コラム:研究と家庭は両立するか

優れた研究者の中には、家族の存在が研究の障害でしかないとはっきり言う人もかなりいる。考え方は人それぞれだし、優れた研究者でもきちんと家族がある人はいくらでもいる。それでも、「研究と家庭」の関係について論じている人たちの書いたものを比較してみるとなかなか面白い。

もう30年も前にベストセラーになった、渡部昇一の『知的生活の方法』(講談社現代新書ではこう書かれている。噴き出すこと請け合いである。

京都大学のシナ学の建設者であり、世界的なシナ学者であった内藤湖南の若いころの日常生活は、その家事の世話をしていた越津みささんによると、次のようなものであった。

『ひる頃人力車で万朝報社に出社し、二時間ばかりでもどって来た。それからずっと二階で読書、夕食に下りてもほとんどものをいわず、すむとすぐ二階に上がってしまう。十一時すぎ、みささんがお茶とお茶受けをもってゆくと、だまってうなずくので、お休みなさいといって引き下がる。たまにはことばをかけてくれることもあった。それから夜明けまで勉強、起きるのは十時頃。――この日課はほとんど死ぬまでつづいていた。』(青江舜二郎『竜の正座』朝日新聞社

これを読んでどんな印象を受けられるであろうか。私はちょうど十年前にこの一節を読んだとき、「うらやましい!」と叫びたいような感じであった。ここには家庭によって、なんらの束縛も受けずに学問をし、世界的業績を残した大学者の姿と、その知的生活の秘密がさりげなく語られているからである。(208〜209頁)

さらに続けて渡部はこうも言い切っている。

知的生活に最も障害になるのは、重病を除けば、家族と親族の問題である。その他のことなら、近代生活においては、自分の好きなように遮断できる。しかし、親、女房、子供、兄弟姉妹のからんだ問題からは、逃げようがない。(209頁)

結婚についてはこう書いている。

まことに前途有望な学徒であった人が、結婚したとたんに、いっこう冴えなくなったということはよく見聞きするところであるが、なぜそういうふうになるかについて、まことにわかりやすい例をあげてみよう。これは私が当人から直接聞いたことのある話である。某氏が言うには、『私の家内は、私が一万円本を買えば、自分もそれと同じ金額の洋服を買うというのです』ということなのだ。これで前途有望氏は、いっぺんでつぶされてしまう。これと似たような例をいろいろ知ったものだから、私は大学がその後継者を択ぶとき、独身の男を選ぶのは危険であると考えるようになっている。いくら前途有望な青年を選んでも、いまのべたような奥さんを持てばだめになるからである。しかも日本の大学はアメリカと違い、終身雇用だ。昔は悪妻といっても、夫の知的生活をこのような形で簡単に潰すような女性は稀だったし、夫の方ももっと容易に自己の知的生活を守ることができた。しかしいまではこういう悪妻を抱えたらどうにもならないのである。(210〜211頁)

そして、勢古浩爾が言っているように(のちほど引用)、以下のような「余計なアドバイス」までしてくれちゃっている。

現代の社会において、自由なる知的生活を送るということは至難のわざである。その理想を追求すれば家庭を破壊したり、忌わしい性的傾向におもむいたりすることになる。われわれは、まあまあ幸福な家庭生活と、まあまあ満足のゆく知的生活の両立を求めるのが無難であろう。そのためには配偶者の選択が決定的である。単に美醜とか、健康度とか、持参金とか、セックス・アピールだけでなく、未来の自分の知的生活とどこまで調和できるかを考慮に入れなければならない。(213〜214頁)

もっと新しいところでは、小谷野敦も「家庭と研究」について書いている。少し長いけど、面白くてすぐ読めてしまうので、全文引用する。文章中の「評論家」を「研究者」と言い換えてもなんら主旨に変わりはない。

言うまでもないことだが、評論家を目指すとしたら、とにかく読書が好きでなければならない。作家で、読書が嫌いだという人もいるけれど、作家ならそれでいいかもしれないが、評論家はそうはいかない。だから、遊ぶのが好きだとか、大酒呑みだとかいう人は、評論家に向いていない。パーティーなどに出ていても、まっさきに帰るようでなければならない。競馬が好きで競馬評論家になるとか、美食が好きでグルメ評論家になるとか、そういうことはいいけれど、文藝や社会の評論家で、競馬やら美食やらが好きだというのは、あまり優秀な評論家にはならないだろう。

私の場合、とにかく食事をしている時間がもったいない。電車に乗っている時は本が読めるけれど、歩いていると読めないから、歩いている時間がもったいない。映画や演劇を観るのは、仕事の足しになるからいいけれど、何の足しにもならないことをしていると、時間がもったいなくて、本が読みたくなる。

ところが、そういう資質を持っていると、日常生活に支障を来すことがある。特に、結婚したり子供ができたりすると、そうである。男のほうで言えば、昔の男なら、家事は妻や女中に任せ、仕事に専念することができたが、今はそうはいかない。たいてい、妻というものは、構ってくれ、と言うものだし、『男も子育てを』などと言われているからだ。もしハウスキーパーやベビーシッターを雇う金があって、妻も仕事で忙しい、というような条件がない限り、現代日本で結婚して子供ができたら、まず学者・評論家としては大成できないと考えたほうがいい。女のほうはさらに大変だ。

中丸美絵が、音楽家斎藤秀雄のことを書いた『嬉遊曲、鳴りやまず』(新潮文庫)を読むと、斎藤の父親だった明治期の英語学者、斎藤秀三郎は、学問に費やす時間がもったいないので、手紙が来ても内容が分かるものは開封せずに放っておいたという。また、七人の子供を作ったが、その七人の結婚式にはどうしても出席しなければならないから、一生のうち七日だけ無駄な日ができると言ったそうである。それくらいの気構えが、学者・評論家には必要なのであって、世間から『義理知らず』『つきあいが悪い』と言われたり、妻から『人非人』と言われたりすることくらいは、覚悟しておくべきである。しかし学問というものは、家事を家政婦や妻に任せられる人によって発達してきたものであるから、現在のような男女平等社会では、男が学問ができなくなった分を、独身でがんばっている女が支えていると考えるべきだろう。(『評論家入門―清貧でもいいから物書きになりたい人に』平凡社新書、134〜135頁)

もうここまで来ると、「勝手なこと言いやがって」とあきれるしかない。七人の子供の結婚式に行くのが時間の無駄であるのなら、七人の子供を作るのに費やした行為の時間は無駄ではないのかねと下ネタ突っ込みをしたくもなるが、このコラムの主旨から外れてしまうので深入りはやめておく。

もう少し共感できるものに勢古浩爾の文章がある。これは『まれに見るバカ』(洋泉社新書y)という本の中で、「まれに見るバカ」の実例として渡部昇一が挙げられている箇所で書かれているものである。

上智大学文学部名誉教授。往時『知的生活の方法』なる本がベストセラーになり、その後も多数の著作を著す。が悪いことに、かなりの本質的なバカである。なにしろ『知的生活に最も障害になるのは、重病を除けば、家族と親族の問題である』といってのけたひとである。

渡部いわく。『現代の社会において、自由なる知的生活を送るということは至難のわざである。その理想を追求すれば家庭を破壊したり、忌わしい性的傾向におもむいたりすることになる』。なんでやねん。「忌わしい性的傾向」はその人の資質でしょうが。『われわれは、まあまあ幸福な家庭生活と、まあまあ満足のゆく知的生活の両立を求めるのが無難であろう。そのためには配偶者の選択が決定的である』と書いて、『未来の自分の知的生活とどこまで調和できるかを考慮に入れなければならない』などといらぬ忠告をしている。

いったい家庭よりも配偶者よりも優先する知的生活とはなんなのか。渡部は『本を読んだり物を書いたりする時間が生活の中に大きな比重を占める人たち』といい、『私が男であるところから、女性の立場は考慮していない』ともいっているが、かれの思考の根本にどこか欠陥があるとしか思えない。女の立場は考えていない、と書いているが、女は男の知的生活に従属しなければならない、と考えているのはあきらかである。(90〜91頁)

小谷野が言うように、確かにこれまでの学問は「孤高な世捨て人」的な人が築き上げてきたものなのかも知れない。でもだからといって、これからもそうでなくてはならないということにはならない。社会が変わり、学問に求められるものも変わり、そして学問に携わる人間の量や質も大幅に変わる。

時間を強く意識できない人は、研究者として成功できないというのは間違いないだろう。研究者に限らず、何か一つのもので秀でようとしたら、孤独な勉強の時間がどうしても必要だし、それは遊び歩いてばかりいる人間には持つことが不可能なものである。

ちなみに、小谷野が言うように「今は独身女性が学問を支えている」時代なのだとしたら、今後は男のほうが女から「あなたは私の研究の邪魔なの」と言われることもどんどん起こり得るということだろう…。