを聞かないからこういうことになるんだ」「なぜ大声を上げて逃げなかったのか」と不当に被害者を責めてしまったり、早く被害を忘れさせてやりたいという焦燥感から、「犬にかまれたと思って忘れなさい」「この程度ですんでよかった」と事態を矮小化したり。身近な人からのこうした言葉が、かえって被害者を深く傷つけてしまう」(p.36)

 

二次被害に苦しむ女性たちの支援活動を続けてきた栗原代表は言う。「確かに制度面は前進したかもしれない。でも、被害を訴え出た女性が『そんな服を着ているからだ』『なぜ逃げなかったのか』などと責められ、孤立する現状は、一〇年たっても変わっていません」」(p.38)

 

「もし、周囲の人が不幸にも被害に遭ってしまったら――。「特別なことをする必要はない」と横溝さんは言う。瀕死の重傷だった自分の心を生き返らせてくれたのは、そばにいる人のさりげない思いやりだった。「それぞれの立場で、できる人が、できることを、できる時にする。被害者支援とは、私が受けたたくさんの<友情>と同じ」。被害者を支える<手>は、多いほどいい」(p.53)

いま仏教の教義を学ぶことの意義

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

魚川祐司『仏教思想のゼロポイント:「悟り」とは何か』新潮社、2015年より

「ゴータマ・ブッダの教えは、現代日本人である私たちにとっても、「人間として正しく生きる道」であり得るのかどうか、ということである。

 結論から言えば、そのように彼の教えを解釈することは難しい。何度も繰り返し述べているように、ゴータマ・ブッダの教説は、その目的を達成しようとする者に「労働と生殖の放棄」を要求するものであるが、しかるに生殖は生き物が普遍的に求めるものであるし、労働は人間が社会を形成し、その生存を成り立たせ、関係の中で自己を実現するために不可欠のものであるからだ」(p.35)

 

「現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して「異性とは目も合わせないニートになれ」と求めているわけで、そうしたあり方のことを「人間として正しく生きる道」であると考える現代日本人は、控えめに言っても、さほどに多くはないだろうということである」(p.35)

 

「このようにゴータマ・ブッダの仏教を理解することによって、私はその価値を、貶めようとしているわけではない。むしろ話は全く逆で、彼の仏教を「人間として正しく生きる道」といった理解に回収してしまうことをやめた時に、はじめてその本当の価値は私たちに知られることになるし、また「仏教とは何か」という根本的な問題についても、正しい把握をすることが可能になるというのが、本書の基本的な立場である」(p.37)

 

現代日本の仏教に関する言説の中には、例えばその縁起思想を私たちの知的枠組みにとって都合のいい形に切り取ることで、「仏教は科学的で合理的だ」と評価してみたり、あるいは戒律や慈悲の概念を取り上げて、「仏教の実践をすれば、健全で優しい人になれます」と、その処世術としての有効性を宣伝してみたりするものがしばしば見られる。

 そうした言説が流行するのは、それによって仏教に興味をもったり、あるいは本当に「健全で優しく」なったりする人も存在するがゆえだろうから、そうした理解や評価を全面的に「悪い」ものとして非難するつもりはない。ただ、それはゴータマ・ブッダの仏教に対する適切な評価ではやはりないし、また、その思想のおいしいところを取り逃がし、仏教の危険であると同時に最も魅力的である部分を、隠蔽した理解でもあるとは思う」(pp.37-38)

 

「ここで私たちがしなければならないことは、本人自身も自覚していた、ゴータマ・ブッダのそのような「非人間的」な教の性質を、否定したり隠蔽したりすることではなく、また、「そんな非人間的な教えに意味はない」と、そのまま仏教について忘れてしまうことでもない。大切なことは、「では、そのような『世の流れに逆らう』実践を行ってまで、彼らが目指したことは何だったのか」ということを、私たちが再度徹底的に、考え直してみることである」(p.39)

警察当局の大失態

オウム真理教事件とは何だったのか? 麻原彰晃の正体と封印された闇社会 (PHP新書)

一橋文哉『オウム真理教事件とは何だったのか?』PHP新書、2018年より

山梨県上九一色村の第七サティアン周辺で九四年七月頃から度々、異臭騒ぎが起きていることを知った神奈川県警の捜査員は密かに越境捜査を行い、教団施設の張り込みや内偵捜査を続けた結果、教団が自ら製造工場を設け、サリンを製造しているとの確信を得た。そこで警察庁に報告し、強制捜査に乗り出す構えを見せたが、警察庁からなかなかゴーサインが出なかった。その最大の理由は、松本サリン事件は長野県警が捜査を担当するなど縄張りを調整するのに手間取ったうえ、神奈川県警の管轄圏内には直接、サリンにかかわる事件が起きていなかったことが大きな障害となった。そして、警察庁が神奈川、長野両県警をはじめ、警視庁などとの広域捜査を検討し、連携や調整を図っているうちに、地下鉄サリン事件が発生してしまったのである」(pp.80-81)

 

長野県警は神奈川県警に先立って、警察庁強制捜査の打診を行ったが、警視庁をはじめ他警察本部との縄張り争いや公安警察との確執から許可されず、こちらも調整に手間取るうちに地下鉄サリン事件が起きてしまったという」(p.82)

 

「一方では上九一色村の教団施設を抱え、そこで教団がサリンを製造していたのに何も動けなかった山梨県警。九〇年頃に熊本県波野村(現・阿蘇市)に進出したオウム真理教をいち早く調べていながら、教団武装化の兆候を見落とすなど捜査に後手を踏んだ熊本県警……。これらの県警が警察庁を通して緊密に情報交換していれば、また、警察庁が強力な指導力を発揮して広域捜査に乗り出していれば、地下鉄サリン事件は防げたかも知れないだけに誠に残念でならない」(p.83)

 

「かくして小さな失敗を続け、それらが積み重なって地下鉄サリン事件警察庁長官狙撃事件、村井秀夫暗刺事件という大失態に繋げてしまった警察当局は、麻原を無事逮捕したことで何とか面目を保ったものの、まさに治安維持や事件捜査の組織としては崩壊寸前であったと言わざるを得ないだろう」(p.84)

 

「二〇一八年現在、オウム真理教の後継を名乗る団体が一千六百五十人ほどの信者数とはいえ、今なお麻原彰晃肖像画や書物を掲げて活動を続けているという事実が存在する。地下鉄サリン事件から二十年以上が経ち、オウム事件のことを直接知らない若者も増えている。そうした中で今、オウムの教義が密かに複数の大学構内に浸透しつつある実態を見逃してはいけない」(p.84)