アンドレ&レジュロン『他人がこわい』書評

他人がこわい―あがり症・内気・社会恐怖の心理学

他人がこわい―あがり症・内気・社会恐怖の心理学

翻訳書であることとタイトルからして、正直初めはあまり期待していなかったのだが、読み進めるうちに意外な名著であることに気づいた。とてもわかりやすくて面白く、およそ300ページもそれほど苦痛ではなかった。精神疾患と診断されるほどに対人関係に対する恐怖心を感じる人が、かなりの割合で存在することも知った。内気・あがり症は程度の差はあっても誰にでも存在する要素で、それだけで病気とは言えないものだが、軽度だからといって放置したまま重度の社会恐怖に陥ってしまった人の例も述べられている。たとえ軽度でも、本人が耐え難いと感じ、内気・あがり症の自分を変えたいと思うのであれば、医師は手をさしのべるべきという著者らの考えには共感を覚える。内気やあがり症をすぐに病気だと決めつけることは避けなければならないが、自分の「症状」に対して、科学的な根拠や説明を与えられると、だいぶ安心感を覚える。
本書を読む中で、「そういうの、あるなあ」と思わされる箇所がいくつもあった。

たとえばひとりでいる時に、過去に恥ずかしい体験をしたことを思いだしたり、恥ずかしい思いをしそうな場面を前もって想像したりするだけで、なぜか赤面してしまうこともある。(64頁)

たとえば、私たちの友人のひとりに、あまり親しくない相手と話をする時に、いつも早口でまくしたててしまう人がいる。そういう時の彼は、私たちが傍目から見てもよくわかるほどの「極度のパニック状態」に陥っているのだ。(74頁)

この本で例として出てくる患者たちに共通するのは、あまり根拠が明確ではない否定的思考(ネガティブ・シンキング)である。そうした思考は、自分が治したいと思っている性質をかえって強化してしまう結果をもたらしかねない。

もちろん、<最悪のシナリオ>が現実となる可能性は、まったくのゼロとは言わないが、ほとんどないといっていい。だが不思議なことに、これほど当たる確率が低いのに、<予期不安>を感じてしまう人は何十回何百回と予想がはずれても、懲りずにまた<最悪のシナリオ>を作ろうとするのだ。まるで、ろくに当たった試しもないのに、なぜか人気がある占い師のように・・・・・・。(99頁)

「失敗した」と思う体験を繰り返し思いだすのは、まさに百害あって一利なしである。たとえるなら、それはまるで弁護士も証人もつけないで裁判にのぞむようなものだ。そこには、第三者の意見がまったく介入しないので、本人にとってもっとも厳しい判決が下されることは歴然としている。結局、「ああ、ぼくはなんてダメな人間なんだ」、「私なんか無能で、何の役にも立たない」と、とことんネガティブな見方をしてしまうのが関の山だ。しかも、こうしたとらえ方を繰り返し行うほど、ますますネガティブな見方をするようになり、どんどん不安が強くなってしまうのである。(104頁)

社会恐怖>の人は、<回避行動>を繰り返すことで、正面から状況に立ち向かう習慣を少しずつ失っていく。そしてやがては、<回避行動>をとらないでいると最悪の事態が訪れると思いこむようになってしまうのだ・・・・・・。それで思いだされるのが、次の逸話である。《白い粉をまきながら道を行く人がいた。それを見た人は「どうしてそんな粉をまいているのですか?」と尋ねた。「象を追い払うためです」。「でも、このあたりに象なんていませんよ」。「もちろん。それは私がこうして『象撃退パウダー』をまいているからです」》。こうした不条理な行動は、いわゆる「負の強化」がもたらした結果である。つまり、ある行動をとることで不快な思いをせずに済むことが続くと、その行動はますます「強化」されていくのだ。こうしてあたかも<社会恐怖>の人は、自らの<回避行動>を正当化するために<回避行動>をとり続けているかのように、傍目には見えてしまうのである。(158〜159頁)

社会恐怖>の人は、周りのどんな小さな変化も、どんなささいな出来事も決して見逃そうとしない。他人が無意識に発した言葉、行動、視線、しぐさを敏感にキャッチして、そこに自分を批判する意図が隠れていないか探しだそうとする。彼らは、「他人は自分に厳しい評価を下すはずだ」と思い、「もし私の弱さがバレてしまえば、きっと攻撃され、軽蔑され、嘲笑される」と信じこんでいる。このようにして、細かいことにいちいち意味づけをするために、しまいには<妄想症(パラノイア)>とみなされるようになってしまう人もいる。(161頁)

第4部の「社会不安を克服する」では、著者たちが認知療法を推奨する立場に立ちながら、その他の薬物療法精神分析療法も紹介されている。認知療法の特徴はどれも一般的なもののように感じられたが、「実際には、何度も問題にぶつかって、進行が足踏み状態になってしまうことも少なくない」(271頁)という。最も参考になったのは、やはり第4部第2章の「もう逃げださない」である。自分が日頃回避している状況にあえて立ち向かい、少しずつ不安を緩和させていくプロセスの事例は非常に参考になった。そこで用いられているエクスポージャー法(自分が不安を感じている状況にあえて身をさらす訓練)は、おそらく各個人でも意識的に試すことができるものだろう。
社会恐怖は、外見にその特徴が現れないのでわかりにくく、精神科医の中でもそれを病気と認めない人もいるという。

社会恐怖>の人たちは、統合失調症精神分裂病)や躁病の発作のように、他人が見て奇異に思う行動をとるわけではない。パラノイア(妄想症)のように他人に対して攻撃的になったり、うつのように自傷行為に及ぶわけでもない。彼らは、こうした他の病気の人たちとは違って、できるだけ目立たないように暮らしている。まるで、聞きわけがよくておとなしい子どものように・・・・・・。ただし、<社会恐怖>の人たちは、聞きわけがよいのではなく他の人たちを怖れているのであり、おとなしいのではなく気おくれしているのだ。結局のところ、はっきりと病気だと診断されるには<社会恐怖>の症状はあまりにもわかりにくかったのである。(152〜153頁)

しかし、これだけ社会恐怖に悩んでいる人が増えている事実からして、そのような人たちに向き合って話を聞く医師や場がこれから必要とされていくのではないか。社会恐怖に悩む人は本書を読んで、そうした症状が異常なものではないのだということ、そしてきちんと科学的な治療法が存在しているのだということを知って、勇気づけられるのではないかと思う。