「人間が過剰に断定的になるのは、他人の意見を受け売りしているとき」

日本辺境論 (新潮新書)

内田樹『日本辺境論』(新潮新書、2009年)より ※強調は引用者

「今、国政にかかわる問いはほとんどの場合、「イエスかノーか」という政策上の二者択一でしか示されません。「このままでは日本は滅びる」というファナティックな(そしてうんざりするほど定型的な)言説の後に、「私の提案にイエスかノーか」を突きつける。これは国家、国民について深く考えることを放棄する思考停止に他なりません。私たちの国では、国家の機軸、国民生活の根幹にかかわるような決定についてさえ、「これでいいのだ」と言い放つか、「これではダメだ」と言い放つか、どちらかであって、情理を尽くしてその当否を論じるということがほとんどありません」(p.118)

 

「たとえば、私たちのほとんどは、外国の人から、「日本の二十一世紀の東アジア戦略はどうあるべきだと思いますか?」と訊かれても即答することができない。「ロシアとの北方領土返還問題の『おとしどころ』はどのあたりがいいと思いますか?」と訊かれても答えられない。尖閣列島問題にしても、竹島問題にしても、「自分の意見」を訊かれても答えられない。もちろん、どこかの新聞の社説に書かれていたことや、ごひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうけれど、自分の意見は言えない。なぜなら、「そういうこと」を自分自身の問題としては考えたこともないから少なくとも、「そんなこと」について自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べるように準備しておくことが自分の義務であるとは考えていない。「そういうむずかしいこと」は誰かえらい人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を徴されたら、それらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている」(pp.118-119)

 

「そういうときにとっさに口にされる意見は、自分の固有の経験や生活実感の深みから汲みだした意見ではありません。だから、妙にすっきりしていて、断定的なものになる。人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです」(p.119)

 

主張するだけで妥協できないのは、それが自分の意見ではないからです」(p.120)

 

「ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうして「そういう判断」に立ち至ったのか、自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションできません。ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」のです」(p.121)