日本人のひ弱な自尊心(勢古浩爾)

 

この俗物が! (新書y)

この俗物が! (新書y)

  • 作者:勢古 浩爾
  • 発売日: 2003/12/01
  • メディア: 新書
 

  勢古浩爾『この俗物が!』洋泉社新書y、2003年より。

 

日本人の自尊心はひ弱である。自尊心が傷つく、ということをこれほど恐れる国民もめずらしい、と思う。恥知らず、恥をかかす、恥の上塗りの「恥」がそうであるなら、顔に泥を塗る、顔をつぶす、顔を立てる、という「顔」もそうである。それゆえか、日本人の制裁は相手の自尊心を徹底的につぶすという陰湿なものが多い。多くの社員のいるところで、恥をかかすのである。土下座を強いて、相手の自尊心を曲げさすのである。自尊心の屈服を強いるという行為ほど陰険卑劣なものはない。(p.77)

 

これはしかし、自尊心が野放図なまま育てばいい、ということでもない。人間は成長する初期のどこかで一回くらいは挫折して、その弱さや無力感を知っておく必要がある。そしてまたそこから、柔軟に再構築することを学んでおくべきだと思う。それは同時に、他人にも自尊心があるのだということを知ることでもある。身体的な痛みもそうである。ナイフで指を切り、釘を踏み抜き、とんかちで指を打つ。兄弟喧嘩をする。そのような経験は必要ではないだろうか。だが、それは赤の他人につぶされて学ぶべきことではない。しかも嘲笑のなかで。しかも大勢のなかで。また赤の他人や気分次第の親によって痛めつけられて学ぶべきものでもない。(pp.77-78)

 

親の叱咤はあろう。しかし基本的には、自分自身の失敗から学ぶべきものである。だが、世の中が子どもたちを失敗させないようなシステムを作ってきた。成績を張り出さない、運動にも順位をつけない、失敗してもとがめずに、やればできるという。親もまったく叱らない。自尊心をできるだけ無傷のままに育てるようになったのだ。だが、それでも客観的な順位はあり、社会にでればもっと明確な順位はあるのである。鍛錬されていない自尊心はそこで歪み、つぶれてしまう。自尊心は子どものうちに打て。うまく自尊心を挫折させ、うまくそこから再興させるような環境が必要なのだ。(p.78)