「自分自身が人生の問いに向き合っていない人は、教壇に立つ資格はない」(諸富祥彦)

教師の資質 できる教師とダメ教師は何が違うのか? (朝日新書)

諸富祥彦『教師の資質―できる教師とダメ教師は何が違うのか?』朝日新書、2013年より。

※強調・下線は引用者

 子どもたちは、いじめのアドバルーンをさりげなく揚げて、「その一瞬に教師がどう出るか」を見て、教師の“本気度”を試しています

 たとえば、授業中に、ほかの子を、教師が見ている前でからかい、その反応をうかがいます。たとえば、いじめられている子どもが発言したとき、数名の子どもが「すげー」などと言って冷やかします。

 このような場面に直面したとき、教師がどう出るか――それを子どもたちは“観測”しているのです。

 そしてそこで、教師が何の指導もしなければ、子どもたちは、「この先生は、冷やかしを容認した」と理解します。そして、いじめの続行にGOサインを出すのです

 教師の力量と本気度が試されるのは「この瞬間」です

 「この瞬間」にたとえば、教師が、「ちょっと待て。今のはどういうことだ」と授業を中断し本気で注意を与え、「この先生は、いじめやからかいを本気で止めようとしている」という教師の本気度が子どもに伝わったとしましょう。そのときはじめて、先生の注意はいじめの抑止効果を持ちえます。

 しかし逆に「おいやめろよ、そこー」と中途半端な姿勢でしか注意しないでいると、結果的にいじめにGOサインを出したようなものです

 子どもたちの心ない発言ややりとりに、教師は慣れてはいけません

 自分は感覚麻痺に陥ってはいないか、絶えず、自己吟味していかなくてはならないのです。(101-102頁)

  

 四月時点での、授業中の「ちょっとしたざわつき」を止めていないと、五月、六月になっても、絶えずどこかで、ざわざわが途切れないのがクラスの当たり前になってしまいます。この「感覚の慣れ」が怖いのですそれによって、常態化した「ざわつき」が、早ければ六、七月、遅ければ一〇月、一一月になって「爆発」します。その結果すっかり自信を失くした担任教師を「もういっそ、辞めてしまいたい」という気持ちが襲うのです。(130頁)

 

 子どもたちに「答えなき問い」を「自分自身にとってののっぴきならない問い」として引き受けてほしいと願うのならば、当然のことながら、教師が自分自身を「世界からの問い」の前に開き、それを「自分自身にとってののっぴきならない問い」として引き受けなくてはなりません

 教師自身が、自分の人生や世界とのかかわり方を、変えていくのです。

 これが、本書で提示する最後の「教師の資質」です。

 すると、どうでしょう。

 たとえば、テレビでニュースを観ているとき……。

 たとえば、新聞を読んでいるとき……。

 たとえば、日々の暮らしの中でふと疑問を感じたとき……。

 そこで感じた疑問を、世界のさまざまな問いを、教師自身が、自分とは無関係なこととして退けるのではなく、自分自身にとっての、のっぴきならない問いとして引き受け、考え続けること。

 このことが、「教師として持つべき生きる姿勢」となるのです。

 このような姿勢を、教師一人ひとりが持ちながら生きているかどうか。教師自身が、自分も真剣に問うていない問題を、子どもたちに向かって「あなたたち、考えなさい」と言っても、それでは絶対に伝わりません

 教師自身が十分に、考え抜いたうえで子どもたちに提示して、問いははじめて伝わるのです

 言葉を代えれば、人間が生きていくうえで、向き合わざるをえない課題と、まず自分自身が真剣に向き合って生きているかどうか。自分自身がひとりの人間として真摯に向き合っていないのに、子どもたちに人生と真剣に向き合え、と言っても、それは無理でしょう。

 自分自身の人生を本気で生きていない人、この世界が自分たちに問いかけてくる課題、人生が投げかけてくる問いに真剣に向き合っていない人は、教壇に立つ資格はないとさえ思います(224-226頁)