丸山眞男「超国家主義の論理と心理」書評

sunchan20042005-03-22

丸山眞男集〈第3巻〉一九四六−一九四八

丸山眞男集〈第3巻〉一九四六−一九四八

丸山眞男超国家主義の論理と心理」(『丸山眞男集』第三巻所収、岩波書店、1995年)書評

【研究ノート】

●ヨーロッパの中世国家vs日本の「非中立的」国家主義
ヨーロッパ近代国家は、中性国家たることに大きな特色がある。それは、真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法律機構の上に置いている。(19頁)そこでは、思想信仰道徳の問題は「私事」としてその主観的内面性が保証され、公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収された。(20頁)

ところが明治以後の日本では、近代国家の形成過程でこのような国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。その結果、日本の国家主義は内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠を置こうとした。日本は精神的君主たるミカドと政治的実権者たる大君(将軍)との二重統治の下に立っていることが指摘されてきたが、維新以後の主権国家は、後者及びその他の封建的権力の多元的支配を前者に向って一元化し集中化する事に於て成立した。この過程で権威は権力と一体化した。(20頁)

国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内容的正当性の規準を自らのうちに(国体として)持っており、従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を超えた一つの道義的規準には服しないということになる。これは、主権者が「無」よりの決断者だからではなく、主権者自らのうちに絶対的価値が体現しているからである。それが「古今東西を通じて常に真善美の極致」とされるからである。(23〜24頁)

このように国家が「国体」に於て真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立しえないことは当然である。よって、我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てない。(22頁)私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによって後ろめたさの感じから救われようとするのである。「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。(23頁)

国家主権が倫理性と実力性の究極的源泉であり両者の即自的統一である処では、倫理の内面化が行われぬために、それは絶えず権力化への衝動を持っている。倫理がその内容的価値に於てでなくむしろその実力性に於て、言い換えればそれが権力的背景を持つかどうかによって評価される傾向があるのは畢竟、倫理の究極の座が国家的なるものにあるからにほかならない。これは倫理と権力との相互移入として説明できる。(25頁)

倫理が権力化されると同時に、権力もまた絶えず倫理的なるものによって中和されつつ現われる。公然たるマキャベリズムの宣言、小市民的道徳の大胆な蹂躙の言葉は未だ嘗てこの国の政治家の口から洩れたためしはなかった。政治的権力がその基礎を究極の倫理的実体に仰いでいる限り、政治の持つ悪魔的性格は、それとして率直に承認されえないのである。そこには慎ましやかな内面性もなければ、むき出しの権力性もない。すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼翼としている。こうした権力の矮小化は、政治的権力にとどまらず、凡そ国家を背景とした一切の権力的支配を特質づけている。(26〜27頁)


●究極的価値への相対的な近接の意識
究極的実体(=天皇)への近接度ということこそが、個々の権力的支配だけでなく、全国家機構を運転せしめている精神的起動力にほかならぬ。官僚なり軍人なりの行為を制約しているものは少くも第一義的には合法性の意識ではなくして、ヨリ優越的地位に立つもの、絶対的価値体にヨリ近いものの存在である。従ってここでの国家的社会的地位の価値規準はその社会的職能よりも、天皇への距離にある。(27〜28頁)

職務に対する矜持が、横の社会的分業意識よりも、むしろ縦の究極的価値への直属性の意識に基いているということから生ずる諸々の病理的現象は、日本の軍隊が殆んど模範的に示してくれた。(29頁)封建的割拠性は銘々が自足的閉鎖的世界にたてこもろうとするところに胚胎するが、軍におけるセクショナリズムは各分野が夫々縦に究極的権威への直結によって価値づけられている結果、自己を究極的実体に合一化しようとする衝動を絶えず内包しているために、封建的なそれより遥かに活動的かつ「侵略」的性格を帯びるのである。(30〜31頁)


●独裁観念の欠如と「抑圧の移譲」
このようにして、全国家秩序が絶対的価値体たる天皇を中心として、連鎖的に構成され、上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する、価値のいわば漸次的希薄化にあるところでは、独裁観念は却って生長し難い。なぜなら本来の独裁観念は自由なる主体意識を前提としているのに、ここでは凡そそうした無規定的な個人というものは上から下まで存在しえないからである。我が国の不幸は寡頭勢力によって国政が左右されていただけでなく、寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚なりを持たなかったということに倍加されるのである。各々の寡頭勢力が、被規定的意識しか持たぬ個人より成り立っていると同時に、その勢力自体が、究極的権力となりえずして究極的実体への依存の下に、しかも各々それへの近接を主張しつつ並存するという事態がそうした主体的責任意識の成立を困難ならしめたことは否定出来ない。(31〜32頁)

さて又、こうした自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の移譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系である。「前の恥辱は後の愉快に由て償ひ、以て其不満足を平均し、(中略)恰も西隣へ貸したる金を東隣へ催促するが如し」(福沢諭吉)(32〜33頁)

近代日本は封建社会の権力の偏重をば、権威と権力の一体化によって整然と組織立てた。そうしていまや日本が世界の舞台に登場すると共に、この「圧迫の移譲」原理は更に国際的に延長せられたのである。(33頁)市民生活に於て、また軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。(34頁)


●縦軸の無限性としての天皇
ところが超国家主義にとって権威の中心的実体であり、道徳の泉源体であるところの天皇もまた、この上級価値への順次的依存の体系に於て唯一の主体的自由の所有者とはなり得なかった。天皇は無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っていて、その存在はこうした祖宗の伝統と不可分であり、皇祖皇宗もろとも一体となってはじめて内容的価値の絶対的体現と考えられる。天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。(34〜35頁)「天壌無窮」が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡大が中心価値の絶対性を強めて行く――この循環過程は、日清・日露戦争より満州事変・支那事変を経て太平洋戦争に至るまで螺旋的に高まって行った。(36頁)


【書評】
驚きは半世紀を経てやってきた。丸山眞男の名を一躍有名にした論文のことである。軍国主義に染まった戦時日本における、政治的・社会的意識の構造を見事に抉り出している。「抑圧の移譲」体系が、万世一系天皇家の縦軸によって保障されている構図は、日本の戦争責任のみならず、日本のあらゆる側面における責任の所在が曖昧模糊となることの必然性を物語る。この構図からすれば、責任は無限に天に伸びる縦軸を上って、神話の彼方へと消え去るのである。独裁観念の欠如もこれで説明がつく。

「倫理と権力との相互移入」は、戦時下の日本に限られた現象なのではなく、現在にまで続く日本の思想の大きな特色である。最近マスコミを賑わしている鈴木宗男が「国家のためによかれと思ってやった」とか「政治家として悪いと思われるようなことは何もしていない」だとかいったような発言をする時、そこにはこの論文の鍵概念である「倫理と権力との相互移入」が見られると言うべきだろう。真善美の価値が個人において内面化していない日本人の精神構造の典型である。

阿部謹也は、日本の「世間」と欧米の「社会」を対峙させて、後者が丸山の言う「無規定的な個人」を前提にして成り立っているのに対し、前者には「公の個」がないと言う。(阿部謹也『「世間」とは何か』)世間において「公の個」を貫こうとすると、そこには排除の圧力がかかる。世間が目に見えない権力となってかつそれが倫理化し、一切の自覚もなく陰に陽に個人の独立を阻害する。「倫理と権力との相互移入」の一例をここにも見ることができる。

一点だけ疑問を呈する。「国家主権が倫理性と実力性の究極的源泉」であるところでは、「純粋な内面的な倫理は絶えず『無力』を宣告され」る。「倫理がその内容的価値に於てでなく(中略)それが権力的背景を持つかどうかによって評価される」からである。しかし「無力ということは物理的に人を動かす力がないという事であり、それは倫理なり理想なりの本質上然るのである」(25頁)と丸山は言う。倫理や理想が本質的に、物理的に人を動かす力を持ち得ないと丸山が考えるのは、別の箇所で「真に内面的な人間は真に行動的な人間であるという命題は決して幻想ではない」(「若き世代に寄す―いかに学び、いかに生くべきか―」『丸山眞男集』第三巻所収)と若い世代に説く姿勢と矛盾するように思える。なぜここで丸山は倫理や理想の「無力」をその本質と考えたのか。その理由はわからないままだ。