坂の上の雲

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)

司馬遼太郎の『坂の上の雲』。まだ読み途中ですが、噂に聞いてたとおり人物描写の際のその人物への司馬の思い入れぶりがすごい。

司馬遼太郎があるテーマについて何か書く時は、神田神保町の古本屋からそのテーマについての古書が丸ごと消えたらしい。乾いた歴史的事実ばかりでなく、その人物の魅力を表すさまざまなエピソードも盛りだくさんで、彼の著作が多くの歴史好きを生み出して国民文学となった理由が納得できる。

ヒロイズムと大きな物語を中心に据え、明治までの日本はすばらしかったが昭和以降の日本人はその財産を浪費したとする見方を批判する人もいて、自分も確かにその批判は当たっていると思うけど、エンターテインメントとして司馬作品が日本人の心理に大きな影響をこれまで与えてきたことは事実です。

司馬作品はとりわけ日本の政治家の美意識に大きな影響を及ぼしてきた。内田樹は、司馬作品の中にある「種族に固有の論理や情感」を指摘しています。(ナショナルな言説の例として批判の対象にする学者もたくさんいる)

読んだときに心のひだにしみいるように感じるテクストの書き手は種族に固有の論理や情感を熟知している。そういう書き手や作品を検出するために簡単な方法があります。それは外国語訳されているかどうかを見ることです。

例えば、日本を代表する国民作家である司馬遼太郎の作品の中で現在外国語で読めるものは三点しかありません」(『最後の将軍』と『韃靼(だったん)疾風録』と『空海の風景』)。『竜馬がゆく』も『坂の上の雲』も『燃えよ剣』も外国語では読めないのです。驚くべきことに、この国民文学を訳そうと思う外国の文学者がいないのです。いるのかも知れませんが、それを引き受ける出版社がない。市場の要請がない。

不思議だと思いませんか。現在日本人のエスタブリッシュメントの心性や感覚を知ろうと思ったら、何はともあれ、司馬遼太郎藤沢周平池波正太郎を読むのが一番簡単な方法だと私は思いますけれど、どうやらそういうふうに考える人は海外では少数らしい。

内田樹『日本辺境論』新潮新書、102〜103頁より)

例えば、以下の少しセンチメンタルでナルシスティックな描写はおそらくその例で、きっと多くの日本人読者を魅了してきたものだろうと思う。

小さな。
といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。
その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後生の日本人は食いちらしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。

司馬遼太郎坂の上の雲(一)』文春文庫、77頁より)

「明治日本」というのは、考えてみれば漫画として理解したほうが早い。
すくなくとも、列強はそうみた。ほんの二十余年前まで腰に大小をはさみ、東海道を二本のすねで歩き、世界じゅうどの国にもないまげと独特の民族衣装を身につけていたこの国民が、いまはまがりなりにも、西洋式の国会をもち、法律をもち、ドイツ式の陸軍とイギリス式の海軍をもっている。
「猿まね」
と、西洋人はわらった。
模倣を猿というならば、相互模倣によって発達したヨーロッパ各国民こそ老舗のふるい猿であるにちがいなかったが、しかし猿仲間でも新店の猿はわらいものになるのであろう。
自分こそ猿でなく、世界の中華であるとおもっている清国は清国で、日本人の欧化をけいべつした。もっとも日本人をけいべつしたのは、大清帝国の文明を信じ、その属邦でありつづけようとする朝鮮であった。朝鮮は日本に対し、「倭人なるものは唾棄すべきことにおのれの風俗をすてた」というそれだけの理由で日本を嫌悪し、日本の使節を追いかえしたことさえある。明治初年の征韓論は、そういう、双方のこどもじみた感情問題が、口火になった。
いずれにしても、維新後国をあげて欧化してしまった日本と日本人は、先進国家からみれば漫画にみえ、アジアの隣国からみれば笑止な、小面憎い存在としてしかみえず、どちらの側からも愛情や好感はもたれなかった。
しかし、当の日本と日本人だけは、大まじめであった。産業技術と軍事技術は、西洋よりも四百年おくれていた。それを一挙にまねることによって、できれば一挙に身につけ、それによって西洋同様の富国強兵のほまれを得たいとおもった。いや、ほまれというようなゆとりのある心情ではなく、西洋を真似て西洋の力を身につけねば、中国同様の亡国寸前の状態になるとおもっていた。日本のこのおのれの過去をかなぐりすてたすさまじいばかりの西洋化には、日本帝国の存亡が賭けられていた。

司馬遼太郎坂の上の雲(二)』文春文庫、30〜32頁より)

長いのに長いと感じさせず、一気に読ませてしまうこの文体は見事だと思う。最初の引用のところで出てくるのは日清・日露戦争で活躍した秋山好古・真之兄弟、俳句会の革命児・正岡子規(以上3人はみな四国松山出身)、あとの引用のほうで出てくるのは西洋先進諸国との対等な関係をめざして奔走した外交官・小村寿太郎である。乾いた歴史的事実としては知っている固有名詞も、この小説を読むことでこれらの人物たちの人間くささが感じられる。

最後に、歴史科学について司馬がこのように書いているのを引用して終わりにしようと思う。歴史学を志す人にとっては、何か思うところがあるのではないだろうか。

日清戦争とは、なにか。
日清戦争は、天皇制日本の帝国主義による最初の植民地獲得戦争である」
という定義が、第二次世界大戦のあと、この国のいわゆる進歩的学者たちのあいだで相当の市民権をもって通用した。
あるいは、
「朝鮮と中国に対し、長期に準備された天皇制国家の侵略戦争の結末である」
ともいわれる。というような定義があるかとおもえば、積極的に日本の立場をみとめようとする意見もある。
「清国は朝鮮を多年、属国視していた。さらに北方のロシアは、朝鮮に対し、野心を示しつつあった。日本はこれに対し、自国の安全という立場から朝鮮の中立を保ち、中立をたもつために朝鮮における日清の勢力均衡をはかろうとした。が、清国は暴慢であくまでも朝鮮に対するおのれの宗主権を固執しようとしたため、日本は武力に訴えてそれをみごとに排除した」
前者にあっては日本はあくまでも奸悪な、悪のみに専念する犯罪者のすがたであり、後者にあってはこれとはうってかわり、英姿さっそうと白馬にまたがる正義の騎士のようである。国家像や人間像を善玉か悪玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、いまの歴史科学のぬきさしならぬ不自由さであり、その点のみからいえば、歴史科学は近代精神をよりすくなくしかもっていないか、もとうにも持ちえない重要な欠陥が、宿命としてあるようにもおもえる。
他の科学に、悪玉か善玉かというようなわけかたはない。たとえば水素は悪玉で酸素は善玉であるというようなことはないであろう。そういうことは絶対にないという場所ではじめて科学というものが成立するのだが、ある種の歴史科学の不幸は、むしろ逆に悪玉と善玉とわける地点から成立してゆくというところにある。

司馬遼太郎坂の上の雲(二)』文春文庫、27〜28頁より)