朝日新聞社編『何がオウムを生み出したのか―17の論考』書評

sunchan20042005-06-30

何がオウムを生み出したのか―17の論考 (ASAHI NEWS SHOP)

何がオウムを生み出したのか―17の論考 (ASAHI NEWS SHOP)

しばらく書評から遠ざかってしまった。やらないといけないこと、読まないといけない本は、一生かかっても終わらないほど山積みだというのに、なかなか進まずにいる。普通研究というものは、素晴らしいものであればあるほど途中で何度も挫折を味わうはずのものだと思うが、自分の場合は始める前からすでに停滞している。こういう時は淡々と本を読んでいくしかない。

まずは先学期で軽く読んだオウム真理教関連の本についての書評を簡単に済ませておく。このブログでも掲載したThe New Terrorismのペーパーを書く際に読んだものである。

タイトルからもわかるとおり、この本は17人の識者が、それぞれの専門分野からオウム真理教について分析を加えたものである(本書が出版されたのは、サリン事件の5ヵ月後)。その中には自分が私淑している、橋爪大三郎山崎正和養老孟司の諸氏も含まれている。また、対談における宮台真司の発言と西垣通の論考は非常に刺激的な内容であった。いろいろな人がいろいろなことを言っているが、ペーパーを書く際に自分が最も注目していたポイントである「オウムと若者(特にエリート学生)の関わり」と「宗教と科学の関係」について書いてみようと思う。

本書の中で、宗教学者井上順孝は、「なぜ多くの優秀な若者がオウム真理教に入っているのか」という問いには、それ自体偏見を含んでいると指摘する。

伝統ある既成仏教宗派などであれば、知識人がその宗派の信者であっても疑問をもたれることはないようなのに、新宗教の場合にこの疑問が出てくるというのが偏見と言いたいのである。(50頁)

オウム真理教は、確かに多くの点において、既成仏教のみならず、他の新興宗教団体とも異なる特徴を持った教団であった。しかし、この教団を日本社会の鬼子的存在として例外視するには、あまりにも現代日本社会の特徴を反映しすぎている。自分が無意識に持っている偏見を意識しつつ、冷静にこの教団の実態を見なくてはならない。

オウムに入団した若者については、「目新しい現象ではない」とする意見が本書では多い。例えば、浅羽通明は以下のように言う。

いつの時代にもあった若者の現実嫌悪と社会改革の夢が、ニューモードで登場しただけ。マルクス主義が時代遅れとなった後、精神世界や宗教、オカルトのイデオロギーがそれにとって代わった。衣装は珍奇だが、核にある心性は決して目新しいものではない(83〜84頁)

他方で、理系エリートが直面する現実に入団の動機を見出そうとする論もある。

アカデミズムの権威が無力化し、社会的に機能していないことに彼らは直感的に気付いた。そして、自分たちで理屈だけでなく、制度やテクノロジーを導入し、やってみたということだろう。だが、彼らが決定的にダメなのは、専門家教育は受けているが、社会制度の運用について訓練されていないことだ。陰謀説を信じているようだが、先進諸国が動いている現実のメカニズムについて全く無知であることを露呈している(米本昌平、90頁)

今の科学者養成のシステムにうまく乗れず、ドロップアウトした人間がカルトに走る土壌は東大などでも見られる。オーバードクターなどの構造的問題もあり、自分が正当に評価されないと感じた彼らがオウムに入ったメンタリティー(心情)は特別なものではない(佐倉統、90〜91頁)

僕はSF少年だったんだけど、ガキのころ読んでいたSFによれば、科学が未来を輝かしくするゆえに、科学者も輝かしいはずだった。ところが、同世代で理科系に行ったやつは輝かしくも何ともない。大学に残ったら教授のかばん持ち、民間に行ったってタテ割り組織の中で、わけのわからないことをやらされる。そんな中で、科学は輝かしい、救済に科学は不可欠だと、科学の全体性を取り戻すような環境を与えられたら、ひかれるのはよくわかる。(宮台真司、126〜128頁)

これらのエリートたちは、宮台の言う「終わらない日常」を生き抜くだけの分野横断的な教養を持たず、山崎正和が言うように、中途半端な強者にすぎなかったのだった。「終わらない日常」とは、宮台によれば、「これからは輝かしき革命も、おぞましきハルマゲドン(最終戦争)もやって来ない。延々とこの日常が続くなら、その中で戯れて生きるしかないのよ、といったイメージ」(123頁)を意味する。これを到底受け入れることのできない「二流」エリートたちが、全世界に一挙に変化をもたらす終末思想に惹かれていった。

皮肉なのは、近代に疲弊した若者たちが、近代を超えようと終末論に惹かれていったにも関わらず、その終末論を支えていたのは、自分たちの技術開発によって万人を救済できると信じる「技術万能主義」にすぎなかったことである。浅羽通明は言う。

在家信徒の一人と話したが、彼はオウムの技術開発が進めば、万人の救済が可能だと考えている。つまりは進歩啓蒙の思想で、近代の技術万能主義の裏返し。東洋思想やオカルトで近代を超えたつもりでいるが、結局は近代の手のひらで踊っているにすぎない(91頁)

ではどうすればよいのか、については本稿末の西垣通の引用を参照してほしい。

「宗教と科学の関係」について。

佐倉統は「もともと科学において合理性とオカルトはつねにセットだった」(91頁)と言う。そして「二十世紀の半ばにオカルトの部分が切り放されたが、長い科学の歴史から見たら、今は特殊な時代」(91頁)だとも言う。

五〇年代に分子生物学がDNA(デオキシリボ核酸)モデルを打ち出し、生命すべてが物質に還元されるという還元論が全盛となった。そのアンチテーゼとして科学におけるオカルトの部分が、八〇年代から興ったニューサイエンスの反還元論、反機能主義に走った(91頁)

他方で、オウムは「科学技術との強い結びつきに著しい特徴がある」(160頁)点に違和感を覚える五木寛之のような論者もいる。

宗教の立場は、むしろ科学や合理主義という近代の思想と全部逆行すべきだと思います。だから、オウム真理教が科学を無条件にとりこんでいったことに、私は根底的な違和感を抱きました。(145頁)

The New Terrorismのペーパーでも論じたことだが、この点が全世界で進行しているいわゆる宗教テロリズムとの違いのように思われる。キリスト教原理主義のテロリスト、イスラム原理主義のテロリストは、少なくとも「科学技術の開発を通して万人を救済する」という思想は持ち合わせていない。

宗教と科学の話に戻そう。佐倉統は別の本の中で以下のように述べている。

「いくら科学で調べてもわからぬことがある。だからオカルトに惹かれる」という理科系の学生がいる。とんでもない!理解できない神秘があるから科学で探求するんじゃないか。(『仏教・別冊 オウム真理教事件――宗教者・科学者・哲学者からの発言』No.8、1996年1月、190頁)

またこれと同じ本の中で、村上陽一郎が極めて示唆に富む論を展開している。少し長くなるが引用してみよう。

近代社会においては、かつて宗教が果たしてきた社会的機能のいくばくかは、科学によって肩代わりされてきたのである。時に、やや皮肉を込めて「科学教」などという表現が使われるのは、この辺の機微に由来しているのだろう。そして、近代社会のなかでは、人間として、それで十分である、それ以上に何を求めようとするのか、という姿勢をとる人々が多く造り出されてきたことも事実と言えよう。(中略)

しかし、そこに限界があることも、見やすい道理である。第一には、事実として、「それで十分である、それ以上に何を求める必要もない」と断じ切れない人々が存在している、という点を挙げなければならない。自分の生存が、「科学教」の与える解決だけで十二分に、確実に、保証されている、と感じられない人々が、社会のなかに確かに存在している。オウムの例に戻れば、研究のキャリアの進んで、科学者としてエリートへの途を歩み始めた人々が、どうして他愛もなくあんなまやかしに、と世間はしばしば訝るが、訝るということ自体のなかに、すべからく科学教で満足すべし、という提題が含まれていることに、どれだけの人々が気づいているのだろうか。科学が与える価値に充足できない人々の存在が、それほど奇異に映る、という事実こそ、実は奇異なのではないだろうか。

今、私は「科学が与える価値」と書いた。ここで多少の寄り道を許していただきたい。というのも一般には、科学は価値には関わらないと信じられ、また学問的にも、科学的知識は価値中立的(M・ウェーバーの言葉を借りれば≪wertfrei≫)であると主張されることが多いからである。しかし、私は全くそうは思わない。科学は極めて強く一つの価値を主張するものであると私は考える。それは「世界に生起するすべての現象を、≪もの≫の振る舞いとして記述する」ことを唯一の価値として主張する知識体系だからである。そこから外れたものはすべて否定することを以て科学は成立しているからである。価値という概念については様々な定義ができるだろうが、それが何らかの形で「評価」を導くものであり、「評価」とは対象に対する選択であり取捨である、という点に大きな異存はあるまい。そうだとすれば、上に述べた科学の主張は(そして、科学がそうした主張をすることによって自己を限定してきたという事実認識に誤りはないと私は考えるが)極めて明確な一つの価値基準の提唱となっていることにも、異存は生じないはずである。

そうだとすれば、いや、まさしくそうだからこそ、科学はかつての宗教の機能を一部なりと代行し得たのだろうが、科学が導く評価と選択に満足できない人々の存在は、事実としてのみならず、原理的にも当然のこととして認められることになる。

(中略)近代ヒューマニズム社会の教育に従えば、真理の体系とよぶべきものは科学以外には存在せず、人間はそれに依存せざるを得ないとされ、それ以外のものは、論じるに足らない単なる社会現象として見ておけばよい、ということになる。したがって、科学が導く評価と選択に満足できない人々は、社会のなかで、その満足の不足を補うことの正当性を、公的にはどこでも認められていないという状況下に置かれていることになる。」(前掲『仏教・別冊』186〜188頁)

村上の文章を読んでいると、「宗教と科学の関係」というように宗教と科学を対立的に論じることがむしろ特殊なことであることのように感じられてくる。科学が宗教に取って代わったのではなく、科学が宗教の機能の一部を代行しているのだという認識がそこに提示されているからだろう。そして確かにそのことは間違いのないことのように思われる。

この事件はテロリスト集団への法的対応という現実的な問題を超えて、思想や哲学の分野にまで大きな問題を突きつける事件であった。報道のセンセーショナルな側面を超えて考えなくてはならないことがたくさんある。

本書では、このオウム事件について各々の識者が秀逸な議論を展開している。余計な解説を入れずに、そのものを以下に引用しよう。念のため、自分が付けたタイトルと論者の氏名だけは記しておく。


■白黒つけたがるのは病気(宮台真司

結論めいたことなんだけど、ものごとの白黒をはっきりさせなければいられないのは、病気だと思うんですよ。ある意味で一神教的な世界の作法でしょ。ぼくらのような一神教的な神のいない世界では、社会はそこそこ薄汚れているし、人間もそこそこ薄汚れている。でも、それでも生きていけると思うことが重要なんです。
この間も、白い服着て街でビラをまいているサマナ(出家信徒)の女の子に話を聞いたんだけど、「白い服好きなの?」と聞くと、「はい、好きです。白くなりたいんです。でも私は修行が足りないから白になれないんです」とか言ってる。僕はそれは違うと思う。真っ白になるとか浄化しようというのはニセモノの修行だと思う。ありもしない輝かしさにあこがれるのと同じこと。それは一番こわい。ありもしない輝かしさを提示する「父」や、そういう人間を必要とする人もあぶない。(135〜136頁)


■「己の分を知る」ことを難しくさせた近代(山崎正和

近代とは、個人にとっては業績達成の時代であり、財と地位による自己実現の時代であった。万人が「何者か」になりうるはずだと教えられ、できなければ世の中が悪いのだと扇動される時代であった。これはもちろんきれい事の嘘であるから、民衆は構造的に不満に駆られるのであるが、しかし、企業組織が確立すると事態はややましになった。企業には人事評価の公平な基準があると信じられたし、人は身近の顔見知りと競争して、互いの実力を見る機会が持てた。他人との具体的な比較によって、己の「分を知り」、勝敗を納得することができたのである。
不幸なのは、昨今この企業が人の意識のうえで小さくなり、個人が海のような大衆社会にじかに触れ始めたことであった。脱サラやフリーターが流行し、休日が増え寿命が延び、人が企業外で生きる時間が多くなった。若者を中心に企業への帰属感が弱まり、評価基準への信頼も薄まり、その分だけ消費による自己実現と、流行という匿名世界への参加の機会が増えた。誰もが自由になる半面、分を知ることが難しくなり、顔の見えない他人と自分を比較して、限度のない自己実現を迫られる程度が増したのである。
当然、人心の底深く妬みと焦りが渦巻き、同時に「自由からの逃走」を願う衝動も芽生える。中途半端な強者で、頂点を目の上に見ている人間に、とくにこの怨念が深い。そして、この意識下の大衆心理を知れば、オウムの信者がなぜあれほど従順であり、幹部になぜあんな秀才が、という世間の疑問も解けるだろう。ここには自己実現にあせる二流の強者と、自由に疲れた精神的な弱者が集まり、過去に回帰して閉じられた組織を作ったのである。
だとすれば問題の抜本解決法は、自己実現社会の転換であり、達成への脅迫からの解放だろうが、それには近代のもう一つの原理である、自己「表現」を奨励する以外にはあるまい。表現は実現とは違って、財や地位の量的な尺度で計られず、魅力を理解する親しい他人の目があれば足りる。それは閉鎖的な階層組織ではなく、相互に顔の見える柔らかな社交の集団を作り、人はその小世界で認められることで、「何者か」であることができる。例えば、黒人ゴスペルのあの熱烈な合唱を聴いた人なら、人に表現があるかぎり、どんな宗教的熱狂も必ずしも暴力を生まないことを知るであろう。(168〜170頁)


■「科学技術を批判し制御する知性」の必要性(西垣通

では科学技術に頼って生きていかねばならぬ我々はどうすればよいのか?――まず直視すべきことは、「科学技術を批判し制御する知性」が現在の日本に決定的に不足しているという事実である。すなわち、科学技術の特定の細部を研究するのではなく、科学技術を社会や文化のなかに位置づけ、それを人間生活でどう用いるべきかを社会科学・人文科学との連携のもとに専門的に研究していく知性が不十分なのだ。
プロフェッショナリズムの勃興と共にこういう横断的な知性は全世界的に衰退しつつある。しかし日本には特に、科学技術を単に「操作的な知」とみなし、世界観や価値観から切り離して扱う強い伝統がある。戦前は和魂洋才・富国強兵、戦後は科学立国・経済成長というかけ声のもとで、科学技術者は恐ろしく細分化された領域内での知的作業に専心させられてきた。文系に比べ変化のはげしい理系の研究者にとって、自分の研究の社会的・文化的意義をゼネラルな観点から沈思する余裕など許されないのである。
こうして知的空洞がポッカリ口を開けていく。サリンを作ったと自供したオウム化学班キャップの土谷正実容疑者は「科学と宗教をむすぶもの」を求めていたという。そういう渇望にこたえる知性の不在が、奇怪な野合につながっていったのではないか。教祖の麻原彰晃容疑者は、この知的空洞をたくみに利用し、研究者の渇望に乗じて、事を運んだのである。
断っておくが、科学技術の「意味」を考える学問が皆無というわけではない。科学哲学や技術論はこれに該当する。だが問題は、そういう知性を科学技術の応用の現場で生かす制度や習慣がなく、それらの研究者を受け入れる職場も限られていることだ。そこで科学哲学や技術論の研究者の多くは、ゼネラルな活動ではなく、重箱の隅をつつく専門論文作成にいそしむことになってしまう。
いま肝心なのは、科学技術を広い視野から善導するための人材の育成と、育てた人材を社会で生かす制度である。具体的には大学院レベルの教育機関が必要だろう。そこの学生には、一つの分野について学部教育を受けた者ばかりでなく、実社会で研究開発体験をつんだ者がいっそう望ましい。原子力利用、生態環境、遺伝子操作、情報ネットワークなど、社会的・文化的影響の大きい分野のプロジェクトには、この教育機関で学んだ「専門的ゼネラリスト」が必ず加わるような制度が不可欠ではないだろうか。(176〜178頁)


■「公教育では宗教と哲学を教えない」という勅語の精神(養老孟司

戦後教育は勅語の内容を表面的には消した。おかげで勅語の精神は残った。その精神とはなにか。公教育では宗教と哲学を教えない。それである。勅語という人生マニュアルにないものがある。自分で人生を深く考えること、その結果自己の思想を持つこと、そんなものを持ったあかつきにはそれが自分の行動を支配すること、勅語の精神はそれを危険だとして教えない。それを教えるもの、それが真の宗教と哲学である。その対象を古人は真理と呼んだ。いまでは学問は細分化、技術化され、専門家すらそれの追究を口にしない。だからオウム「真理」教がその言葉を盗み、若者がニセのそれに捕らわれたのである。(182頁)