小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』書評

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

※本書評は2年前に書かれたものです。


この本も言論界の関心、反発、消極的・部分的同調など様々な動きを引き起こしてからもう5年も経った。一時期SAPIOの連載を読んでいた時があったので、大体言いたいことの大筋は分かっていた。今回はたまたま親戚の家の本棚に置いてあったのを見つけたので読んでみたが、そうでなければおそらくまだ読みはしなかっただろう。

この本についての賞賛、激しい非難はすでに言い尽くされている。両者の言い分には確かに一部納得できるものもあったが、概してこの論争は感情的・非生産的なものとなった。第二次世界大戦をめぐる記憶のあり方、そして戦争責任の問題が関わっていたからである。著者は自分に知識がないのをはっきりと認めているが、公共性のあり方について問題提起したことは一応評価できると自分は思っているし、逆に批判者が言うように、小林を始めとする歴史観の見直し派が「サヨク」の使う資料の信憑性を強く疑いながら、自分の論の根拠となる資料についてはほとんど無条件に信用しているという指摘にも納得できるところがある。

著者の目指すところは「公共心の回復」である。戦後民主主義によって誤った個人主義が導入され、本来欧米での個人主義では個が公によって支えられているものであるにも関わらず、戦後日本における進歩的文化人らは、個と公を対立させる過ちを犯した、と言う。すなわち、種々の因習を内包する共同体、例えば家族、地域社会、国家などに対して、個人を対立的な存在として置いてしまった。そこではあらゆる束縛からの個人の解放が至上命令となる。

子供の「個」は家族や地域 学校などの「公」の中で作られる(100頁)

個と公は対立関係ではなく個が公から独立して作られもしない(同)

「個」は「公」という制約の中で育まれる(同)

もし制約のない無限自由の中に個を浮遊させたら他者の手ごたえがないので自分の「個」の性質を規定できず…人のワクが溶けて獣がしみ出てくる(同)

今ここにいるわしは祖父たちからつながる歴史のタテ軸と社会の種々の共同体に属するヨコ軸の交差する一点という制約を受けて「個」を形成する(206頁)

「自己決定能力」という時の自己・自分・個というものはこれらの関係性の凝縮点でもある(同)

自分は自分一人では生きられない(同)

社会の中でしか生きられないという認識から「公」につながる糸口が見えてくる(同)

おそらくこの考えは妥当なものだろうと思う。ただ問題なのは、そこで個の大前提となる公の定義である。小林は、「「公のために」は「国のために」と言いかえても同じではないだろうか?」(342頁)と言う。確かに国は公共性の最も重要な源の一つであるに違いない。しかし本当に公共性とは国にしか還元できないものなのだろうか。「公共性とは、閉鎖性と同質性を求めない共同性、排除と同化に抗する連帯である」(齋藤純一『公共性』岩波書店、2000年)とするならば、排除と同化をその歴史的特徴としてきた国が、開かれた公共性という価値と矛盾をきたすことはないのだろうか。そこまで厳密に考えないと、個と公の関係性をめぐる議論は表層的なものにしかならないのではないだろうか。