「学者なんかになった悲劇」(勢古浩爾)

 

まれに見るバカ (新書y)

まれに見るバカ (新書y)

 

 勢古浩爾『まれに見るバカ』洋泉社新書y、2002年より。

※下線・強調は引用者

 

わたしは、どんな問題にたいしても答えを出す学者、評論家、総じて知識人をほとんど信用しない。だって、そんなことありえないでしょう、ふつう。(p.78)

 

宮台の崇拝者Sの自殺をめぐって作られた、宮台真司藤井誠二の共著『美しき少年の理由なき自殺』(メディアファクトリー)という本がある。S君の死や、読者からの、宮台は「論争に勝つには勝つけれど、動機づけにおいては敗北しているのではないか」という批判などに宮台は相当に落ち込み、ひどい鬱に悩まされたらしい。「いかなる悪口にも罵詈雑言にもヘッチャラな自分を、タフだと思い込んでいた」自信が打ち砕かれた、と正直に告白をしている。(p.78)

 

宮台は性懲りもなく、「S君が置かれた困難な状況を理解するのに必要な社会学的分析を提示」したり、「S君には相手を喜ばせる力があった。だが、相手を喜ばせるゲームに参加する意思がなかった」などと分析をしてしまう始末である。ここでも分析し答えをださなければ自分で納得できないのだ。学者なんかになった悲劇である。しかし、学問をするには俗的興味が強すぎ、俗的興味だけに埋没するには、不幸なことに頭がよすぎる。いい加減とか適当とか放棄がないのである。悪い意味において、これほど「生真面目」な人間はいないと思う。(p.80)

 

宮台のタフネスは、弱虫が一所懸命努力して強くなった強さである。弱虫は泣いてからが強い、というあの強さである。だから『野獣系でいこう!!』(朝日文庫)で、福田和也を「無頼を気取る」小心者と評した批判はそのまま宮台にあてはまる。自分の小心が視えているから、福田の小心も視えるのだ(わたしにも視えている)。(p.80)