明治海軍的リストラ

新装版 坂の上の雲 (3) (文春文庫)

新装版 坂の上の雲 (3) (文春文庫)

読む優先順位があって少しずつしか先に進まないのだけど、文庫版『坂の上の雲』を読み続けています。まだ第三巻ですが、日露戦争直前の緊張感がピークに達したころの日本人の心性の描写のところまで来ました。

日露戦争直前に東郷平八郎が艦隊司令長官に抜擢された時、それまでの艦隊司令長官であった日高壮之丞(ひだか・そうのじょう)を海軍大臣山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)がリストラするシーンがあり、当時の日本人がロシアを心底恐れ、勝つために必死だったことがよく伝わってくる感動的な場面でした。以下長いけど引用。

東郷平八郎という、世間でさほど名のある存在でもないこの人物が、この時期に常備艦隊司令長官になるについては、いろいろ話がある。
それまでの常備艦隊司令長官は、日高壮之丞であった。
日高は薩摩うまれで、戊辰戦争には山本権兵衛とともに一藩兵として従軍した。当時権兵衛とは仲がよく、戊辰の戦乱がしずまってから東京に出てきて、一緒に相撲とりになろうとしたほどの仲である。

そのあと、明治三年、一緒に築地の海軍兵学寮に入った。権兵衛は戊辰のとき年をごまかして少年兵として出征したから、入校のときは「幼年生徒」という資格だった。日高は「壮年生徒」という資格で、幼年は南寮で起居し、壮年は北寮で起居した。

卒業後の日高はおもに艦隊勤務で終始し、明治の日本が経験したすべての戦役に出た。台湾征討には「筑波」、西南ノ役には「日進」の乗組士官として従軍し、日清戦争には主力艦である「橋立」の艦長として戦場をかけまわり、その後累進していまは常備艦隊司令長官として、佐世保軍港にいる。

「絵にかいたようなボッケモン」
というのが薩摩人のあいだでの日高評であった。ボッケモンというのは薩摩特有の血性男児をさし、猛勇できかん気で頑固といったほどの意味である。
日露間の雲ゆきがあやしくなってくるにつれて、戦時の連合艦隊司令長官は当然日高がなるだろうとみられていたし、現職の常備艦隊司令長官である以上、これははずれることはまずない。日高自身もそうおもっていた。

ところが、海軍大臣山本権兵衛は、この時期になって日高を舞鶴鎮守府司令長官の閑職にうつし、海上兵力の総帥の座に東郷平八郎をすえてしまったのである。
この人事を日高に申しわたすことは幼友達の権兵衛にとって厄介なしごとであったらしい。

かれはまず佐世保の日高に電報をうち、いそぎ東上するよう要請した。日高は吉報であるとおもい、東上して海軍大臣官邸に入ると、権兵衛は浮かぬ顔でいる。
さすがに、用件をきりだしかねてだまっていると、気のみじかい日高はいらいらして、
「ときにおれをよんだのは何の用か」
と身をのりだした。
それでも権兵衛は日高の顔を見つめたまましばらくだまっていたが、やがて、
「じつは、お前にかわってもらいたいとおもうのだが」
と、いった。日高は、真っ赤になった。理由をいえ、理由があるのか、とどなると、権兵衛はいよいよ言葉をしぶらせて、
「理由というほどのことはない。お前ももう一年三カ月在職したからこのあたりで気分をかえてもよいとおもう」
というと、日高は腰を浮かし、テーブルをつかんで怒りだし、権兵衛だまれ、そんなこどもだましの言い草におれが乗るとおもうか、一体たれがおれのかわりになるんだ、とどなった。

――じつは東郷だ。
と、権兵衛が後任者の名をあかした。この後任の男が、ゆくゆく開戦というばあい、連合艦隊をひきいてロシア海軍と決戦するのである。
「東郷」
と、日高壮之丞ははじめ耳をうたがい、東郷とは舞鎮のあの東郷のことか、と念を押したくらい、この名前はかれにとって意外だった。
というより、全海軍にとって意外であったであろう。東郷は無口で地味で、自分の存在をおよそ押しだすというところがない。
日高は、おなじ薩摩人として東郷という人物が、どれほどの才能があるかはほぼ知っているつもりであった。あれは日清戦争の直前、大佐で予備役に編入されかかった男ではないか。病身でよく休む、ということが予備役編入名簿に入りかけた理由だが、有能ならいかに病身でも整理リストに入るはずがないのである。日高はそうおもっている。

それに、東郷も日高もほぼ同時期に少尉に任官し、いまはともに中将だが、こんにち海軍畑の下馬評では日高はゆくゆく大将になるであろう、東郷はおそらくいまの舞鶴鎮守府司令長官を最後に、中将どまりで現役をしりぞくことになるにちがいない、といわれていた。

――その東郷に、このおれが。
と、日高が自分の耳をうたがいたくなったのはむりもない。日高は自信家であった。それも過剰なほどに、海軍司令官としての自分の能力について信じることがあつい。
日高にすれば開戦を前にやめさせられるばかりか、その後任者が東郷であるということで、二重の侮辱を感じた。

日高は冷静さをうしなった。くやしさのあまり、腰に帯びている短剣をいきなり抜き、
「権兵衛っ、俺はなにも言わぬ。この短剣で俺を刺し殺してくれ」
と、叫んだ。ヨーロッパの文明国の海軍ではこんなばかな光景はないであろう。このアジアの新興国家にあっては、将官ですらすさまじい蛮性を残していた。日高は、薩摩のボッケモンの対決のつもりで、同郷の権兵衛とにらみあっている。

「日高、狂うのはもっともじゃ」
と、権兵衛はいった。
「わしがお前でも、短剣を抜いただろう。ところで、話をきけ。わしとお前とはまだ幕府があったころから一緒にあるいてきた。お前に対してわしはなんの秘密もなく、お前も同然のはずだ。それだけにたがいの長所も短所も知りぬいている。お前の長所は、非常な勇気があって、ずばぬけて頭がいいことだ。このことはこの俺がたれよりも知っている。ところがここに短所がある。お前はなにごとについても自負心がつよく、つねに自分を押し出さないと気がすまない。さらには自分でこうと思いこめば、他のいうことをいっさいきかない」

山本権兵衛は、東郷と日高の優劣論を、当の日高を前にしてのべた。
「なるほど東郷は、才は君に劣る」
「その劣る東郷を」
と、日高はなおも短剣をはなさず、いよいよ激した。権兵衛はそれをおさえ、まずきいてくれ、といった。権兵衛のみるところ、大軍の将帥は片々たる才気だけでつとまるものではなく、全人格がそれに適いているかどうかできまる、と思っている。

「日露の国交がやぶれた場合、作戦用兵の大方針は大本営が決定し、それを海上の艦隊司令長官に示達する。艦隊司令長官たる者は、大本営の手足のごとくうごいてもらわねばならないが、その点、お前では不安である。お前は気に入らぬと自分勝手の料簡をたてて中央の命令に従わぬかもしれぬ。ここを考えてみよ。もしある命令を出した中央が、その命令を出先艦隊がきいていないことを知らず、艦隊が命令どおりうごいていると信じ、つぎの作戦計画をたてたとすれば、その結果はどうなると思う。作戦は支離滅裂になり、一軍は崩壊し、ついに国家はほろびるだろう」

権兵衛は、つづけた。
「そこへゆくと、東郷という男にはそういう不安はいささかもない。大本営があたえるそのつどそのつどの方針に忠実であろうし、それに臨機応変の処置もとれる。戦国時代の国持の英雄豪傑という役割ならお前のほうがはるかに適任だろうが、近代国家の軍隊の総指揮官はそうはいかない。東郷をえらんだのはそういうことだ。わしはお前には変わらぬ友情をもっている。しかし個人の友情を、国家の大事に代えることはできない」

というと、日高はうなずきはじめ、やがて涙をうかべ、わしがわるかった、そういう理由だとすれば怒るべき筋合はすこしもない、あやまる、といってあたまをさげた。やがて頭をあげたが、ひどく淋しそうだった。このときの日高の表情を、権兵衛はあの顔だけは生涯わすれられない、と、のちのちまでいった。

司馬遼太郎坂の上の雲(三)』(文春文庫、151〜157頁)

なんという魅力的な二人の男なのだろう。辞めるほうも辞めさせられるほうも命がけだった。辞めさせる側は無私であった。日本人はこのような関係を美しいものと考え、歴史小説を通じてそうした美意識が代々伝えられる。現代の「リストラ」という言葉が無味乾燥に感じられ、辞める側も辞めさせる側も保身で精一杯の時代において、かえってこういう濃い人間関係を描く小説は人気を博するのだろうか。