院生の質低下と複眼的思考

知的複眼思考法

知的複眼思考法

中央公論』2011年2月号の特集「大学の耐えられない軽さ」の中で、吉見俊哉東京大学教授が「大学院教育の未来形はどこにあるのか」と題する記事を書いている。その中で吉見は、「外からは見えにくいところで大学院生の学問力は全国で低下してきており、このことが日本の大学院の国際競争力や社会的な評価をさらに下げるというマイナスの循環を生じさせている」と述べている。かつてであれば大学院進学を目指したような優秀な学部生が、「高学歴ワーキングプア」である博士課程の先輩たちを見て進学を目指さなくなっている。定員を埋めるために採った院生の質が下がるのは当然で、その結果大学院は「高等補習機関化」しているという。さらにこの問題は、社会の側に、とりわけ文系について「学位を取得した専門的知性」は「使い物にならない」という認識があるために、解決されないままになっている。

法律学や経済学ならばともかく、人文学や人類学、歴史学などの分野で学位を取った高学歴層は使い物にならないという発想が、企業にも、学生自身の側にも定着してしまっているのではないか。そうであるが故に、大学院重点化で充足しなければならない院生定員が増えることで最もダメージを受けたのもそうした領域であった。(吉見、50頁)

この問題の解決のためには、社会の側の意識変化ももちろん必要であるが、同時に「文系分野も含め、専門的知性の中身について、広く社会に通用する再定義をしていかなければならない」(吉見、51頁)と吉見は述べている。そして最後に、高度な情報技術を使いこなせる能力と人文学的素養を併せ持つ人材を公的に保証していくことの必要性を説いている。

「公的に保証」が具体的にどういう形で可能となるのかが重要であるが、他方で文系分野の側もただ手を拱いているだけでなく、自ら専門知の再定義と社会へのアピールをすることが必要だろう。また、道具としての情報技術だけが必要なのではなく、時代の流れに左右されない基層としての力――論理的思考力と批判的解釈力――もきちんと大学院で培われなければならない。

そんなことを考えている時に思い出したのが、2年ほど前に読んだ苅谷剛彦の『知的複眼思考法』という本である。以前に簡単な書評で、この本のことを「これは院のゼミなどで必読文献にすればいいと思う」と書いたことがあった。何度読んでもためになる本である。

苅谷によれば、知的複眼思考法とは、「問いの展開のしかたに工夫をこらすこと」である。そしてその具体的な三つの形式として、(1)「関係論的なものの見方」、(2)「逆説(パラドクス)の発見」、(3)「メタを問うものの見方」があるという(苅谷、180頁)。(1)は物事を静的・固定的なものとして見るのではなく、他との関係性の中で絶えず変化するものとしてとらえることを指す。(2)は「行為の意図せざる結果」を見出そうとすることで、その一例としてウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を挙げている(苅谷、206〜208頁)。強欲が資本主義の発展につながったのではなく、禁欲と勤勉さが意図せざる結果として資本主義の発展につながったという仮説がまさにそれに当たる。(3)の「メタを問うものの見方」は、「何が問題か」を問うだけではなく、「なぜそれが問題になったのか」まで問うことを意味する。

このような複眼思考法は、どの分野の学問であれ、日々の大学院の授業の中で教員が意識的に生徒に養わせることのできるものである。知識の「何を」獲得したらいいのかを教えるのではなく、「どう」獲得したらいいのかを教えなくてならない。その実践において、この本は多くのヒントを含んでいる。

また、筆者の実体験に基づいて書かれたいくつかの個別の箇所で、非常に参考になるところがあった。それは、「たくさん読んだ本や論文の内容を忘れても、考える力は残る」という考えである。

それでは、あれだけの文献を読んだことは役に立たなかったのか。なにも残らなかったのかというと、そうではない。知識に代わる「何か」が、身についたといえるのです。

それは、考える力――あるいは、考え方のさまざまなパターンを身につけたということです。的確に、批判的に、情報を読み取る能力。問題を探し出す能力。素朴な疑問からスタートして、それを明確な問いとして表現する方法。問いの立てかたと展開のしかた。論理的に自分の考えを展開する力。そして、なによりも問いをずらしていくことで隠された問題を探っていく方法――これらがどのようなものかは、後の章で具体的に説明します――いろいろな人の研究を読み、それを自分の研究にいかしていく過程で、複眼思考のポイントとなる、こうした方法のさまざまなパターンを、自分なりに身につけていったのです。

ひとつひとつの知識の断片はどこかに消えてしまいました。しかし、膨大な本や論文との格闘を通じて、「考える」方法にはさまざまなパターンがあることを、私は学びました。さらには、対象となっている問題に応じて、そうした方法をどのように適用すればよいのかがわかるようになりました。つまり、知識をどのように使っていけば、自分の頭で考えることにつなげていけるのか、それが、しだいにわかるようになっていったのです。(苅谷、37〜38頁)

読んだ内容を忘れないために、梅棹忠夫の「京大型カード」以来、様々な「知的生産の技術」が紹介されてきた。そうした「技術」はもちろんとても重要で、自分もいくつか実践した結果、重要な部分をパソコンに打ち出して、最後に簡単な書評を書くという形式に今は落ち着いている。しかし、苅谷が言うように、読んだ内容を忘れてしまったとしても、そこで論理的・批判的に考えたことは無駄にはなっていないという考え方には、これからまだまだ読みたい本がある身としては、とても励まされる気がする。

また、最後のあとがきで、本書の結論の一つである「知識そのものの価値よりも、知識を獲得する過程で学ぶことのほうが大事」という考えに至った経緯をこう綴っている。

大学の教壇に立つようになってから、六年近くが経つ。学ぶ側から教える立場に変わったとき、いったい自分には何が教えられるのだろうかと考えた。たしかに、大学では専門の授業を受け持つのだから、自分が研究してきたことを教えればよい。専門分野の知識を学生たちに伝えていけば、世間でいわれる大学教師は勤まる。しかし、教師になりたての私には、専門的な知識を教えるだけでよいのかといった、一種の迷いがあった。とくに学部の学生に対しては、専門的知識を一方的に教えたところで、そこにどんな意味があるのか、少なからぬ疑問を感じたのである。

その疑問は、私のもっている知識が、他の人にとっても同じように意味をもつものかどうかという疑いに発するものだった。研究者志望の学生ならまだしも、大学を出てすぐに社会に出る学生たちにとって、私が伝えることのできる専門的知識にいかほどの価値があるのか。知識そのものの価値よりも、むしろ、知識を受け取る過程で学んでいくことがらのほうが、ずっと重要ではないのか、と。(248頁)

この箇所には、筆者の教育者としての誠実さが現れている。今多くの大学ではFaculty Development(FD)と称して授業の改善のためのプログラムを制度化している。しかし、面白い授業に必要なのは、しゃべり方とか板書の工夫とかゲームを取り入れるとか、そういう表面的なことだけではなく、知識を獲得する過程の楽しさと、その過程で学んだことが将来的に大きな意義を持つことを、刺激的な言葉の格闘の中で生徒に伝えられるかどうかではないのだろうか。そう考えると、教員に必要とされる創造性のレベルにおいて、「教育」と「研究」の間に壁はないのではないだろうかと感じてしまう。

*    *    *    *

この本を読んでさらに、ピーター・バーク『知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか』という本のことも思い出した。近々読んでみたい。