博士論文と孤独

孤独であるためのレッスン (NHKブックス)

「大学院生時代、特に博士後期課程やオーバードクター(博士課程を終えても定職にありつけない状態)の時代に、論文がうまく書けないときなど、同じ世代の友人たちはみんな頑張って働いて、結婚したり子どもをつくったりしているのに、自分はいったい何をしているんだと、取り残されたような気持ちになります。何も成果があげられないまま、無意味な時間だけがただすぎていく。そんな体験を、多くの文科系大学院生たちは味わったことがあるはずで、少なからずの人が否定的感情にうちひしがれてその道をやめていきます」(p.133)

 

「しかし、孤独への資質がある人間にとって、そんな感情に支配されるのは、せいぜい最初のうちだけ。社会との接点を持たずに、ひたすら自分の内面世界を探求する――そんな今思えば、夢のようにぜいたくな時間の魔力に取り憑かれていくはずです。

 私の場合、博士論文執筆最中の二年間がそうした生活のピーク。朝、一一時ごろに寝て、夕方四時か五時ごろに起きる。それ以外の時間は――食事と、トイレと、週に一度の入浴時間を除いて――すべて思索と論文執筆のために費やし、その世界に純粋に没頭することができました。

 そうした生活を始めた最初のころは、たしかに苦痛でしたが、毎日そんな生活をしていると、やはりだんだん慣れてきます」(p.134)

 

「たとえば、博士論文の執筆だとか、ある作品を完成させるだとかのために、「自分の世界」に没頭する必要が生じたとき私たちはみずからあえて、積極的に社会から離脱し、ドロップアウトします。「共有された時間の流れ」からみずから進んで離脱していくのです。孤独であることを選ぶ、というのは、ある意味では、この「共有された時間の流れ」からの積極的な離脱を意味しています」(p.135)

 

「博士論文に取り組んでいるときの私の状態は、ちょうどそんな感じで、社会の流れや、周囲の人々の気持ちに左右されることなく、ただただじっと、自分の“存在の核”の近くにいる。そこから離れず、ずっとそこの側にいる。ずっとそこに触れている。そんな体験の積み重ねで、たしかにとても過酷でつらかったけれども、ある意味では、これ以上ないほど濃密な、充実した時間の連続でした。時間の“濃さ”という点では、こんなに充実していた時はあまりない。それに比べれば、最近のやたら忙しく、外を飛び回っている時間の何と“薄い”ことか……。」(p.136)

 

「もう一つ、大学院生時代や、大学教員になってからもまだ講演依頼や執筆依頼がそれほど多くはなかった駆け出しのころ(といっても、今でも私はまだ三八歳で、じゅうぶん駆け出しですが)実感したのは、週末には人でごった返しているデパートや公園、コーヒーショップ、映画館などに、平日の昼間に行くことの快感! です」(p.137)

 

「特に忘れられないのは――私が院生時代をすごした筑波学園都市には、なかなか素敵な公園がいくつかあり、土・日は結構人で埋まっていたのですが――よく晴れたウィークデーの午後に、それほど混み合っていない公園に行って昼寝でもしているときなど、「みんながあくせく働いている平日の昼間に、こんなのんびりできるなんて、なんて俺はしあわせだー」と、のほほーんとした気分で、人生の勝利者の気持ちを味わったものです。今の日本、たとえ貧乏でも、自由な時間さえあれば、そこそこ優雅な生活はできるのです」(p.137)