「愛さえあれば、ことばはいらない」は勘違い(上野千鶴子)

 

上野千鶴子『国境お構いなし』朝日新聞社、2003年。

愛さえあれば、ことばはいらない、なんて言うひとがいるようだが、何かかんちがいをしている。ことばがいらなくなるレベルに行くまでに、ことばを尽くさなきゃいけないのだ。(p.41)

 

 アメリカの留学から帰国するとき、アメリカで職探しをする気はないのか、と何人かの人から聞かれた。わたしの答えはノー。ここでは勝負にならない、と感じたからだ。

 社会科学は言語の勝負だ。数学や自然科学ならいざ知らず、社会科学は国境を越えない(経済学と心理学はちがうらしいが)。アイディアを翻訳したとき、それはちがうものに変わる。もしあなたの考えをちがう言語圏の聞き手に正確に伝えたいと思えば、その言語の作法を学ばなければならない。だから英語の論文を書くのはたんなる翻訳ではない。自分の思考を異なる回路にのせることを意味する。ときどき国際会議に招かれて、「すでにある日本語の論文を話してくださればいいですから」と言われることがあるが、とんでもない、同じアイディアで英語の論文を書くのは別の論文を生産するのと同じだけのテマがかかる。日本人の学者でそういう事情をわかっている人は少ない。(p.30)

 

 アメリカにいたときには、たくさんの研究者の講演や講義を聞いた。終わりに質疑応答がある。これは息づまる真剣勝負だ。儀礼的なあいさつのような質問もあるが、多くはおそれを知らない若手の研究者たちが、相手のアキレス腱を衝こうと手ぐすね引いている。半人前の研究者だって、他人の揚げ足取りをするのは一人前だ。たとえ自分が講演者の立場にとって替わることができなくても、批判者の立場になら立てる。そういういじわるな質問に、名のある講演者がどんなふうに切り返すかは見物だった。よく聞いていると、いかにも虚を衝かれたという質問に対しても、必ずしもまともに受けて立っているわけではないことに気づいた。わざとツボをはずしたり、搦め手から答えたり、比喩をもちだしたり、フェイントをかけたり……ロジックだけではなくレトリックの華麗なパフォーマンスに唸った。講演上手と評判をとるスピーカーには、そういう言語的なパフォーマンスの技があった。(pp.30-31)