坂本多加雄『国家学のすすめ』書評

国家学のすすめ (ちくま新書)

国家学のすすめ (ちくま新書)

※本書評は2年半前に書いたものです。


【ポイント】

■「制度」としての国家

要するに、国家とは、まず何よりも、ある事態や問題を前にして、人々が当然の如く互いに期待し、さらには承認しているところの、自分も含めた複数の人々の行動の仕組みの一つである。こうした行動の仕組みとは、言葉を換えて言えば、まさしく「制度」と称されるものである。(58頁)


■様々なタイプの国家

近代の国家がどのような制度を備えるべきかに関して、大雑把には、十九世紀の夜警国家から、二十世紀の福祉国家、さらには、前世紀末の四半世紀くらいから台頭してきた市場の働きを重視する新しい自由主義的な国家に至るまで、様々な形態がある。夜警国家は、A・スミスの定式を引けば、国防と治安と道路などの基本的なインフラストラクチャーの管理のみを任とする。国家に属する制度が少ないのである。これに対し、十九世紀末頃から、社会民主主義的な福祉国家の思想が台頭し、それまで社会の制度に委ねられていた社会的不平等の是正や貧困や病気への対処を国家の各種福祉制度や累進課税制度として国家の制度に取り入れていった。最近の新しい自由主義国家は、こうした過度の福祉的制度を整理し、より簡易で小さな政府を目指すものであるが、かつての夜警国家のような規模の国家になることはないであろう。(62頁)


■国家という制度を支える「期待と承認」

国家とは、こうした諸々の制度の維持や形成や廃棄をめぐる様々な協議や闘争が繰り広げられる場でもあるし、私たちも、そうした場で政治過程と称していいような一連の現象が生じることについても、一定の期待と承認を抱いているのである。実は、そうした政治の場への期待と承認こそが、国家という制度の総体を根底から支えるのである。(66頁)

厳密な意味での国家とは、政府や統治機関そのもののことではなく、むしろ、それらの活動を組み込んだところの制度の総体である。(70頁)


■M・ウェーバーによる「三つの正統性」(82頁)

①伝統的正統性=その秩序が、昔からそうであったという事実のゆえに承認されている場合。

②カリスマ的正統性=秩序が、支配者の類い希な力量のゆえに承認されている場合。

③合理的正統性=秩序がある適正な法的ルールによって成り立っているがゆえに承認されている場合。


■「主観的な集団的同胞意識」としての民族

民族という概念は厳密な定義が困難な概念であるが、言語・宗教・習俗といった個別的に同定できる客観的属性に還元できるものではなく、それら諸々の要素を取り込みながら成立した共通の文化=生活様式を共有するところの、主観的な集団的同胞意識であるとすればよいであろう。ところが近年、こうした共通の文化を基盤とする民族という存在が、近代の産業社会に特有の条件のなかから生み出されたものであり、その意味では歴史的に相対的な存在だと説く有力な議論がある。(155頁)


固有の文化に基づく政治秩序建設の権利の要求としての近代ナショナリズム
→それによれば、そもそも民族と呼ばれるような広範囲の人々にひとつの文化が共有されるという現象が、近代に特有のものである。それ以前には、文化はより小さな地域単位で分断されており、民族といった集団は存在しなかった。比較的広範囲に共有される文化があったとすれば、それは貴族層やエリート層の識字能力を中心とした「高文化」と称すべきものであり、世襲的・身分的に再生産されていた。ところが、近代産業社会は、その生産・流通の形態と社会構造のゆえに、民衆一般に識字能力を中心とした共通の平準的な能力と生活様式を要求し、そこから、かつての「高文化」が民衆化され、その伝達も学校教育によってなされるようになる。ここにおいて、広い範囲の人々に「普遍的高文化」が誕生する。いったんこのような「普遍的高文化」が成立すれば、当該地域の共同体が、どのような「普遍的高文化」のうえに建設されるかが、多くの人々にとって切実な利害に関わることになる。そこから、各民族は自分たち固有の文化にもとづいた政治秩序=国民国家を建設する権利を持つと主張する近代ナショナリズムが生まれるというのである(E・ゲルナー『民族とナショナリズム』)。(155〜156頁)


「近代の産物」は確かだが、何もないところから突然誕生したわけではない
→確かに、近代の民族が、産業社会の誕生に代表される大きな社会変動を経過するなかで培われた面が大きいことは事実である。その意味で、このような論議は、それなりに民族というものを、より広い時間的視野で捉えるうえで意義ある貢献をするであろう。しかし、民族が、無から有が生じるごとく、何らの基盤のないところから突然誕生したかのように考えるのはやはり誤りであるし、ゲルナー自身も、必ずしもそうした極端な想定をしているわけではないであろう。(156頁)


アンソニー・D・スミスの「エトニ」概念
ゲルナーの議論を批判的に検討することから、近代の国民生成の基盤となるものが、近代以前から存在していたことに着目して、新たに議論を展開したのが、A・D・スミスである。A・D・スミスは、そうした基盤をエトニと呼び、それは、共通の血統についての神話的理解、歴史の記憶の共有、独自の文化=生活様式の共有、特定地域との結びつき、確固としたアイデンティティーと連帯感を持つ集団だとされる。こうしたエトニは、集団相互の様々な対立や競合のなかで形成され、そうした経過がさらに共通の記憶となって人々を結束させ、彼らのエトニの特質(エスニシティ)を培っていくのである(A・D・スミス『ネイションとエスニシティ』)。(157頁)


エトニを基盤にした文化的共同体から政治的意志を持つ国家への転換
→ヨーロッパ諸国の例を一般化して言えば、近代とともに、こうしたエトニにゲルナーの言うような平準化の作用が働き、一様で平等な存在としての近代的な民族が誕生していく。この民族が単なる文化的共同体であることを脱して政治的意志を有し、国家を形成して、その国家の制度を通して様々な課題の達成や問題の解決を図ろうとする状態になったとき、これを国民と称することができる。そうした運動や思想をナショナリズムと呼び、それに基づいて国民国家が生まれる。(157〜158頁)


■日本と西欧の立憲君主制の違い

西欧の立憲君主制は、法理論上、絶対君主として強大な権力の主体であった君主とそれに抵抗する人民との間の闘争の結果、行政権は君主が、立法権は人民がそれぞれ保持する妥協形態として考えられていた。しかし日本の場合、明治前期の民権派の運動は、五箇条の御誓文を実現しない政府への在野勢力の抗議運動であったし、明治憲法制定後の初期議会における政府と議会との対立は、天皇大権を分掌する機関相互の争いであり、いずれも天皇と民衆の争いではなかった。その意味で、日本と西欧の立憲君主制は相似しているが、その歴史的な由来は異なる。(230頁)


→今日の多くの憲法学者やマスメディアに見られるように、ヨーロッパ的な立憲君主制理論やフランス革命の例を念頭において、天皇の存在と「国民主権」が矛盾するかのように理解するのは、日本の統治の伝統からも、国民感情の上からも誤りである。すなわち、日本は天皇を頂点とする独自の伝統的な制度の構図に立脚しつつ、世界の他の多くの国々とならんで立憲民主主義の国家なのである。(232頁)


■ユーラシア中心部vsユーラシア周辺部(梅棹忠夫『文明の生態史観』)

一九五六年、生態学者の梅棹忠夫氏が『文明の生態史観』という著書で、自ら世界各地を実地見聞した体験から、日本人にとって親しみやすい地域はアジアよりもヨーロッパであると述べ、それまで多くの日本人が不変の前提としてきた、アジア対ヨーロッパとう対比に代えて、ユーラシア中心部対ユーラシア周辺部という対比で考察すべきだとの画期的な提言を行った。梅棹氏によれば、ユーラシア中心部が封建制を経験せず、歴代中国王朝やロシア帝国のように集権的で専制的な政治体制のもとにあり続けたのに対し、ユーラシア周辺部では、日本やヨーロッパのように、封建制を経験し、おおむね緩やかな政治体制のもとに置かれ、近代産業の発展も著しいというのである。(236頁)


【書評】
先日、著者の坂本多加雄が亡くなったとの訃報が届いた。明確な保守主義の立場から国家相対化論に抗する姿勢は自分の価値観とかなり共通する点が多く、いくつかの著作を読んでみてもその論に納得できる箇所が少なくなかった。残念でならない。

坂本の著作を読むのは『求められる国家』(小学館文庫)に次ぐ2冊目であるが、展開される論調はおおむね同じである。すなわち、近年頻出した国家相対化論に抗しまたその幼稚さを指摘し、国家の存在意義を様々な観点から強調しているという点で共通している。

家相対化論において最も顕著なものが、近年人口に膾炙する「グローバリゼーション」とか「グローバル化」などと呼ばれる現象に伴って、国家のできること・すべきことが大幅に縮小されつつあるという主張である。知っている最も身近な例では、大前研一がこのような主張に与している。(Held, McGrew, Goldblatt, Perraton, Global Transformations: Politics, Economics and Culture のIntroductionを参照)

それに対して坂本は言う。

経済のグローバル化にともない、これまでの国家運営のあり方やその構造が変化を求められているということは事実である。しかし、そのことと、国家の存在そのものが無効になるということとは全く別のことである。(38頁)

さらに、「経済の真の意味でのグローバル化とは、モノ・カネ・ヒトすべてが地球上を自在に移動することを意味する」(39頁)なら、ヒトはモノ・カネほどには頻繁に移動しているわけではない、と指摘する。それは、モノ・カネに比べて、ヒトは世界のどこでも普遍的に通用する労働力とはなっていないからである。

ちなみに、たとえ経済のグローバル化が現実のものであるとしても、それは国家の「利益の体系」としての側面のみをとりあげたものであり、他の側面、「力の体系」「価値の体系」としての国家の役割は弱まるどころか、むしろこれからますます重要になるのであり、経済のグローバル化に伴う国家の相対的な後退が即座に「国家の退場」につながるわけではないとの論もある。(国家の三つの側面について論じたのは高坂正堯『国際政治』中公新書、1966年、16〜17頁)であり、それを元にして国家の「力の体系」「価値の体系」としての役割の重要性を強調したのは、櫻田淳(『国家への意志』中公叢書、2000年)である。)いずれにせよ、グローバリゼーションの表面的な現象のみをとらえて国家の相対化の現れだとするのは、短絡的であるとしている。

国家の相対化論が、暗黙のうちにであれ明示的であれ依拠している前提に、B・アンダーソンの「想像の共同体」、E・ホブズボウムの「創られた伝統」がある。これらによると、現に存在している国民国家は近代に入ってから生み出されたフィクションであり、古代から継承されていると一般に思われている種々の伝統的な行事や儀礼が、実は近代に入ってから国家統合の象徴として「創り出されたもの」であるとされている。ここから、国家相対化論者は「国家はフィクションにすぎない」と主張するのである。

しかし坂本は、フィクションに「すぎない」とする彼らの主張に反論する。

『フィクション』という言葉を、私たちが五感によって直接感知する外側の世界に実在しないものという意味で用いるなら、たしかに国家は『フィクション』である。しかし、その場合は、『地球市民』や『国際社会』などというものも、なお一層のことフィクションとなる。すなわち、国家がフィクションだという主張は、実は、それに代わるべきはずのものまでも相対化してしまうのである。(51頁)

問題は、『フィクション』であるか否かではなく、その『フィクション』が何のために存在するのか、あるいは必要とされるのかということである。(52頁)

またアンダーソンやホブズボウムの論を国家相対化の根拠とすること自体にも疑義を呈している。

アンダーソンやホブズボウムの所説について言えば、それらを単に、国家の『フィクション』性を説いたものとして済ませているのは誤りである。彼らの所説は、国家という存在が、いかに自覚的な営みによって形成されたのかを明らかにしたものとして受け取るべきである。(略)国家形成の成功と失敗という問題に対したとき、アンダーソンやホブズボウムの指摘は、私たちに重要なことを明らかにしてくれる。全国的なコミュニケーションのネットワークの形式や、『創られた伝統』が成立する歴史的基盤は、国家成立の重要な必要条件であるということである。(53〜54頁)

坂本の論のポイントの一つに、国家を国民が期待と承認を与える「制度」として認識した上で、その制度は、個々の国民の内面に存在しているものだとするものがある。もし国家と政府を同一視すれば、国家とは自分の外側に存在して、外から自分に対して陰に陽に影響力を行使するものと感じられるかも知れない。しかし、もし国民の内面に国家に対する期待と承認が存在しなければ、政府とは単なる建物を指す言葉でしかなくなる。従って、国家とは、国民の内面に存在する期待や承認を基盤にした制度の総体に他ならない。(61頁、68〜70頁)このような認識に立つならば、制度をどのように評価するのかによって、国家がはたしてフィクションに「すぎない」のか否かについても見解は180度異なってくるだろう。

ゲルナーとスミスの議論についても言及しておく。国民が政治的意志を持つ以前の、文化的共同体としての民族について、ゲルナーは近代の産業社会が生み出したものだと言う。それに対してスミスは、国民生成の基盤となるものが近代以前から存在していたことに着目し、それをエトニと呼ぶ。本書ではエトニについて詳しくは論じられていなかったので、その定義がまだ自分には曖昧なままなのだが、とにかくここでは

共通の血統についての神話的理解、歴史の記憶の共有、独自の文化=生活様式の共有、特定地域との結びつき、確固としたアイデンティティーと連帯感を持つ集団(157頁)

だとされている。このような特徴は、一般には近代に入って国民国家が形成される過程で「創られたもの」だとされていると自分は認識していたが、実際には国民国家形成の過程ではこれらの神話、歴史、生活様式などが「より純粋な形に」精錬されたものだと考えた方が妥当なのかも知れない。つまり、国民国家建設に伴って創造された神話や歴史は、その基盤となるもの(スミスの言うエトニ)がより多様な形ですでに存在していたということになる。

本書の最終的な目的は、国家相対化論を逆に相対化することを通して、イデオロギーに左右されない成熟した国家意識、国民意識の構築を説くことであると自分は捉えている。国家でなくともできることと、国家にしかできないことを厳密に分けて考える必要があることはもちろんだが、本書は、後者が一般に考えられている以上にまだまだたくさんあることを示唆しているように思われた。