「政治家が軽々に歴史を語るな」(保阪正康)

新潮45 2013年 07月号 [雑誌]

新潮45 2013年 07月号 [雑誌]

保阪正康「政治家が軽々に歴史を語るな」『新潮45』7月号より引用。

橋下発言の「命を賭けて戦っている兵士たちが、その合い間に女性と関係を持つことはあたりまえ。そんなことは誰でもわかる」との内容である。この発言を聞いて私は、正直なところ驚いた。この人は、戦場と性についてほとんど無知の状態で話しているな、とわかったからである。これでは戦う兵士の一団は、その種の女性を連れて前線に赴いているかのようだ。いやそういう光景を連想させる言い方である。

ありていにいえば、これは兵士に対して侮辱、ないし非礼である。兵士は戦場にあっては、相手側の兵士たちと命のやりとりをしている。「生存欲」がその心理のすべてを占めていて、性欲など無に等しい。戦場で戦うとは、「非日常空間」に身を置くということだ。性欲とは「日常空間」の欲望であり、非日常空間にあってはもっとも最初に消えていく欲望だと兵士たちは一様に証言している。

性欲があるのは――つまり慰安所が置かれるのは――、「日常空間」においてである。この点について橋下発言には錯誤がある。(31頁)

議論が噛み合わない、論点をずらしている、と内外のメディアは橋下市長の発言を評したが、そうではないだろう。橋下市長は「戦場と性」の問題について、自らの頭の中で出来上がっている固定観念で答えているだけのことだったのだ。(32-33頁)

今回の橋下発言にしても、史実を充分に整理せずに「政治化」してしまったケースなのだが、このことは中国、韓国、それにアメリカを始めとする欧米の国々に、格好の餌食を与えたことになる。とくに中国、韓国などのように、もともと歴史的事実を「政治」の一端に組み込んでいる国々は、橋下発言は政治的得点になるとの判断を持ったといっていい。(33頁)

政治家が歴史を語るときは、まずはその史実がどこまで明らかになっているのか、どういう見解が定着しているのか、さらに言えば、自らが史実を調査するほどの気構えをもって発言すべきである。(中略)そういう気構えがなく発言すること自体、「そんな発言をする政治家は、歴史を政治のツールに使っている」と見られて、その種の技術に長けている国々に格好のターゲットになる。そのくり返しは国益上も大きなマイナスではないか、と私には思えるのだ。
しかも政治家は歴史をツールに用いて批判を浴びると、とたんに「歴史の解釈は歴史家に任せるべき」と逃げる。安倍首相にもこういうケースが多いのだが、ならば初めから軽々に口にしないほうが賢明である。(33頁)

太平洋戦争の終結から六十八年近くが過ぎた。この間、個々の史実の検証、資料・文書の発掘と分析、それは学界、ジャーナリズムを挙げて行われてきた。こうした成果に基づいての議論で見解が異なる、あるいは解釈が多様化することはありうる。土台を共有している限り、相互の間には議論や論争が成りたつ。その論争にもごく自然にルールが出来上がる。(33頁)

ところが政治家の中には、たとえば「日本は侵略しない」という旗を立てて、それにあてはまる史実を抜き出してきて、「どうだ、侵略していない」と言い出す者がいる。彼らのいう侵略を否定するにせよ、肯定するにせよ、そこには真面目な議論が成りたたない。あるいは「日本は帝国主義国家だった」との旗を立て、そういう史実を集めてきて、「日本は反省せよ、補償せよ」と言い出す。これも史実をツールに使っているだけといっていいのだが、正直な話、こういう乱暴な議論を得意とする政治家は、国民を愚弄していることになるのではないか。(33頁)

橋下市長がどういう経緯があって、慰安婦問題を発言したのか、その真意は定かには知らないが、外国メディアは昨今の日本には国家主義的傾向が顕著との報道の良き一例として紹介したという。日本の政治家の歴史観欠如を叩こうと虎視眈々と狙っている外国メディアに、愚かにもなぜ裸でのこのこ出掛けていくのだろう。そこが私にはわからない。(33頁)