大学の授業がつまらないワケ

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浅羽通明『教養論ノート』幻冬舎、2000年より。

 

 私たち人間はどこまで動物であるか?

 大宇宙のなかで、地球と私たち生命はいかなる存在であるか?

 こういう「私たち」に即した問いかけに応えるかたちへとあらためて構成し直されたとき、生物学の研究成果は、天文学の知見は、ようやく、「自分の人生を考える一材料」=自己分析のためのデータとしてスタンバイしてくるだろう。

 学問が生み出した成果を、どこまでも、今ここの「私たち」のあり方とどう結びつくのかという一点へ、知識を、理論を、あくまでも、「私たちの生き方(あるいは死に方)」へどうフィードバックできるかという一点へ収斂させてゆくように教える……。

 すべての知識・情報が、今ここ私たちという現場を中心としてつながってゆき、今ここ私たちという生きた主体によって、それぞれ豊かな意味を帯びてゆく。そんな読み替え、捉え直しがされた知識・情報が教えられる。

 それが、阿部謹也の理想とする一般教養科目なのだろう。(pp.31-32)

 

 しかも阿部は、現在の大学に、以上のような、学生が「自分とは何か」を考えるのに役立つような講義をやろうとする先生はまずいないと喝破している。まさしくこれは、今の学問は、「教養として人間の生き方にフィードバックできる部分をドンドン切り捨てて」きたんだろうという(ビート)たけしの指摘と対応していよう。(p.32)

 

 彼ら(=専門家)がいくら、この問題こそは誰もが何をおいても取り組まねばならないと力説しても、それぞれ個別にある問題が、ほかならぬこの「自分」にどう関わるのか、どうフィードバックさせればよいのか、どうにも実感できないのである。

 彼ら専門家の目には、あまたの社会問題のごく一部が、ほかならぬ彼自身が取り組んでいるというそのことゆえに、世界のすべてであるかのごとく映っているのではと疑いたくなるのである。

 ほとんどの人間の生き方にフィードバックできそうもない、「研究者個人の生き方」でしかないような「それより先の研究」についてたけしが語ったように、万人にはついに他人事としか思えない、さらにはどうにも「趣味」にしか見えぬ社会問題も実はけっこう多いのではないかと思えてしまうのである。

 結局、学問の諸分野にしろ、さまざまな社会問題にしろ、相互の関係もよくわからず、協働もできない無数のタコツボのなかで、それぞれがそれぞれの「趣味」に耽っている……そんな印象をどうしても拭えないのである。(pp.35-36)

 

 たけしが「一般の人々の人生」へフィードバックできないところまでいってしまった学問を、それはもう「研究者個人の生き方そのもの」と捉え、あの床屋のおやじが、いったい何になるのかまるでわからぬ文学研究を、「学者先生は変り者だから」と片づけたのも、ようするに、それらは「学者の趣味」以外の何ものでもないといいたかったのだろう。阿部謹也が提唱したような、学生が「自分」とは何かを考えるために役立つ講義を、多くの先生ができないのも、彼らの学問がどこかで「趣味」だったからではないか。そういえば、大学の講義に失望した新入生諸君は、教授の「趣味」の研究発表ばかりを毎時間、聴かされているようで耐えられぬと、しばしば訴える。

 事実、しゃれにならない話なのだ。

 主義に思想、学問、教養……。我々がアクセスできる知のほとんどが、この「趣味」化の汚染を免れていないのである。(p.39)