上田伸治『本と民主主義』書評

本と民主主義―アメリカの図書館における「表現の自由」の保護と制限

本と民主主義―アメリカの図書館における「表現の自由」の保護と制限

非常に面白く読んだ。この本はたまたま市立図書館の本棚を何気なくぶらぶらと見ている時に発見した。そうでもしなかったらまず出会うことはなかったであろう本である。たまには専門にとらわれず書店や図書館の本棚を眺めることも必要である。

本書はアメリカの憲法で保障されている表現の自由が、現実にどのように実践されてきたのかを多くのエピソードや事例で紹介する内容になっている。主として図書館側がいかに政府や保守派の人々の圧力に抗してきたかに焦点が当てられているが、本に限らず、保守的な価値観にそぐわない芸術作品(ラップ音楽もその一例として挙げられている)が反発を受けた経緯についても言及がされている。高校の生物で進化論を教えるべきかどうかでいまだにアメリカでは論争が存在しているが、その歴史的な論争の中で最も有名な1920年代の「スコープ裁判」についても本書ではわかりやすく解説されている。また、現在では文学の古典とされるような本でも、出版当時は多くの保守派から反対されて発禁処分にされたものもあった。ローレンス『チャタレイ夫人の恋人』、サリンジャーライ麦畑でつかまえて』、ボッカチオ『デカメロン』などは最も有名な例である。

アメリカという国は不思議な国である。もちろんどの国にも外国人から見たら不思議な点はあるかも知れないが、宗教的な価値観に関わる論争には、時々こちらの常識の理解を超えてしまうことが多々ある。最近では、『ハリー・ポッター』シリーズで出てくる魔法が「邪教である」とキリスト教保守派グループから抗議を受け、いくつかの地域では学校図書館から『ハリー・ポッター』を排除する行政命令が出されている。また、2001年には、ある店の店主が公の場に飾っていたミケランジェロダヴィデ像(当然、裸体である)はわいせつであるとの理由で、行政側からそのダヴィデ像のレプリカに腰巻をつけるよう要請されたという、笑い話のような本当の話もある。筆者が巻末の「おわりに」で書いているように、アメリカという国は一般に考えられているほどリベラルな国ではなく、国民の半分はかなり保守的な考え方を持っている国なのである。

本書の中で数多くあげられている図書館員たちの奮闘ぶりには目を見張るものがある。筆者の言うとおり、「民主主義という成文法があっても、それを実現しようとする人々がいなければ民主主義は実現できない」(101頁)のである。

最近ではインターネット上のわいせつな情報に対する規制に賛成する人が増えているが、表現の自由との関連でどこまで規制すべきなのかの線引きが必ずしも意見の一致を見ていないのは、本書で示されている通りである。図書館側も、圧力に抗しつつも、場合によっては妥協を強いられることも多々ある。また表現の自由を守る側が歴史的に圧勝してきたにも関わらず、ではネオ・ナチのような団体に対しても表現の自由を認めるべきかどうかについてはまだ論争は続いている。いずれにせよ、「表現の自由」とか「知る権利」というものは、法律上の乾いたお題目ではなく、現実世界に深く根ざしたダイナミックな概念であるということである。

アメリカはおかしな国だ」で済ませるのは簡単であるが、日本と比べて大きく異なるように思われるのは、市民の側が公権力に対して持っている、「倫理のことまであんたらに口出しされたくない」という強烈な自負である。なんらかの規制は必要という点ではみな賛成だが、それを一律に法律で規制しようとする動きに対しては敏感に反応し猛反発する。法律のもつ普遍性が予想外のところで拡大適用される恐れが常につきまとうからである。公的・社会的なテーマに関する関与の大きさと深さに関しては、NPOやNGOを基盤にした市民社会に対する制度的な支援がまだ不十分な日本において、アメリカの事例からいろいろと学べることはあるだろう。