青木保『文化の否定性』書評

文化の否定性

文化の否定性

【まとめ】

文化の否定性―反相対主義時代に見る
■自文化に対するアンビバレントな感情

理解されるべきであると外に求めることと、その反対に理解はできまいと内へ引き込もることのアンビバレンスは、どうも自文化に対して人間が感ずるものであるらしく、日本人だけでなく、たとえばタイ人でもスリランカ人でもフランス人でも、自文化をめぐる感情の動きは大小の振幅の差はあろうが同じである。日本人だけのことではない。(15頁)


■文化相対主義の特徴(21頁)

一、西欧文化中心主義に対する対抗的な概念として文化の多様性を主張する。
二、文化はどれほど小規模の単位のものであっても、自律していて独自の価値を有している。
三、人間の行動や事物の価値は、それの属する文化のコンテキストに即して理解され、評価されるべきである。
四、人間と社会に対する平等主義的アプローチ。
五、文化と文化の間に格差はなく、人種や民族の間にも能力や価値の差はない。
六、文化と人間の価値判断に絶対的基準は存在しない。
七、何よりも異文化・他者に対して寛容であること。


■反文化相対主義の発生

第二次大戦の経験は、とくにアメリカにおいて文化相対主義に疑問を投げかけた。ナチスユダヤ人の問題は、逆にそうした非人間的な所業を生み出す文化に対してまで価値の留保をして相対的な態度を守らなければならないのかという気持を自然に人々の間に起させたし、独裁主義と異民族排斥に対して民主主義と自由平等を至上の目的として戦うべきだとする人類の普遍的価値への信頼を強いものとした。文化の多様性の発見と文化間のちがいを認めることよりも通文化的な比較を行ない、人類に共通の要素を見出す方向に、人類学者の関心も向けられた。(25頁)

彼らは文化相対主義を決して全面的に退けるわけではなかったが、そのいかなる文化も価値は等しく、優劣なく取りあつかわれるべきだとする点には不満を表明し、文化にはやはりより良いものとより劣るものとがあることは認めなければならないと考えた。(25頁)


→これまで見られなかった反文化相対主義者の主張の大きな特徴は、文化相対主義を「逆差別」論と感じて批判している点である。(30頁)

文化相対主義が西欧近代文化に対する警鐘となったことは疑いないが、それがエスカレートして逆差別となったという主張は、現在では大きな支持を受けているように思われる。(31頁)


相対主義に替るものを見出すのは困難

哲学や社会学現代思想においても、相対主義はさけて通ることのできない目障りな対象物である。分裂した価値観、多元的になった世界。すがりつくもののない宇宙の中に放りだされたように感じられて、不安でならない。これは現代の特質であろうが、今世紀の世界と人間と科学の動きの本質を見事に示したのが相対主義であったとすれば、世紀の終りに人々が何とか逃れたいと願うのも相対主義からなのだといわんばかりである。(34頁)

哲学や現代思想の反相対主義が、激しく断罪するわりには、では相対主義の後にどういう世界が開かれるのか、という問いに必ずしも明確な答えを出せずにいる。それは宗教的なファンダメンタリストのように、拠りどころとするものを「見られない」からであろう。この世界の状態を考えれば、いまさら調和のとれた一般原理から絶対主義までの、相対主義に替るものを見出すことが困難であるからに違いない。(34〜35頁)


ギアツが憂慮するように、反相対主義の流行は、とかく「俗悪な」形をとって、文化と人間の思考の差異に関係なく、絶対主義への帰順を説く傾向に陥りやすい。その結果、ほとんどが西欧文化の中心的価値の再発見という主張になる。(36頁)


■文化の否定性

私はこの頃、二十一世紀も間近な時代になって、文化が人類を苦しめはじめたのではないか、とよく考えるようになった。文化が人類を苦しめるとは、いかにも唐突な感じをあたえるかもしれないが、この十年ほど世界各地で生活し、さまざまな文化現象と出会い、文化が生み出す困難な状況を経験したところから見て、また現実にいま世界の動きを見ても、おそらく人類史上初めて、文化が否定的な作用をするようになってきた、少なくとも文化をそう受けとる時期が訪れてきた、という気がしてならないのだ。(38頁)

多民族多言語社会の困難は、互いに文化を異にする民族集団が自己の文化を異文化に合せて「国際化」するよりも、文化を存在の中核として異文化との差異をつくり出そうと互いに競い合うところに生れる。(42頁)

文化なるものの存在がうっとうしく、またうとましく感じられてきた。時として、文化を背負うことが重苦しく、文化から逃れられたらどんなに楽かと思わずにいられなくなった。(略)とはいっても、自分に文化が(日本文化が)あると思うことはやはり大いなる安心感をあたえてくれるし、異国にいればその幸せを身に沁みて感じることも事実なのである。異文化の中で生活すればするほど、日本文化をもつことの幸せを感じないでいられない。とともにそれを重荷に思うもどかしさがある。情報化と国際化の時代にあっては、自文化に対するこのアンビバレンスは、一般的にいってもこれから大きなものとなるにちがいない。異文化についての中途半端な理解に苛立ち、自文化にとらわれることのもどかしさに苛立ち、しかも自文化をアイデンティティの根拠としなければならない。(43頁)

こうした状況を見るにつけ、文化は人類社会の調和的発展にとっては、むしろマイナスの要因となると思わざるをえない。明らかに人間と人間、社会と社会、国家と国家との間のコミュニケーションを阻害する要因となっている。(44頁)

「異文化」をすぐに十全に理解せよ、とまではいわないが、「自文化」についてもっと冷静に抑えるようにしたらどうか、とはいいたいのである。文化が人類のコミュニケーションにとってむしろ阻害要因になることが多いことを考えた上で、いま「文化の否定性」を認識することが、大変意味のあることに思えてならない。(45頁)

さまざまな問題があることは承知の上で、いまルナンにならって、地球時代の人類文化の統合体(システム)を築くために、一時的にせよ、世界の各文化は「自文化」についてアムネジアを心がける必要がある。(46頁)


文化とナショナリズム―「単一民族」国家から「文化多元主義」国家へ
■二つの国家理念:「国民国家(nation-state)」と「民族国家(ethnic-state)」

国民国家

フランス革命によってそれまでの「絶対王政」国家が崩壊した後に、「平民」共和制が誕生したことが理念の基礎をあたえた。この理念は、「平民―市民」を国家の主体におく統合体であるが、何よりも合理的で進歩的、あるいは個人主義的な国家理念であり、国家と個人の関係が強調され、市民一人一人が国家の担い手である点が強調された。それはまた国家と個人の間に介在する文化集団や地域統合体の存在をなるべく除くことを要請した。(70〜71頁)

フランス革命的な「国民国家」の理念は、地域や「異文化・異民族」集団がその独自の価値や言語・習俗などを独立して保持することを容易に許そうとはしない。「国民国家」の「中央集権化」は、何よりもその国内に独立した「文化システム」が存在するのを嫌うのである。個人と国家との間に介在するような、民族や宗教や言語の独立集団はみな封建遺制の残存であり、非合理的存在として拒けられる。権利をもつ個人は存在しても、権利をもつ集団は国家統合体の中に存在してはならないのが、その理想なのである。国家の枠内(領土内)で独立した「文化システム」の存在は許せないというのがその本質的な主張である。(73頁)

民族国家

これはドイツにおける有力な国家論として、近代ドイツ国家の成立に影響をあたえた。神聖ローマ帝国の崩壊後、統合体としての国家をもてないできたドイツは、プロシャを中心とする近代ドイツ国家の形成に際して、ドイツ民族=ドイツ国民を国家主体の中核におこうとした。ヘルダーにみられるような、自然的な主体としての民族(フォルク)に対する人工的な統合体である国家(シュタット)の対立という考え方は根強く存在した。民族と国家の綜合こそ近代ドイツ国家のはたすべき役割だというフィヒテなどの主張は、個人と国家という関係でとらえる「国民国家」に対する民族と国家との関係でとらえようとする国家理念を強調するものであり、この国家理念も、ドイツだけでなしに他のヨーロッパ諸国や世界に大きな影響をあたえた。(72頁)


→以上のように、「国民国家」と「民族国家」の両理念を概観してみたのは、現代国家の理念は先進国や発展途上国社会主義国を問わず、ほとんどこの二つの理念を、フランス革命の国家理念が一般的だとはいえ、継承しているからであり、この理念が、今日世界の混乱の原因となっているからである。(75頁)


ナショナリズムと「文化複合主義」

大量交通と情報化とコミュニケーションの飛躍的増大の時代にあって、「国際化」は避けられない現象にちがいないし、文化複合主義も活発にならざるをえない。文化変化を重ねながらも、独立した「象徴と意味のシステム」を保持しよう(たとえ、部分的であっても)とする文化集団は、かえってその文化に眼覚め、鋭くそして象徴的に「文化防衛」意識をもちはじめている。(92頁)


「中間社会」と「国際化」―現代日本社会の条件
■日本文化の「開かれた受容性」と「同化による閉鎖性」

(日本人は)外来の文化要素を受け入れはするが、決してその異文化の文化システム全体としては受け入れず、受容して消化できる部分を日本文化のシステムの中で消化する。(133頁)

ここで問題となるのは、日本人は外来の文化要素を開かれた形で受容して、文化の雑種性をいとわないが、それら外来の文化要素はすべからく日本文化のシステムの中でごた混ぜにしてしまい、外来の文化要素をとくにその元の形とは関係なく用いて、同化し、外来性を意識しなくなる傾向があるという点である。いつまでも外来の文化であり続けるような文化要素は、消化しないまま取り除かれてしまう。異文化を異文化として受け取ることよりも、同化して自文化にしてしまうのである。同化したものはすでに異文化ではないから、雑種的性格ながら日本文化は一種の「純粋性」を保つことになる。同化作用は開かれた受容性を逆に閉鎖的にしてしまうのだ。(133〜134頁)


「熱い国」の行方―シバ・ナイポールの小説を中心に
■「アムネジア」(ルナン)の必要性

ルナンのいう「共有された」アムネジアをいまもっとも必要とするところで、叫ばれるのはアイデンティティばかりなのだ。(184頁)


【コメント】

 読んでいる最中に、本の内容に対する好悪の感情が大きく揺れ動く本というのも珍しい。本書を読み始めた時、「これこそ自分が読みたかった本」と思ったのに、読み終わる頃には、「奇麗事ばかり言うなよ」とでも言いたい気持ちになっていたのである。

 著者は、各個人が持つ固有の文化的背景というものが、その人のアイデンティティの重要な供給源という積極的な意味合いよりも、逆にその文化的背景に絡めとられて精神的に硬直した状態を余儀なくされることで、むしろ重荷になりつつあると考える。文化の影響を楽観的に見るよりも、そのマイナス面をもっと意識すべきだと説く。表題の「文化の否定性」とは、そうした文化のマイナス面を意味する。

 文化というものを、自文化の紹介といったレベルで軽く考えていると、その本質を見誤る。それぞれの文化には固有の価値観があって、文化の間に優劣はないと考える「文化相対主義」は、20世紀後半の一大流行思想となったが、こういう考え方を無批判に当然視していると、とんでもない結果を招くこともある。

多民族多言語社会の困難は、互いに文化を異にする民族集団が自己の文化を異文化に合せて「国際化」するよりも、文化を存在の中核として異文化との差異をつくり出そうと互いに競い合うところに生れる。(42頁)

文化変化を重ねながらも、独立した「象徴と意味のシステム」を保持しよう(たとえ、部分的であっても)とする文化集団は、かえってその文化に眼覚め、鋭くそして象徴的に「文化防衛」意識をもちはじめている。(92頁)

 どれほど小規模な単位であろうと、全ての文化には価値があると考えることは、西欧中心主義に対する対抗概念として極めて大きな力を発揮した。しかし、それによって自文化に「眼覚め」、「差異をつくり出そうと互いに競い合う」ことになった諸民族の中には、そうした運動が先鋭化して、血で血を洗う民族紛争へと発展したものもある。

 文化相対主義をいいことに、俗悪な形で差異を作り出そうとすることには、大きな危険が潜んでいるという著者の指摘は、傾聴に値する議論だろう。そして偏狭なナショナリズムを紛争へと発展させないためには、消極的な方法ながら、各自の抑制しかないのである。

「異文化」をすぐに十全に理解せよ、とまではいわないが、「自文化」についてもっと冷静に抑えるようにしたらどうか、とはいいたいのである。文化が人類のコミュニケーションにとってむしろ阻害要因になることが多いことを考えた上で、いま「文化の否定性」を認識することが、大変意味のあることに思えてならない。(45頁)

 気に入らなかった箇所というのは、文化と政治・経済を切り離して議論していたり、「文化多元主義」(文化相対主義とは異なる)を過度に楽観視している点であった。ただ、結論に対する好き嫌いの差はあっても、今世紀の文化摩擦の行く末に関心がある向きには、興味深い本となるだろう。