中西治『新国際関係論』(南窓社、1999年)書評

新国際関係論

新国際関係論

フランケルの本に続いて国際関係論のテキストの書評である。そしてこの本に対しては、フランケルの本以上に多くの箇所において疑問を感じさせられた。本書は内外の理論を紹介することに主眼が置かれているようなので、著者独自の視点を提示している箇所はかなり限られているのだが、本書評では、まず重要事項の整理をし、そのあとで著者独自の視点に対するコメントを付したい。

第一に、1980年代から1990年代にかけて、欧米において展開された「第三の論争」について。「第一の論争は『理想主義(idealism)』と『現実主義(realism)』との間、第二の論争は『伝統主義(traditionalism)』と『行動主義(behaviouralism)』との間、もしくは『トランスナショナリズム(transnationalism)』と『国家中心主義(state-centrism)』との間のものであったとされているが、第三の論争は『実証主義(positivism)』と『脱実証主義(post-positivism)』との間のものである。」(41頁)第一・第二の論争はともに実証主義そのものへの疑問はもたず、それを前提にしつつ行われたものであったのに対し、第三の論争は「『実証主義』そのものへの認識論的挑戦」(42頁)であった。

第二に、ハンティントンの「文明の衝突」論をめぐる論争である。①文明の分け方に対する批判。「アジャミーは全ての文明と全ての個人は多様な文明の影響を受けており、世界の路地は曲がりくねっているのにハンチントンはこれを直線で捉えようとし、どこで一つの文明が終わり、どこから他の未開地域が始まるかを描き出したと批判した。また西欧内部の多面的な文化様相が無視されていると指摘し、儒教世界なるものはどこに存在するのかと尋ねた。」(75頁)②「儒教イスラム・コネクション」という考えに対する批判。「マフバーニーは米国のサウジアラビアへの武器売却がキリスト教イスラム教コネクションとは看做されないのに、どうして中国とイラン間の武器貿易を儒教イスラム・コネクションとして問題にするのかと疑問を投げかけた。」(76頁)③「世界の文明の多様性は認めるが、一つの文明の中の多様性を認めないこと」(81頁)への疑問。この点に関してはハンティントン著『文明の衝突と21世紀の日本』(集英社新書、2000年)の書評でも指摘したとおり、ハンティントンの提言は現実的に不可能である。

①の文明の分け方に関連して、アメリカとヨーロッパ諸国を「西欧文明圏」として一つにくくることへの異論について。アメリカとヨーロッパの間には、共通点よりもはるかに多くの相違点が存在するが、あえて共通点をあげれば「キリスト教」ということになる。しかしこれは「文明を宗教に矮小化するもの」(85頁)であり、本来文明とは「人種、言語、宗教を含む政治的・経済的・社会的・文化的諸要素から成る広い概念である。」(同)

第三に、「ヤルタ・ポツダム体制」について。著者によると、「現在は一般に言われているような『ポスト冷戦期』ではなくて、第二次大戦後の国際秩序であった『ヤルタ・ポツダム体制の崩壊期』」(1頁)である。第二次大戦が終わってソ連が崩壊するまで、一貫して冷戦が続いたのではなく、「戦後冷戦」の時期と共に「平和共存」、「緊張」、「デタント」等の時期も存在した。(39〜40頁)「第二次大戦後の時期を一括して『冷戦』期とし、ソ連崩壊後を『ポスト冷戦』期とするのは第二次大戦後の国際関係を余りにも単純化するものである」(40頁)というのが著者の考えである。これに対しては異論があるのだが、後述する。ここでは著者の「ヤルタ・ポツダム体制」の定義と、それが確認されるに至るまでの歴史的過程をここで確認しておくにとどめる。

著者によると、「ヤルタ・ポツダム体制とは第二次大戦における戦勝国を中心とする体制であり、それを制度的に確立したのが国際連合(United Nations=連合国)である。これはもともと連合国の組織であり、枢軸国側を除外し、連合国だけで第二次大戦後の平和を維持し、新しい国際秩序を作ろうとするものである。」(123頁)また別の箇所では次のように言う。「ヤルタ・ポツダム体制は米ソ共存の体制でもあった。共存には平和的共存もあれば、冷戦的共存もある。冷戦も共存の一形態である。」(202〜203頁)

また、ヤルタ・ポツダム体制が欧米において確立されるプロセスは以下のようなものであった。

(米ソの対立は)朝鮮戦争の拡大と共に激化するが、一九五五年七月に米英仏ソの四か国最高首脳がジュネーブに会して、戦後の現状はもはや変えることができないことを認めあった後、緩和の方向に向かった。しかし西ドイツが久しい間この戦後の現状を認めなかったため東西間の対立は続いたが、一九七〇年八月に西ドイツがソ連との間で戦後の現状を武力を行使して変更するようなことはしないと約束した後に東西間の和解は急速に進み、一九七五年夏にはアルバニアを除く全てのヨーロッパ諸国と米国・カナダがヘルシンキで戦後の現状の維持を確認するに至った。ヤルタ・ポツダム体制は戦後三〇年を経てやっとヨーロッパ・アメリカで認められ、安定した。(124〜125頁)

 第四に、前述のヤルタ・ポツダム体制に関連して、著者の言う「第三次大戦」について。

第一次世界大戦前までの三国協商三国同盟体制は第一次世界大戦で崩壊し、新たにベルサイユ・ワシントン体制が成立した。このベルサイユ・ワシントン体制は第二次世界大戦で崩壊し、ヤルタ・ポツダム体制が成立した。この体制は一九五七年のヘルシンキ会議でヨーロッパと北アメリカで承認され、確立したが、確立と同時に崩壊し始めた。(192頁)

つまり、両大戦前の体制を崩壊に導いたのがそれぞれ第一次・第二次世界大戦であったのと同様、第二次大戦後のヤルタ・ポツダム体制を崩壊に導いた決定的な戦争があり、それは朝鮮戦争ベトナム戦争、そしてアフガニスタン戦争であると著者は言う。そしてこれら三つの戦争を総じて、「第三次大戦」と呼ぶ。

私達は第一次世界戦争とか第一次世界大戦、第二次世界戦争とか第二次世界大戦と呼び、世界に慣れてきたために国際社会の構造を根本的に変える戦争は地理的に世界的規模の大戦争でなければならないと思い込んでいるのではないだろうか。そのためにベトナム戦争アフガニスタン戦争の意義を正当に評価できなかったのではないだろうか。第一次世界大戦第二次世界大戦から世界をとり、第一次大戦、第二次大戦と呼称し、それらの戦争をローカルな大戦争と考えるならば、同じくローカルなベトナム戦争アフガニスタン戦争をこれら二つの大戦争と比較することができるのではないだろうか。そのように考えるとベトナム戦争アフガニスタン戦争は国際社会の構造を根本的に変えたという点で第一次大戦や第二次大戦に匹敵するのではないだろうか。(195頁)

この意見に対しても自分は強く疑問を感じている。詳細は後述するが、著者の論理自体に矛盾する箇所が存在する。

第五に、「行動科学的手法に基づく国際関係研究の試み」について。これには主に、①国際体系論、②政策決定過程論、③国際統合論、④ゲームの理論等がある。①の国際体系論の基礎になっているのは一般体系論(general system theory)である。

一般体系論は一九三〇年代に自然科学の分野において学問が余りにも細分化・専門化し過ぎたことに対する反省から生じたものであり、一つのシステムは幾つかの単位から構成され、そこでは一定の相互作用が行われるという考えに基づいている。(143〜144頁)

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さて、本書における著者独自の視点を検討したい。まずは「ヤルタ・ポツダム体制」についてである。著者の主張からすれば、一口に冷戦と言ってもいくつかの段階があり、戦後ソ連が崩壊するまでのおよそ半世紀を全て「冷戦期」と呼ぶのは適当ではないということになる。その期間全体を称するなら「ヤルタ・ポツダム体制期」と言うべきである、と。しかしながら、思うに「ポスト冷戦期」と「ポスト・ヤルタ・ポツダム体制期」の指し示すものは、双方とも「米ソの共同統治状態の終焉」であろう。著者の定義のとおり、ヤルタ・ポツダム体制とは米ソ共存の体制であるのだから、その一方が消滅したこの体制はすでに存在していないという点では、双方とも共通している。著者が強く言うほど重要な相違はないはずである。どこまでを「真の」冷戦と呼ぶかで違いはあるだろうが、そのような相違は「ポスト冷戦期」の問題を論じる者にとっては瑣末な問題にすぎない。

またこの意味で、著者の以下の認識はおかしなものではないだろうか。

ヨーロッパではポスト・ヤルタ・ポツダム体制期に入ったが、アジアではまだヤルタ・ポツダム体制期が続いている。ヨーロッパではドイツが再統一し、東ヨーロッパ諸国はソ連・ロシアのものではなくなった。(略)しかしアジアでは朝鮮半島は分断されたままであるし、日本にはまだ米軍がいる。(203頁)

著者は自分でヤルタ・ポツダム体制を「米ソ共存の体制」と定義しておきながら、なぜアジアではまだこの体制が続いていると考えるのであろうか。確かに朝鮮半島は分断されたままだが、それはこの体制の存続を意味しない。なぜならもはや(ソ連の跡を継いだ)ロシアが米ソ共存を前提に朝鮮半島に影響力を行使してはいないからである。冷戦期(またはヤルタ・ポツダム体制期)の分断「構造」はそのまま残ってはいても、この体制はもはやアジアにおいても存在してはいないのである。また、現在日本に駐留している米軍の存在目的は、冷戦期とは大きく異なるものとなっている。

次に、朝鮮戦争ベトナム戦争アフガニスタン戦争をまとめて「第三次大戦」と著者が呼んでいることについてである。著者の論理は、国際社会の構造に与えた影響の大きさから見た時、この三つの戦争は、第一次世界大戦第二次世界大戦がそれぞれ当時の国際社会の構造に与えた影響に勝るとも劣らない、というものであった。しかし果たしてそうであろうか。実は著者自身の言葉の中にすでに矛盾が現れているように思われる。すなわち、この「第三次大戦」が「国際社会の構造を根本的に変えたという点で第一次大戦や第二次大戦に匹敵する」(195頁)といいながら、別の箇所で、朝鮮戦争ハンガリー事件、キューバ危機、ベトナム戦争チェコスロバキア事件など体制崩壊の危機に瀕しても、「米ソ両国の指導者達はこの体制を壊さなかった」(202頁)と言う。つまり、著者の言う「第三次大戦」は、ヤルタ・ポツダム体制を「根本的に変えて」などいないのである。第一次世界大戦第二次世界大戦は、はっきりと国際社会の構造を変えた。それと同じような変化は、この「第三次大戦」後には起きてはいない。この「戦争」が米ソ両国を弱体化し疲弊させたことは紛れもない事実である。しかしそれはヤルタ・ポツダム体制、すなわち米ソ共存の体制を崩壊させるには至らなかった。結果的にアフガニスタン戦争がソ連消滅の一因となったことは確かだが、第一次・第二次大戦のような劇的な変化は起らなかった。従って、戦後に起きたこれら三つの戦争を、第一次・第二次世界大戦と並列的に論じることには無理があるように思われるのである。

最後に、著者が唱えるもう一つの独自の主張として、「『ネーション・ステート』は虚構」(2頁、186頁、231頁)というものがある。

ネーション・ステートは、それが民族国家であれ、国民国家であれ、為政者が実現を目指しているものであるが、現実には存在しない。それに賛成するものはナショナリズムを奉じ、それに反対するものはインターナショナリズムを奉ずる。(186頁)

ネーション・ステートとはネーション(民族)を単位として一つのステート(近代国家)を作ろうとするヨーロッパ近代の目標であり、一八世紀末のフランス革命以降はステート(近代国家)が一つのネーション(国民)を作り出そうとしたが、それは理念上の国家であって現実には民族国家も国民国家も存在しない。現実に存在するのは雑多な民族と様々な考え方を持つ人々から成る国家である。それはステート(近代国家)である。ネーション・ステート(民族国家または国民国家)は現実には存在しない虚構である。(231頁)

これは「国民国家」という国際関係論の前提に挑戦するような主張であるが、果たしてその内実はどうであろうか。確かに純粋に一つの民族を単位として国家を形成している国は地球上にわずかしか存在しないだろうが、国民国家の方はどうであろうか。ステート(近代国家)が確立されていくにつれて、ネーション(国民)の存在も確実に形成・強化されてきたのではないのだろうか。近代国家の発展は国民の存在なくしてはありえなかったであろうし、「ネーション・ステート(国民国家)」というものは確かに存在していたのではなかっただろうか。少なくとも、「雑多な民族と様々な考え方を持つ人々から成る国家」というのは、民族国家とは対極の位置にあるものでも、国民国家の存在には全く関係がないように思われる。「雑多な民族と様々な考え方を持つ人々から成る国民国家」というものも可能であり、現に存在しているはずである。

本書は全体的には「内外の研究状況を紹介すること」に主眼が置かれているが、独自の視点を提示している要所要所で論理矛盾をきたしているように感じられた。結論箇所のまとめ方も安易であり、これだけ幅広く内外の理論を紹介しながら、五章の3・4のようなまとめ方をするのでは、あまりにも寂しい。独自の視点を提示している箇所では、これだけのことを言うにはもっと詳細な説明が必要であったように思われる。逆に、四章4におけるキューバ危機の詳細な解説は個人的には蛇足であったと思う。

同意できるような視点はほとんどなかったが、いくつかの点において国際関係論の基礎概念を確認できたという意味においては、勉強になった書であった。


【「ネーション・ステートは虚構」についての補遺】
本書のあとに後藤健生『サッカーの世紀』(文春文庫、2000年)を読んでいたところ、以下のような箇所に遭遇した。これは中西治の「ネーション・ステートは虚構」という見解に通じるものがある。

一つの民族=国民(ネーション)が、一定の領域を支配して、そこに絶対の主権を持った政治的な共同体、政府、国家を作る。それが国民国家(ネーション・ステート)のシステムだ。現実には、国民の概念と実際の国家の領域はそれほど一致してはいないのだが、地球上すべての土地は、一つの国民国家に属し、すべての人は一つの国民国家に属しているとの擬制の上に、国際連合をはじめとする現在の国際秩序は築かれている。(123頁、下線評者)

国民国家が世界で最初に成立し、また最も確実に根づいているはずのヨーロッパにおいてさえも、その国民国家という存在には虚構にすぎない部分が大きい。たとえば、世界で最も古い国民国家であるフランスでも、ケルト系のブルターニュ地方は独立を要求しているし、南部には他のヨーロッパの言語とはまったく違った言葉を話すバスク人が住んでいる。イギリスはもともと、イングランドスコットランドウェールズなどの連合王国であり、今でもスコットランド独立運動がある。また、ドイツは各州の州権が強いし、スペインの各地方も然り、イタリアは都市国家時代からの対抗心が今でも強く、また経済的に豊かな北部と貧しい南部の対立が激しい。(125頁)

日本人にとっては、東北人、九州人という前に、まず日本人なのである。しかし、ヨーロッパ人は、そう単純な帰属意識は持っていない。(126頁)

ここまで読んでもまだ一つ解けない疑問がある。中西および後藤の言う「ネーション・ステート」「国民国家」というのは、実際には民族国家のみを指すのではないのか。ブルターニュ地方、バスクスコットランドなどの例は国民国家擬制であることの証左になるのだろうか。民族(国家)と国民(国家)というのは違うものではなかったのか。国民とは一体何を指すのかという定義の問題から再度考え直す必要があるだろう。