沖縄の基地

沖縄へは今までに三度行ったことがある。自分の思い込みかも知れないが、地元の人と話していて壁を感じたり、時々観光客に対する刺すような視線を感じることがあったように思う。沖縄の米軍基地の現状に、表面的に何とかしなければという気持ちを持っても、自らは負担を負う気もなく、明るい面だけ見て気楽に観光を楽しんでいるような県外の人間に対して、怒りや諦めがあるのだろうと思う。

7月6日(火)の朝日新聞朝刊で、社会学者の小熊英二のインタビューが掲載されている。沖縄の米軍基地についてのインタビューである。

――沖縄の仲井真弘多知事は、基地負担の現状について、「差別に近い印象すら持つ」と述べました。

「沖縄側が差別と受け止めるのはよくわかります。そもそも中国や北朝鮮がどの程度の脅威なのか議論が詰められないまま、抑止力として米軍基地が沖縄になくてはならないと頭から説かれている。しかし沖縄にこれほどの米軍基地は必要ないという趣旨の発言は複数の米軍高官から出ていますし、普天間基地を抱える宜野湾市の調査によると、普天間海兵隊ヘリ部隊は1年の半分近くは海外に出ていて沖縄にいない。そうしたことは沖縄の新聞などではしばしば報道されているため、ただ抑止力として役立っていると説かれても県民は納得しないでしょう。事業仕分けで『我々の事業は役に立っている』と言い張る公益法人のように、冷戦期の既得権益を維持したいだけではないかと思われても仕方がない。鳩山由紀夫前首相も『学べば学ぶほど抑止力は必要だとわかった』と言っただけで、具体的にどう在沖米軍が役に立っていると理解したのか説明していません」

(中略)

「マスメディアの論じ方も、批判よりも、内側からどう責任を負って変えていくかに変わった。メディアが与党になったという印象です。それ自体は悪いことだとは思いませんが、現実を切り開く構想力なしに、ただ既成事実を受けいれるのではメディアの存在意義がないのではないでしょうか。この傾向は、安全保障問題で特に著しくなっていると思います。経済問題だったら、アメリカ政府が何の説明もなしに日本に負担を迫ったら、政党もメディアも無批判ではいないでしょう。安全保障問題は、負担が沖縄に集中しているので、現状追認でも自分が痛みを感じずに済むからかもしれません。しかしそれは沖縄県民からすれば我慢のならないことでしょう」

与えられている情報が少ない時、人はすぐに「通説」に寄りかかろうとする。それが一番楽に「自分はちゃんとこの問題について考えている」というポーズをアピールできるからである。全然仕方なくないことでも、「常識」を鵜呑みにして「仕方ない」と言いたがる。沖縄の問題については今までの自分がそうだったし、今でもまだそうかも知れない。

「どうせ変われない」と思っていても、変わる時は変わる。小熊は次のように答えている。

――では、沖縄の現状は変えられないのでは。多くの人にとって現状が「楽」なのだから。

「いや、変わらざるを得なくなったら変わりますよ。その最たる例が昨夏の政権交代です。自民党を支えていた利益誘導政治は、省庁から地域の産業に至るまで総ぐるみで巻き込んだ強固な体制でした。高度成長期にできあがって以来、変えようがないと思われていた体制が、不況が続き、財政がもたなくなって変わらざるを得なくなりました」

「負担を沖縄に負わせて、冷戦期以来の日米関係と安全保障体制を維持するかたちがどこまで続くか。いまは沖縄の不満を振興策などでなだめている。しかし、財政がさらに悪化しそれができなくなったとき、あるいは、思いやり予算をはじめ在日米軍関係負担を見直さざるを得なくなったときは、いやでも変わるかもしれない」

いつか沖縄の絶望が希望に変わる時が来るのだろうか。国際政治学を学ぶ者として、この沖縄の基地問題に関してはメディアの「常識」に左右されず、常に自分で批判的に考えるようにしたいと思う。