酒井啓子『イラク 戦争と占領』書評

イラク 戦争と占領 (岩波新書)

イラク 戦争と占領 (岩波新書)

 先日レヴューを掲載した森本敏編『イラク戦争と自衛隊派遣』は、「イラク戦争を肯定的に評価する立場から論述」(森本、5頁)した本だった。しかし、本書はむしろ全く正反対の立場から、すなわち「今回のイラク戦争は、イラク人はもちろんのこと、国際社会の多くが、その正当な理由を見出せない理不尽な戦争」(105頁)という認識を持って書かれたものである。前者だけを読んでいては全くわからない現実が、嫌というほど本書では描かれている。イラク国民の立場に立った場合に何が最も必要とされることなのか、という視点が一貫して維持されている。

 まあしかし、これだけアメリカの占領統治の失敗ぶりが暴かれてみると、二つの本が書かれた時期に1年半ほどの開きがあるとはいえ、米英軍のテロ掃討作戦の効果は着実に現れているという前者の認識(森本140〜141頁)の信憑性を疑いたくもなる。

 ただ、本書の中でたびたび利用されているイラク世論調査などは本当に信頼してもいいデータなのだろうか。また死者数を「イラクボディカウント」というネット上のデータに依拠しているけれども、この信憑性は大丈夫なのだろうか。その点が少し気になり、読んでいてその数字から引き出される解釈を鵜呑みにはできなかった。

 著者の言うとおり、「戦後のアメリカの対イラク統治政策は常に行き当たりばったり的な色彩を払拭できない。」(146頁)戦争前には国務省が中心となって「イラクの将来プロジェクト」が作成され、在外イラク人が中心となってかなり妥当性のある提言を報告書としてまとめている。(123〜124頁)しかし、そこで議論されていたことと全く正反対のことを占領軍が行なっているとしか思えない事態が現出している。

しかしながら驚くべきことは、そうしたアドバイスが「してはいけない」と警告したすべての落とし穴に、戦後の駐留米軍は嵌ってしまったのである。あたかも、失敗すること自体が目的だったかのように。(22頁)

 戦争を起こせばそのあとに混乱と無秩序が続いてくるだろうことは、

ある意味で誰にでも想像のつくものであった。だからこそ、アメリカが戦後フセイン体制に代替すべき秩序体系を何も準備していなかったことに、かえって驚かされるのである。(22頁)

ブッシュ政権は、フセイン体制が具体的にどのような形で倒れるのが良いのか、ということについては、最後まで判断を保留にしていたのではないか。いかなる形であれ倒れさえすればよいという、「戦後のあり方は成り行き任せ」的な発想が、アメリカの対イラク政策を支配していたように思える。(129頁)

 米英軍によるイラク占領統治において最大の矛盾は、「イラク民主化」を大義の一つとして掲げていた米英軍が、戦後の統治行政において明らかに民主化に逆行する政策を取り始めていることである。最大の誤算は、戦後のイラク社会における「イスラームの復興」であった。

この矛盾がどこから来たのかと言えば、アメリカの考える「民主化」というものが最初からイスラーム勢力の政治的台頭を前提としていなかったからにほかならない。(中略)ネオコンや亡命イラク人は、フセイン政権を打倒すれば政治的社会的空白が生じ、そこに新たな西欧的市民社会を一から構築することが可能だ、と考えた。その意味で、イラクという土壌は「民主主義移植」のための壮大な実験場に見えたのである。(「Wild West(大いなる西部だ)」―2003年4月5日付け英『インディペンデント』紙、パトリック・ニコルソン記者の南部イラク訪問記の見出し。2頁)だが実際には、イラク社会においてイスラームに基づく社会秩序概念やネットワークが厳然と機能していることに、アメリカは気がつかなかった。(206〜207頁)

フセイン政権は、これまで国家と個々の国民の間の仲介物を排除し、個人個人の忠誠を直接「国家」、すなわちフセイン自身に結びつけることで、個人独裁体制を強化してきた。つまり、宗教ネットワークや部族的紐帯、共同体的結びつきに基づいた地域社会の指導者の存在をフセインは一切認めず、すべてがフセインに繋がるような、徹底した中央集権体制をとってきたのである。(169頁)

 このようにフセイン政権下では徹底して中間に位置する共同体が排除されてきたために、戦争によって政権が消滅した際には、イラクに無秩序状態が現れることが前々から懸念されていたのであった。しかしながら、実際にはシーア派を中心に宗教ネットワークや部族的紐帯を基盤にした地域共同体はしっかりと生き延びており、戦後まもなくその活力を公に示すこととなった。

 「イスラーム勢力を中心としたイラク民主化」という考えは毛頭なかったアメリカにとって、これは憂慮すべき事態となった。そこで、イスラーム勢力による国の統治、ひいてはイスラーム国家の成立を阻止するため、選挙や宗教活動に厳しい制限をしく結果となった。このような政策がますますイラク人たちに不信感を植え付け、より一層復興行政を難しくしていく。理念と現実のギャップがますますアメリカを追い詰めているのである。

 妥当な占領政策も持たずに、「民主化市場経済化」という理念に固執してますます泥沼に嵌っていきつつある占領軍。著者にとって、占領統治の失敗の原因は明らかである。

結局、アメリカの占領統治の失敗は、復興行政に携わる実務能力もないのに権限ばかりを独占していることに起因しているのである。(220頁)

 『アメリカはなぜイラク攻撃をそんなに急ぐのか』(朝日文庫、2002年)の中でも、サンドラ・マッケイが、フセイン追放後のイラク国内の混乱を予測していた。本書の著者が指摘するように、言ってみれば誰でも予測できる事態だったにも関わらずなんら事前に妥当な政策は練られず、誰にでも予測できたはずの結果に今米軍は苦しめられている。現政権の政策決定過程のどこかに致命的な欠陥が存在していると見るべきだろう。

 前著『イラクとアメリカ』(岩波新書、2002年)のレビューでも述べたとおり、イラク戦争の開始が現実味を帯びたのは、泥沼化が懸念されたアフガニスタン戦争が予想外にあっさりとケリがついた時であり、その事実がイラクでも同じように短期間の戦争で片が付くと政権中枢のメンバーに思わしめたのだった。

 70年代末から80年代初めにかけて、イラクが高度成長期の真っ只中にあった時、日本の民間企業がイラクの建設プロジェクトを次々と請け負っていたことも本書で初めて知った。もう一度日本のイラク復興事業への貢献の仕方について考え直す余地はありそうである。

七〇年代末から八〇年代初め、二度の石油価格の急騰を受けてイラクが最も高度成長期を謳歌していたとき、イラクの建設プロジェクトを次々に請け負って市民生活や産業施設などのインフラを整備していったのは、日本企業にほかならない。日本企業に最も多く建設事業を発注した国のベスト一〇を見ると、イラクは一九七七年と七八年、そして八一年には第二位、七九年と八〇年にはトップとなっている。イラクとの貿易相手国を見ても、この期間日本はフランス、ドイツと並んで常にトップに位置していた。請け負った事業内容を見れば、バスラを中心とした南部の石油化学コンビナートや港湾施設建設、発電所から始まって、首都の高層マンション群や官庁施設、全国各地の高速道路など、人々の生活に密着したものばかりである。なかでも全国に一三件建設された総合病院は、今こそ一刻も早い機能回復が期待されている。つまり日本がかつて築き上げたイラク社会での信頼感とは、民間企業の経済活動によって醸成されたものであった。「日本」がブランドとしてイラクの人々の意識に定着していたことは、イラン・イラク戦争中外貨繰りが苦しくなったイラク政府が、日本製品の輸入を止めて東南アジア諸国などからの輸入品で代替したとき、それが現地の新聞の社会面で批判の対象になるほどだったことからもわかる。筆者がバグダードを訪問した二〇〇三年七月の時点でも、道行く見知らぬイラク人に「日本企業はいつ戻ってくるのか」と聞かれるほど、その期待感は強い。(中略)
イラクでは現在、外国軍はすべて「占領軍」と見なされる環境が着実に形成されつつある。移動するたびに「アメリカ人だかイタリア人だか、ポーランド人だか、そしてよくわからない顔の兵隊たちに「止まれ」と制止されるような」(あるイラク人のインターネット日記より)状況のなかで、イラク人たちは「ここは自分たちの土地なのに」と、反発を強めていく。そのなかで、日本もまた「占領軍」でしかなかったという認識が強まれば、日本に対するイラク人の期待が高い分だけ、イラク人の失望感もまた深いものとなろう。(229〜230頁)