「巨大なる凡庸」としてのテレビ

ジェラシーが支配する国

 

「スイッチを入れれば誰でも簡単にテレビを楽しむことができます。テレビは、幼児から老人に至るまでのすべての人たちが理解することができ、共感することができるものを提示しなければならないのです。万人に理解と共感が可能なものとはすなわち凡庸なものにほかなりません。凡庸化は、テレビの宿命であるといえます。BPOの「巨大なる凡庸」ということばは、テレビの本質を鋭くいい当てています。」(p.215)

 

現代日本は高度な知識社会であり、誰もが何かの専門家であるような社会です。しかしある領域のなかで高度な達成を求められれば、他の領域に目をやる余裕は失われます。あらゆる専門領域が、極めて高度な水準に達していますから、すべての領域を理解し、全体を見通すことなど、誰にとってもできることではありません。たとえば自らの専門領域においては高度な研究を行っている物理学者であっても、法律の領域においては素人=大衆の一人でしかないのです。自分には理解することのできない部分が肥大化した社会は、不安であり、苛立たしいものでもあります。理解不能なものを消し去りたいという、「存在論的不安」に根ざした欲望が、凡庸化を推し進める強大な力となっています。」(pp.215-216)