歴史学研究会編『国民国家を問う』書評

国民国家を問う

国民国家を問う

【まとめ】

Ⅰ 世界史の構造と国民国家(木畑洋一)

国民国家の定義

国民国家(ネイション・ステイト)
国境線に区切られた一定の領域から成る、主権を備えた国家で、その中に住む人々(ネイション=国民)が国民的一体性の意識(ナショナル・アイデンティティ=国民的アイデンティティ)を共有している国家(5頁)

国民国家が存立するには成員の国民的アイデンティティの強化が必要であり、その強化の試み(国民の一元的統合の試み)は常におこなわれるが、それは人々が抱くアイデンティティの複合性、重層性をぬぐい去るにはいたらないのである。(6頁)

国民国家の定義のうち、国家としての領域性、主権性という点にのみ着目した場合には、その歴史は一六世紀、一七世紀、すなわちヨーロッパの絶対主義国家にまでさかのぼることができる。(6頁)

→しかし、この頃の国家はいわば国民国家の外枠を作りだしたものではあっても、国民国家の内実を備えたものとはまだなっていなかった。さらにいえば、国家の外枠、すなわち国家の領域性自体もまだ完全に明確になっていなかったといってよい。(6頁)

→絶対主義国家に何よりも欠けていたのは国民的アイデンティティであった。国民的アイデンティティの創出=ネイションの創出が、一八世紀以降、とりわけフランス革命以降のヨーロッパにおける国民国家形成の鍵となった。(7頁)


■ネイションの創出を促した要因(7〜8頁)

①一八世紀におけるヨーロッパ諸国間の戦争
Charles Tilly, Coercion, Capital, and European States, AD990-1992 を参照)
 戦争のための戦費調達、兵士徴募に好都合な形での国家領域内の統合強化が、ネイションの形成を促進していった。

②工業化、工業社会の出現(この点を強調したのがE.ゲルナー
 それ以前の農業社会では国家のなかにあったそれぞれ自律性を有するコミュニティの間でのコミュニケーションは乏しく、また低い識字率のために共通の思考様式が広がることもなかった。ところが、工業化の進展によってそのような状況は変化して国家内部の多様性が減退し共通の文化、言語を備える国民的アイデンティティ拡大の条件が整ってきたのである。

→資本主義の展開と結びついた印刷・出版の発展(出版資本主義)をネイション形成の最大の要因とみなしたB.アンダーソンの「想像の共同体」もこの点に関わる。

■先発国民国家であったイギリスやフランスでも、国民的一体性は決して完全なものではなかった。(8頁)

→後発のドイツやイタリアと同様、標準語の確立など国民的アイデンティティの深化を図る努力が続けられた。「一国民、一言語、一国家」という国民国家像は、国民国家形成を進める主体にとっての目標であり、一九世紀においても国家の実体を示してはいなかったのである。(8〜9頁)

■これからの世界で、国民国家という枠は個人と世界(人類)をつなぐ重要な単位として残っていくとしても、個人と国民国家、そして人類の間の関係の仕方は大きく変わっていかざるをえないであろう。既存のイメージでの国民国家、つまりきっちりとした国境線に隔てられ、その国境線のなかで人々の国民意識の凝集をはかり、国内でも対外的にも排他的な意識と行動を人々にしばしば強いていくような国民国家の姿ではなく、意味の低下した国境線のなかでの多様な要素の共存と、国家の枠をこえたより広い範囲での共同性とをともに追求していくような国民国家の姿をイメージしなければならない。(20頁)


Ⅱ 一八世紀 フランス(西川長夫)

■『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』は、これまで国民(ネイション)の虚構性という側面ばかりが注目された観があるが、この書物にはもう一つ、国民国家は容易に移植されうるものだという興味深い主張がある(アンダーソンはそれをModuleという用語を使って説明している)。アンダーソンは主として東南アジアや第三世界新興国に視点を置いて、さまざまの国家的な儀式だけでなく国語でさえも新しく作られることを強調している。これはホブズボームたちの「伝統の創出」に近い考え方である。(25頁)


国民国家の三つの特徴(25〜26頁)

①原理的には、国民主権と国家主権によって特徴づけられる。
 じっさいにどのような政治がおこなわれていようと、その国家を担う主体は国民であることが前提とされるであろう。また国際的に現実にどのような地位に置かれていようと、他国によって主権国家として認められていることが必要だろう。

②国家統合のためのさまざまな装置
 国民国家には国家統合のためのさまざまな装置(議会、政府、軍隊、警察等々といった支配・抑圧装置から家族、学校、ジャーナリズム、宗教、等々といったイデオロギー装置までを含む)が必要であると同時に、国民統合のための強力なイデオロギーが不可欠である。

③世界的な国民国家システム(国家間システム)
 国民国家は、他の国民国家との関連において存在するのであって、単独では存在しえない。つまり国民国家は世界的な国民国家システム(国家間システム)のなかに位置づけられ、それぞれに自国の独自性を主張しながらも、相互に模倣し類似的になる傾向がある。

■もう一つ、国民国家の定義にかかわって、国民国家の形成をどの時点から論じはじめるべきか、という問題がある。これも長い論争の歴史があって容易に結論のだせない問題である。私は、フランス革命によってようやくその全貌をあらわにした国民国家は、けっして一挙に確立されたものではなく、それには長い前史があり、また革命後にも幾度かの手直しや再編成を経て現在にいたっていることを強調したい。(26頁)

■とりわけ近現代の歴史学は、意識的無意識的に国民的なアイデンティティの形成を描きだすことを至上命令としているので、彼らの記述には用心しなければならない。われわれはとかく遠い過去にわれわれの起源を求めがちである。結論を先取りして言えば、国民国家の本質がそのような伝説や神話を求めるのだ。(27頁)

フランス革命は相矛盾するさまざまな動きの混在する、きわめて豊かな可能性をはらむ革命であったから、その全体を国民国家という一つのテーマで要約することはできない。だがフランス革命において国民国家のほとんどあらゆる問題が提起されていること、また革命が次第に国民国家の確立を中心的な課題とする方向に進んでいったことは認めなければならないと思う。(33頁)


国民国家に関する補遺2点(40〜41頁)

①フランス近代の歴史過程(くりかえされた革命と戦争)が示すように、国民国家にとって完成や安定はありえないということ。それは絶えざる制度的手直しや文化・イデオロギー的な統合の強化をはかることによって維持される、不安定な歴史的レジームである。

国民国家はそれ自体が矛盾を内含した矛盾的存在であるということ。国民国家は人びと(国民)の解放の手段でありえたと同時に抑圧の道具であった。それは自由・平等・友愛(統一)の共同体であると同時に差別と排除(女性、子ども、外国人、少数民族、等々)の原理を秘めた共同体であった。それは自己の主権(独立)を主張しながら自己の維持をはかるために、拡大と侵略を必要とする体制であった、等々。


Ⅴ 地域世界と国民国家 アラブ(加藤博)

■中東住民の「アイデンティティ複合モデル」

アラビア語には「民族」あるいは「国家」と訳すことができる言葉として、血縁・民族的概念であるカウム(Qawm)、地縁的概念であるワタン(Watan)、宗教的概念であるウンマ=ミッラ(Umma-Milla)、政治組織・単位を指す概念であるダウラ(Dawla)、心理的・情緒的同胞意識を示すバラド(Balad)などがあるのである。(89〜90頁)

→現在の中東は、他の世界と同様に、国民国家群によって構成されており、この国民国家は、先に指摘したアラビア語の語彙を使うならば、バラド意識をもつ国民を構成員とするダウラということになろうが、さらに、その個々の構成員の帰属意識構造を、アイデンティティ複合モデルで単純化して示せば、図(89頁)のごとくなる。このモデルにおいて重要なのは、血縁・民族的人間集団A、地縁的人間集団B、宗教的人間集団Cはそれぞれ国境を乗り越える人間集団であるということである。(90頁)

→極言するならば、中東の住民にとって、国民国家は自らを帰属させる多くの枠組みの一つでしかない、ということである。(90〜91頁)

■彼らの深層心理においては、宗教のほか、言語、血縁・民族、地縁的要素に対するアイデンティティも存在した。したがって、それらが非日常的契機によって顕在化する可能性はあった。しかし、イスラムが体制化し、社会構造、統治システム、住民の意識構造のすみずみにまで行き渡っていた当時(近代以前)にあって、それらが顕在化することは稀であって、現実の意識形態においては、イスラムを中心とした宗教・宗派が決定的枠組みを提供した。そのため、中東の住民は、たとえば、たとえ喋る言語がアラビア語トルコ語、ペルシア語と異なっていても、その違いが自覚的な政治的主義として主張されることはほとんどなく、言語の違いを越えて、同じムスリムキリスト教徒、ユダヤ教徒と自己を規定するのを常とした。(91〜92頁)

→ところが、近代に入ってイスラム社会・統治体制の根底的変革がなされた。
 現在、国際政治秩序を作りだしている「国民国家」(ネイション・ステイツ)体制は、政治の領域から宗教を排除し、言語の共有を核とした、文化的に等質的な人間集団である「民族」(ネイション)は国境で囲われた排他的な政治単位である領域国家(ステイツ)をもつ権利を有するという思想に基づいている。しかるに、すでに指摘したように、伝統的イスラム統治体制では、統治単位として宗教・宗派集団を重視し、一定領域において排他的な支配権を行使する政治単位を想定しなかったのである。(92頁)

→そのため、一九世紀末以降、オスマン帝国の解体にともなって伝統的イスラム統治システムが放棄され、人口的に設定された国境をもつ国民国家群へと再編された時、多くの政治・社会問題が生じることになったことは、容易に想像がつく。(92頁)

→これらの問題のうち最も重要なのは、国境の軽視に現れている、中東諸国における国民意識の未成熟と、クルド人アルメニア人など、民族自決を主張しながら、ついに自らの国家をもつことのできなかったマイノリティ(少数民族)問題の発生である。(92〜93頁)

→この点において、中東諸国のなかでもアラブ世界の事態はとりわけ深刻であった。というのも、中東の三大民族のうち、トルコ民族、イラン民族がそれぞれ一つの統一国家を建設したのに対して、アラブ民族は、統一国家建設の動きが一部みられたものの、結果的には、現在のような多くの「国民国家」の建設へと向かわざるをえなかったからである。しかし、それはともかく、ここで確認すべきこと、それは、中東イスラム世界が近代ヨーロッパの統治制度をモデルに、民族を構成主体とした「国民国家」群へと再編される過程で、アラブ民族も、他の民族と同様、自らの国家の建設を求めたということである。かくて、政治主体としてのアラブ「民族」が形成された。(93頁)

■現実に、我々はアラブ世界という言葉を安易に、日常的に使うが、歴史的にみて、イスラムが体制化していた前近代においてはもちろんのこと、近現代において、アラブの統合が政治の舞台にのぼるようになってからでさえ、政治理念あるいは政治的可能性としてはともかく、現実において統合的な「アラブ世界」が存在してきたかというと、はなはだ疑問である。(94〜95頁)

→アラブ「国民国家」の形成過程は、国民国家ごと、地域ごとに異なった。
こうした地域偏差を生み出した重要な要因(95頁)
①地理的には地政学的重要度 ②政治的にはオスマン中央権力との距離 ③経済的には貨幣経済の浸透度 ④社会的には住民構成の多様度

→これらの要因の結びつき方の違いによって、ヨーロッパを中心とした近代資本主義の世界システムへの組み込まれ方、それに対応した民族運動の組織のされ方、国民国家の成熟度、民族主義イデオロギーの質の違いなどの地域差が生じたのである。

Ⅵ 米国における「国民」統合とアジア系移民(油井大三郎)

■多様な植民者や移民によって建設された米国の場合には、支配民族が特定の民族集団(ethnic group)に排他的に固定されることが少なく、とくに二〇世紀半ばに入ってからは、少なくとも白人の間では社会的地位の交代や混血などのかたちで高い流動性が維持されてきた。(107頁)

→その結果、米国における人種・民族問題は、ヨーロッパにおいてしばしば見られるような、少数民族が特定地域に集住し、独立志向を絶えず潜在させているといった形態をとることが少ない。むしろ、趨勢的に労働力不足に直面してきた米国の場合には、移民は一か所に留まらず、地域的な移動によって社会的な地位上昇をめざしてきた面が強く、サンストロームが指摘したように、「自由移動性(footloose)」こそがアメリカ人の伝統的な特徴となってきた。(108頁)

→しかも、このような多様な移民を同一の国家内に統合するにあたっては、ヨーロッパやアジアの国々でしばしば見られるような方法、つまり、支配民族内の血縁的紐帯や民族神話を駆使するやり方では有効でないどころか、逆効果でさえあった。その結果、米国の統合原理はますます自由主義個人主義の理念に傾斜していったのであり、米国がしばしば「理念の共和国」と呼ばれるのもそれ故である。(108頁)

■米国も、国内の少数民族への差別と対外膨張を両輪とし、インダストリアリズムやナショナリズムをエネルギーとして成長を遂げてきた近代の西欧列強的な発展パターンを踏襲してきた面も無視できない。ただし、そのナショナリズムは、自由主義などの理念によって「国民統合」をはかってきた面が強い米国の場合、自由主義など特定の政治イデオロギーと一体化された「アメリカニズム」として発現した。(109頁)

→米国においても、国家は、ベネディクト・アンダーソンが指摘するような「想像の共同体」という性格をもつだけでなく、「帝国」的な発展を遂げてきた国家に見られる独特なナショナリズムの発揚という面も示してきたのであり、国民の多人種的な構成や連邦制という国家形態の差だけを強調して、近代西欧の「国民国家」との共通性を無視することは誤りであろう。(108頁)


Ⅺ 在日朝鮮人にとっての「国民国家」(文京洙)

在日朝鮮人は、一九五〇年代半ばに始まる「高度成長」を待つまでもなく、そもそもの形成の出発点から伝統的な農村社会から切り離された、そのかぎりで都市的でプロレタリア化された存在であった。しかし、地縁や血縁を主たるよりどころとする共同体的な人間関係は、植民地期を通して都市周辺にかたちづくられた大小の「朝鮮人部落」の生活にも持ち越され、いわば、そこには疑似的な「共同体」が再現されがちであった。この「朝鮮人部落」は、いうまでもなく、在日朝鮮人がともに直面せざるをえなかった就職と居住を中心とする差別が生み出したものである。きびしい差別と貧しさのなかで相互によりそい助けあわなければ明日の糧もおぼつかないような時代にあって、「朝鮮人部落は、自衛と生活、安息の場所」にほかならず、そこでは言語や伝統的な祭事を基軸に固有の民族文化が外部世界のそれと拮立しつつ維持されていた。(215頁)

→「朝鮮人部落」での共同体的な日常は、伝統社会の安定的で自足的な小宇宙としての共同体のそれとは違って、「民族」という集団意識のたしかな培養基となりえた。そこでは、差別や抑圧にまつわる運命共同体の意識は顕著であり、ナショナリズムは、そうした共同の関係に生き生きとした活力を吹き込んでいた。(215頁)

→ところが、「高度成長」にともなう都市的な生活意識・様式の普及、一言でいえば「都市の時代」への移行は、共同体のあり方を変えた。

→そもそも、「都市の時代」では天下・国家にまつわる公の理念は、個人の生活の安寧と消費という、普通の生活者の理想にとって替わられる。生活水準や教育水準が底上げされ、「狭いながらも楽しい我が家」といった「新中間層」的理想が満たされれば、たちどころに大状況は個々の日常から縁遠くなる。「祖国のため」、「民族のため」といった抽象的な大義もかつての神通力を失い、利益集団化した「組織」のタテマエと化してしまう。要するに、「高度成長」にともなう日本社会の変化は、この間の在日朝鮮人の世代交替や本国の状況変化、さらには「一民族一国家」認識にもとづく日本社会の根強い「同化」圧力などともからみあいながら、在日朝鮮人の「民族」にまつわる価値意識や歴史感覚を、それが成り立つ根拠もろとも解体し、風化させたのである。(216頁)

→やがて、八〇年代ともなれば、「民族」や「国家」にまつわる「当為」としての在日朝鮮人の観念とはほとんど無関係な、在日朝鮮人のあるがままの個性に立脚した自己主張が、日本社会に対しても本国に対しても発せられるようになる。いわばそれは、「国民国家」とか「民族国家」という枠組みでは律することのできない、「エスニシティ」や「市民」(「住民」)として規定されるような歴史感覚の台頭を意味するといえよう。(217頁)

Ⅻ 国民国家を遡る(鬼頭清明
■民族形成の類型(220頁)

①西欧型 ②中東型(異民族支配の再編) ③アフリカ型(ポストコロニアルな道) ④北アメリカ型(植民による民族形成) ⑤ソビエト・東欧型(社会主義下の民族形成) ⑥東アジア型

■このような現象(日本は相対的に見て単一民族と言われても仕方がないということ)が、日本人の研究者のなかでも無意識の間に存在していることは、近年のおびただしい日本文化論や日本人論が、その日本文化や日本人の形成過程や変遷過程、つまり歴史性への配慮を欠いたままで、議論されつづけていることにもよく示されている。すべての日本文化論がそうであるとはいえないが、日本文化の基層という場合などにあきらかに、永遠とはいわないまでも、相当古くからの基層となる同一の日本文化が、この日本列島全体を支配してきたかのような幻想を前提としているようにみえる。(222頁)

■北は北海道から南は沖縄県にいたる今日の国家を構成する主体を日本国民とすればそのような国民は近代にいたって形成されたものであることは明瞭である。江戸時代には北海道の大半は蝦夷地であり、沖縄は島津藩による支配をうけるとはいえ、半ば独立の国家であったから近代日本の国民国家がそのまま、前近代以来の日本の民族的結集の所産と同一でないことはまちがいない。(223頁)

→前近代の日本というアイデンティティと、近代のそれとのあいだには、明治維新以後の近代国家による、政治的、人為的作為が機能していたとしか理解できないのであって、すくなくとも日本人としてのアイデンティティが、近世と近代とのあいだで異なっていたことは確認できよう。日本における国民国家の成立が、近代固有のものであって、したがって、前近代からの民族の発展過程の自然成的結果としてのみうまれたものではないことを示唆しているといわなければならない。(223頁)

■前近代の歴史的遺産は国民国家の伝統創造の道具として利用されることになるが、その道具、素材が国民国家形成過程に占める位置によって、その国民国家の性格、個性が決定されるという点もみのがすことはできない。(225頁)

→そのことは、日本のように、天皇制を機軸に近代国家が形成された場合の国民国家では、道具として利用した天皇制が歴史的に果たした大きさを抜きにして、その個性を議論することができないことに端的に見られるものといえよう。(225頁)

■安丸(良夫『近代天皇像の形成』岩波書店、1992年)によれば、近代天皇制は次の四つの要素を持っているとされている。(228頁)

万世一系の身分秩序・階級性 ②祭政一致の神政 ③天皇と日本による世界支配 ④文明開化のカリスマ的推進者

→これらの近代天皇制の特徴のうち、①と③の二点は古代以来の天皇制が保持してきたものである。もちろんこのような天皇制の性格は、実態として、継続して、日本列島に存続していたわけではない。すでに今谷明(『室町の王権』中公新書、1990年)などが明らかにしているように、中世の後半には、天皇のもつ実効性のある政治的範囲は、相当に限定されていたものである。室町時代にあっては、③は実態を完全に失っており、足利義満のように天皇にとって代わろうとする状況が成立していた。(228頁)

→したがって、この天皇制に総括されるべき日本国民とか日本民族とか呼ばれるものも、その総括のされ方は、中世的な限界を持っていたとしなければならない。少なくとも、それと関連する為政者を除けば、どれほど全体としての日本人の意識としての当時の民衆に天皇制が影響をもったかどうかという点については、疑問とせざるをえない。中世は、中世としての政治状況が天皇制を再生産していたのであり、それ以上のものではない。(228頁)

■さらに、今ここで問題にしている近代の天皇制にあっては、②の祭政一致の神政を行うものとしての天皇が強調されるが、前近代のそれとの間には大きな違いがある。確かに神政という伝統が存在したことは間違いないが、それは仏教との混在を前提としてのものであった。すなわち、近代天皇制の成立は、古代天皇制の単純な復活ではなく、天皇制としては純化した形での神政の創造が行われているのである。それは、維新政府の天皇の神権的権威の確立策として行われた、一八六八年の神仏分離政策に代表される。(228〜229頁)

→したがって、近代天皇制は、古代以来の天皇制の歴史と伝統のうえに形成されたという側面だけでなく、純化された神政の主催者として、あらたに創造された側面に注目する必要がある。廃仏毀釈が強行されたのも、そのような天皇の伝統を創造する必要があったからに他ならない。このような必要性は、国民国家を形成し、近代天皇制を成立させようとする勢力が対抗した幕藩体制神仏習合を前提とし、寺請制度を媒介に仏教を支配の道具としていたからに他ならない。(230頁)

■また安丸のかかげる近代天皇制の四つの要素の中で、天皇制の万世一系という①の要素については、万世一系を主張する古事記日本書紀天皇家による日本の統治の起源を説明するために七世紀末から八世紀初頭に創造されたものであるとすれば、これこそ、古代における天皇制の造作、したがって、天皇制的「国民=公民」の創造に他ならず、明治以後の近代天皇制の創造は、古代における伝統の創造の二番煎じということになる。(230〜231頁)

■古代の天皇制を一体となって支えたのは律令制と呼ばれるシステムであった。(231頁)

→この律令支配体制においては、全国的に戸籍制度がつくられ、文字による文書主義の支配が貫徹し、租庸調などの統一的租税制度が実施されたため、律令国家の領域内では、上からの政治的な支配によるという限界はあるものの、各地域の狭い孤立した生活様式をこえた、文化的統一性が成立していた。(231〜232頁)

→この律令国家はその全国画一の租税、戸籍、文字の普及という点では、明治維新以後の国民国家的要素の素型をもっている。(232頁)


【書評】
 印象に残った章のみをまとめたが、その多くについて言えることは、アンダーソンの「想像の共同体」やホブズボウムの「創られた伝統」を前提にして論じられていることだったように思う。すなわちそれは、国民やその元となる民族という枠組みは、近代における種々の国内的・対外的要因によって人為的に生み出されたものであるという認識である。そこには、国民というものは近代の産物に「すぎない」という国家相対化論につながる暗黙の了解があり、国民または国家という枠組みは、新世紀においては乗り越えられるべき存在であると考えられている。

 しかし、この「想像の共同体」や「創られた伝統」という概念を認めつつも、この国民または国家という枠組みに対して全く異なる解釈をする論者たちもいる。坂本多加雄の主張に明らかなように、彼らは国民国家を人為的に創り出されたもの「にすぎない」という考え方に真っ向から反論する。もし仮に国民国家が想像の産物にすぎないのであれば、国家の枠組みを超えたより大きな枠組み―国連、地域的国家共同体など―も同様に想像の産物となる他はない。従って、それが想像の産物であるか否かという問いは本質的なものではなく、それ自体では国家を相対化することにはならない。

 ヨーロッパにおける史上初の国民国家は、アンダーソンらが言うように、近代における工業社会の出現と国民国家間の戦争の常態化によって形作られたものであることに違いはない。しかし、再び坂本の論に依拠するならば、全く何もなかったところに突然国民国家が現れたわけではない。すなわち、国民国家は近代以前の長い歴史によって徐々に形成された、その地に特有の共同体を引き継いだ存在であり、近代国民国家が持つ新しい特徴と同様に、それ以前の国家とのつながりや共通性にも目を向けなくては、国民国家の本質に迫ったことにはならないということである。

 無論、西川が論じるように、「国民国家にとって完成や安定はありえない」し「それは絶えざる制度的手直しや文化・イデオロギー的な統合の強化をはかることによって維持される、不安定な歴史的レジーム」(40〜41頁)であることもまた確かなことであろうから、現に存在している国民国家がそのままの形態と特徴を保って存続していくことは不可能だろう。しかし、それだけでは国家の存在意義を相対化したことにはならない。国民国家はこれからも当分は続くであろうし、それに代わりうる共同体を模索するにしても、それは国民国家の特徴を一部引き継ぐものにならざるを得ない。

 人間は想像する生き物である。国民国家は想像の産物だという理由だけでその価値を減じることはない。むしろそれが想像によって生み出されたということにこそ価値があると考えるべきだろう。それは戦争が常態化した当時の状況において、西欧人の叡智が生み出した共存のための最善策であった。