「完璧な読書などない」(千葉雅也)

勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版 (文春文庫)

千葉雅也『勉強の哲学:来たるべきバカのために』文藝春秋、2017年より。

 

 読書の完璧主義を治療するにあたって、フランスの高名な文学研究者であるピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫、二〇一六年)は、ひじょうに役に立つ本です。この本でバイヤールは、多様な読書を肯定しています。

 読書と言えば、最初の一文字から最後のマルまで「通読」するものだ、というイメージがあるでしょう。けれども、ちょっと真剣に考えればわかることですが、完璧に一字一字すべて読んでいるかなど確かではないし、通読したにしても、覚えていることは部分的です。

 通読しても、「完璧に」など読んでいないのです。

 ならば、ここからだんだん極論へ行けば、拾い読みは十分に読書だし、目次だけ把握するのでも読書、さらには、タイトルを見ただけだって何かしらのことは「語る」ことができる。

 そもそも人から「本当にちゃんと読んだのですか」と聞かれることはまずありません。というのはなぜか。誰しもが、自分の読書が不完全であることが不安であり、そこにツッコミを入れられたくないと思っているからです。(pp.179-180)

 

生命礼讃の近代主義への対峙(西部邁)

死生論

西部邁『死生論』ハルキ文庫、1997年より。

 

物質的な繁栄のなかで現代人は退屈や焦燥といった類の心理的葛藤に苛まれている。そうならば、ことのついでに、近代そのものを批評するという文脈で、しかもその批評を実行につなげるという脈略で、簡便死というイメージ・プランを持ちだすことにより、ニヒリズムに首まで浸かりつつ、毒をもって毒を制するの流儀で、近代のニヒリズムに対峙することができる。その種の会話に面白味を感じないものは、おそらく、頭のてっぺんまでニヒリズムに浸かり、精神的にはすでに死んでいるのであろう。(p.80)

自分の自由は他人の自由に依拠している(サルトル)

NHK「100分de名著」ブックス サルトル 実存主義とは何か: 希望と自由の哲学

他人を拘束しようとする人は自分をも不自由にしている。サルトルは生涯のパートナーだったボーヴォワールとの関係において自由を実践してみせました。ただ、二人とも嫉妬と全く無縁というわけではなかったことが本書で書かれています。

 

「女性を哲学的に考えた者はいない」(映画『サルトルボーヴォワール 哲学と愛』より)。人間関係はそう単純ではないということですね。

 

映画『サルトルボーヴォワール 哲学と愛』予告

https://www.youtube.com/watch?v=9N6nXIXBQQ0

 

※引用元の文献が手元にないので孫引きになります(強調・下線は引用者)。

われわれは自由を自由のために、しかも個々の特殊事情をとおして欲する。ところが、われわれは自由を欲することによって、自由はまったく他人の自由に依拠していることを発見する。むろん、人間の定義としての自由は他人に依拠するものではないが、しかしアンガジュマンが行なわれるやいなや、私は私の自由と同時に他人の自由を望まないではいられなくなる。他人の自由をも同様に目的とするのでなければ、私は私の自由を目的とすることはできないのであるサルトル実存主義とは何か』)

 

海老坂武『NHK「100分de名著」ブックス サルトル 実存主義とは何か~希望と自由の哲学NHK出版、2020年、p.79より。

尖閣問題についての日本側からの英語論文が少ない(松井芳郎)

国際法学者がよむ尖閣問題  紛争解決への展望を拓く

松井芳郎『国際法学者がよむ尖閣問題』日本評論社、2014年より。

※強調・下線は引用者

まったくの付け焼刃の論文の寄稿を承諾したのは、宜蘭シンポジウムの準備の過程で、中国側にはこの問題に関する英語論文が多いのに対してこれに関する日本人の欧文論文はほとんどなく、したがって外国で紹介される日本の立場はその基礎にある資料の紹介も含めてほとんどすべて中国側の論文からの孫引きだったという事実に驚いたからである筆者は尖閣/釣魚台問題に関する日本政府の立場のすべてが全面的に正しいとは毛頭思わず、したがって日本の立場が批判的検討の対象となることは当然とは思うが、対象の正しい理解に基づかない批判は理論的には無意味で実践的には有害であって、国際的に通用する言語によって正しい情報を提供する必要があると痛感したのである。(p.iii)

 

 この英語論文をもって、尖閣/釣魚台問題からは単位不足ながら卒業したと思っていたところ、2012年秋の紛争の急激な悪化が筆者を再びこの問題に立ち返らせることになった。今度は、どこからかお呼びがかかったわけではない。この事件を契機にして雨後の竹の子以上の勢いで輩出した尖閣問題の著書や論文の大部分は、国際政治の研究者、外交官出身の評論家、ジャーナリストといった人たちの筆になるもので、国際法研究者の仕事は知る限りでは皆無、それだけではなく非専門家も国際法上の論点に触れることにちゅうちょせず、それらの中には国際法のとんでもない誤解や無理解に基づくものが少なくなかったのであるこうした状況に研究者としての良心?を刺激された筆者は、『法律時報』編集部にお願いして英文の旧稿の横を縦にしてその後の動きを踏まえて補足した原稿を掲載していただくことにした。(p.iv)

 

それにしても、時事的な問題について書くのは学者の沽券にかかわるという思いでもあるのか、あるいはそのような論文を学問的業績としては評価しない雰囲気でもあるのか、この問題に限らず国際法とかかわりがある世間の重大な関心事について、国際法研究者からの発言が一向に見られない現状は、日本の国際法学界の危機的な状況を表現するように思えるのだが、いかがだろうか?(pp.iv-v)

 

本書は、日本軍国主義の中国に対する侵略戦争に抗して、また戦後は冷戦政策の下で展開された中国敵視政策に抗して、日中両国の市民のレベルの友好関係の確立のために血と汗を流された――中国でよく使われる言い方では「井戸を掘った」――日中両国の先人たちに捧げられる。(p.vi)

「復員兵の子」の仕事(蘭信三)

蘭信三「「帝国崩壊と人の移動」研究への道程」上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科国際関係論専攻紀要コスモポリス』NO.15(2021)より。

https://dept.sophia.ac.jp/g/gs/ir/wp-content/uploads/2021/03/99d316d8517b62a4abdca3a5e01caae6.pdf

『黄土の村の性暴力』を読むにつれて、そういえば、占領地での出来事を父から聞いていたことをおぼろげに思い出し、何とも言えない気持ち(加害者意識)に苦しめられた。

 私はもちろん「当事者」ではないし、父は戦争でやったことであり、個人的な行為ではないと、言い訳をしつつも、苦しかった。大学時代に進路に迷い、高級官僚への道から大学教員への道に進路選択を変えた私に失望しつつも、「自分は戦争という名のもとで、人間が出来る悪業はすべてやった。だから、お前たちにはきれいに生きていってほしい」。(だから大学教員になる道も悪くはないかと、諦めたようにつぶやいた)ことを思い出したり、亡くなった父との会話が様々に思い出された。論文が書けない辛さは慣れているが、この精神的な苦しさはとても辛く、泣きはらした目にできものが出来て、異様な顔になった。妻に、「気が狂うからもうやめて、見ていられない」と言って止められた。

 この苦しさと向き合うのは無理だと思い、執筆を降りることを考え、上野さんや岩波の編集者に気持ちを伝えたが、引き留められた、「それをぜひ書いてほしい」と。しかしそれは無理なことだった。私は、この苦しみから逃れるために、徹底して戦時性暴力の聞きとりという方法論に逃げた。書いたものはそれなりに佳作となったと思う。しかし、逃げた。そのテーマにはまだ向き合えなかったからだ。(上野千鶴子・蘭信三・平井和子編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』(岩波書店、2018年)の第10章の付記を参照されたい)。(pp.41-42)

自分は頑張っているという意識は自分も他人も疲れさせる(西部邁)

死生論

西部邁『死生論』ハルキ文庫、1997年より。

※強調・下線は引用者

生の活力を奮い起こしていると意識することが自分を疲れさせる因となる、ということに気づかないほど私は莫迦ではない。人のやみくもに頑張っている姿は、えてして、他人のみならず自己をも困憊に追いやるのであるだから私は、自分の頑張りをひややかに眺めるもう一つの眼が必要であると考えた。その最も簡便な方法は、自分の死について考えかつ書いてみること、もっとあっさりいえば、どう足掻いても自分なんぞに平凡に生きそして平凡に死ぬ以外の途は与えられていないのだと心底から自覚してかかることである本書は、その意味で、私の精神的健康法の産物である。(p.11)

死を語る際に見られる表現上の甘え(西部邁)

死生論

西部邁『死生論』ハルキ文庫、1997年より。

※強調・下線は引用者

物語を含め人間の推論過程にはかならず前提がなければならず、そしてその前提は、数学や(ある種の)詩のように高度の抽象に達しているものは別として、かならず意味さらには(意味の制度化されたものとしての)価値にかかわっている。ところが、それらの意味・価値はあくまで人間の生の局面において定位されるものであり、それゆえ、死の局面が物語・推論の主題となるとき、それまで確実と思われていた諸前提の意味・価値がにわかに無化される、そういう勢いになる

 それをよいことにして、死の物語にあっては、「死」という言葉をふりかざしさえすれば論理を大幅に逸脱することも許されるという具合になっている。語りえぬはずのことを語るのであるから、語りがどんなに乱脈であっても勘弁してもらえるに違いないという表現上の甘えが、死生観にかんする多くの書物に見られるこの甘えなくしては生者が死者の意を汲むことなどできそうにないとはいうものの、度を越した甘えは死者への冒涜になる。(pp.9-10)