学問と宗教

宗教に関心がなければいけないのか (ちくま新書)

小谷野敦『宗教に関心がなければいけないのか』ちくま新書、2016年

「『法華経』に「提婆達多品(だいばだったぼん)」というのがあり、そこに、竜女の女人成仏というのが書かれている。これは、竜王の娘の竜女というから、人間ではないのだが、女人のままでは成仏できないというので、「変成男子(へんじょうなんし)」つまり男体になってから成仏するという。成仏するのだから良さそうなものだが、男子にならなければ成仏できないというのは女性差別だというので、「提婆達多品」はもともとの『法華経』にはなく、あとからつけ加えられたものだ、という論文を、中学生の頃に『フェミニスト』という雑誌で読んだことがある。しかしこれはバカげた話で、『法華経』は仏陀以後五百年はたって成立したものだし、キリスト教や仏教が女性差別的なら捨てればいいだけのことで、日蓮宗あたりの熱心な信者でなければ意味をなさない。」(100頁)

 

「自分の思想とあわないところが、自分が信奉するものの中にある、と言ってあわてるのは、私などにはよく分からない話で、「ああそういう部分もありますね」と言えばいいではないか、と思うのである。」(101頁)

 

「これは宗教に限らない。たとえば、一九七九年に中越戦争が起きた時、社会主義国同士の戦争だというので社会主義者がショックを受けたというが、そこまで社会主義に幻想を抱いていたというのが驚きだとはいえ、「悪い社会主義国もある」とは思えないらしい。あるいは呉智英さんが『読書家の新技術』で、マルクスは英国のインド支配を正当化した、と指摘していたが、マルクスだってそれくらいするだろう、と思う。マルクスが間違うはずがない、などと言う人もいるらしいし、マックス・ヴェーバーを批判されて猛り狂って三冊くらい人格攻撃の本を出した折原浩のような人もいて、こうなると社会学でもなければ学問でもない、立派な宗教である。」(101頁)