自由な語り合いは可能か

仕事のくだらなさとの戦い (そもそも双書)

仕事のくだらなさとの戦い (そもそも双書)

先日、ずいぶんと前に読んだ『仕事のくだらなさとの戦い』を再読してみた。
印象に残ったのは、「競争原理が全体主義を招く」という議論。

自分の存在を他人から承認されたいという欲望をこのように当然視するのは、この資本主義という競争原理を絶対的な原理とする社会が、人間はこの社会で「偉い」存在でもなければ人間をこの世で生きる意味がない存在のように扱うからである。その結果、大半の若者は、自分の能力に自信がもてず、激しいコンプレックスに生きて、しばしば引きこもり、世間に出ることが恐ろしくなる。その裏返しに生まれるのは、あるがままを受け入れてほしいという「居場所」への強い願望だ。ところが、居場所がたまたまあっても、競争原理しか知らない若者にとっては、せいぜい一時的に競争を忘れられるだけで、再び、競争の戦場へ戻る以外の道は分からないことになりかねない。つまり、引きこもりか、さもなければ戦場への復帰かという状態だ。人との敵対状況を前提としてそれを避けられないものと認め、そこから抜け出られないままに「承認願望」を認めるなどということは、結局生きることを辛くさせるばかりだ。(73頁)

その対処としては、もっと大きな権力や権威のもとに服従して、そこに自分の役割を認めてもらい、そこで「承認」される人間関係を作る。その代表は、麻原彰晃を絶対的な指導者として認めるオウム真理教のような新興宗教(新々宗教)か、右翼暴力団に一見優しく受けとめられたり、国家に有益な存在だとして戦争にまで引きずられていくナショナリズムに向かうのが、この「承認願望」を基礎にする人間関係だ。そこではより強い上位の権力による「承認」があり、その承認をうるための戦いがストレートに戦争と暴力への道を押し進めることは歴史が教えてくれる。今まで能力競争によって自信を失っていた若者や弱者が、戦争に役立つ存在として、「承認願望」を満たすことは歴史的な事実である。
二〇世紀最大の教訓として考えなければならない事実は、ヒトラーのような存在の登場が、この能力競争原理によるものであったということだ。この世界で自分を無用な存在と思わせる競争原理こそが、人々を全体主義へと駆り立てたという歴史的事実こそは、「承認願望」とは違う形で、人々が支え合い、生きる「意味」を確認しあえるあり方へと移らなければならないことの必要性を示している。(73〜74頁)

いったい人は、何が大切で、何を何から守ろうとしているのだろう。それすらもわからないまま闇雲に前に突き進んでいればどうにかなるだろうという幻想。「必死であること」それ自体が価値のあることと見なされ、その過程で破壊してしまっているものには意識が行かない。

6月7日付の朝日新聞で、
「『今の人たち、求めすぎ』フランス人尼僧が見た日本・世界・若者―」
と題する記事が載っていた。フランス人尼僧は言う。

「今の人たち、求め過ぎ。日本だけじゃない。世界の問題」
合わないハイヒールで足を取られる人。ブランド物バッグを手にする若者が見える。
「何でも見せたがる。見せつける。思います。自分のアイデンティティは、何ですか」

いくら見せつけても、いつまでも満たされない心。おいしい物を食べても、いい服を着ても、恋人がいても、いい学校を出ても、まだ満たされない心。

『仕事のくだらなさとの戦い』は、労働における自由な語らいに可能性を見出そうとしている。でも、「全体主義を招く競争原理」の中で人はいったい何を語り合うのだろう。

あまり急かされない環境の中で、相手をやり込めようとしたり満たされない心のはけ口にしたりするのではなく、相手を必要とし尊重し合い、心の重荷が消えていくような語り合い。そんな語り合いは現代人にどれほど可能なことなのだろうか。