ジェームズ・A・スミス『アメリカのシンクタンク』引用

アメリカのシンクタンク―大統領と政策エリートの世界

アメリカのシンクタンク―大統領と政策エリートの世界

■現実社会の適用に無力な社会科学の救済策としてのブルッキングスの活動 → 政策研究と学術研究のさらなる分裂へ(1920年代)

いずれにせよ、ブルッキングスの支持者の研究所に対する見方は、社会科学を「現実社会への適用面ではますます無力な」ものとして、すでに大学を悩ませていた「教育の専門分化」という顕在化しつつあった問題の救済策としての活動であった。かくして、それまで併立していた政策研究における学術的な道と応用的な道はここで大きく分かれ始めたのであった。研究所が一九二〇年代の後半に、世間で論じられている問題を理解するのに大いに貢献する一方、社会科学における学術的進展はますます大学の中に絞られていった。(96頁)

■政治の壁にぶち当たるランド出身の専門家たち(議会・空軍との対立)

しかしこの分析も政治的決定過程から逃れることはできず、ランド・コーポレーションのアナリストたちは、政府に入ってしまうと、分析手法の限界をすぐに知ることになった。マクナマラはヒッチとエントーベンに、アメリカは何発の大陸間弾道弾を必要としているかを決定するように求めた。計量的分析に明るいマクナマラは、約四〇〇発の大陸間弾道弾でソビエトの攻撃を抑止することができると考えた。エントーベンの計算はマクナマラの評価とほぼ一致し、二人とも空軍が要求していた二四〇〇発の正当性を認めなかった。ランドにおける数人のアナリストにとっては、この非常に低い数字も、政府がすでに決めていた方向を後追い的に正当化するための計算であった。しかし、最終的な決定に当たって、分析に使った前提と綿密な計算は、軍部と議会からの圧力という現実に屈しなければならず、政府は一〇〇〇発もの大陸間弾道弾を製造することになった。(200頁)

ランド・コーポレーションのアナリストは、新技術と予算決定に関する問題にシステム手法を取り入れ始めた。調達についての決定、長期計画、巨大で複雑な予算を管理するための手法として、ORと経済分析の計量的合理性が有効のように見えた。しかし、兵器購入、予算作成、ロジスティックなど計量分析が最も適した分野でさえ、分析の結果によって物事が決まっていくという保証はない。また、分析結果と決定が一致していたとしても、分析結果が決定を導いたという十分な証拠にはならない。(200-201頁)

一九五〇年代、ランド・コーポレーションと空軍の関係は、常にスムーズだったというわけではない。特に、空軍から非常に要請の強い武器システムや日常的な運営過程を分析するときはそうであった。一九六〇年代には、システム・アナリストには軍事経験がないことから、ペンタゴンの将校には彼らを軽蔑する者もおり、かなり抵抗された。トーマス・ホワイト将軍が空軍参謀長を引退するとき、次のように書いている。「首都に連れ込まれた、いわゆる専門的『防衛知識人』と呼ばれる、パイプをふかし、頭でっかちな人種に深い危惧を覚える」。彼は、マクナマラが任命した人たちを、若くて軍事経験が欠如しているだけではなく、「世の中を知らない」ことを強調し、自信過剰で傲慢な若い学者だと決めつけた。アナリストの知識は、抽象的、学術的で実際の戦争についてはほとんど知らず、また軍人を軽蔑する傾向もあった。「『防衛知識人』という言葉は、きれいで心地よく、非戦争的、非軍事的である。あたかも現代の戦争は、アイビーでおおわれた大学の大講堂の中でチェス盤上で解決できるとでもいうように」と結んでいる。(201頁)

一九五一年からランドに在籍したジーン・フィッシャーは、マクナマラの試みた管理革命の中心である、いわゆる企画・計画・予算編成システム(PPBS)をチャールズ・ヒッチが組み立てるのを手伝うためにペンタゴンに移った。フィッシャーは、そこで分析的手法が予算決定に非常に有効であると思われたときでさえも、政策結果にほとんど、あるいは全く影響しないことがあることを思い知らされた。一九八六年のインタビューで彼は、「我々はあまりにも素朴すぎた」と、残念そうに述べている。計量分析だけでは、複雑な官僚機構も政治的に老獪な政策立案者も、たやすくは動かないことがわかってきた。しかし、手法の限界が認められても、ランドの研究者たちはシステム分析を政策エリートの共通言語としたのである。(201-202頁)

アメリカ人にとってリベラリズムは自然すぎて、それ自体が問われることがない

ハーツは、アメリカ社会は徹底的にリベラリズムに傾いていると強く主張する。リベラリズムの思想があまりにも深く浸透しているのでさほど明確に表現することもないし、影響力を持たせるための政治運動や政党も必要なかった。深く根を下ろしたリベラリズムの信念とプラグマティズムの精神との結び付きを明らかにしたうえで、彼は明確に「自分の倫理規範が当たり前になったときに初めて、すべての問題は技術上の問題となる」と述べる。アメリカ人にとってリベラリズムは自然であり、それは生まれながらの精神の枠組みである。たとえアメリカ人が保守的であったとしても、保守しようとするのはリベラリズムの価値である。しかし、アメリカ人の文脈の中ではリベラリズムが自然すぎて、リベラリズム自体の自己分析をしにくくしてきたことも事実である。(253頁)

シンクタンクを中庸へと向かわせるワシントン(中庸の例としてのCSIS

首都ワシントンにおける重力は、政策研究機関や専門家を容赦なく中庸に向かって引き込むように働く。ヘリテージ財団ですら、対立する社会問題についての発言を柔らかい言い回しにしてきたし、貿易政策や福祉制度改革などの問題に関しては他の研究機関の専門家とひそかに共同研究を行ってきた。政治信条から出てくる衝動は、実用的な手段を生み出す仕組みである政治システムの中では知らぬ間に消滅してしまう傾向にある。政治信条の信奉者たちも、政策は常に変化し見直されるものであるために、政策的「大勝利」を長く保つことはできない。したがって、長年にわたって活動を続けてきている政策研究機関は、政治権力の中庸を探るための戦略を立案しなくてはならなかった。(298-299頁)

愛想のよいテネシー生れのデビッド・アブシャイアーは、そうした政策研究機関の一つである戦略・国際問題研究センター(Center for Strategic and International Studies: CSIS)の設立に携わった。CSISは研究所の役割をヘリテージ財団ほど好戦的には表現しなかったが、しだいに外交政策立案プロセスの中枢に接近していった。アブシャイアーは、バルーディ・シニア、キャンベル、フュルナーとは違ったタイプのアイディア・ブローカーである。彼はウェストポイントで学び、ジョージタウン大学で歴史学を専攻して博士号を得た。さらにキャピトル・ヒルアメリカ政治を習得した。彼の考えはバルーディとは違って、いずれの利益団体からも影響を受けなかった。また、フュルナーとも違って党派政治の影響も受けなかった。(299頁)

ワシントンに本部を置く研究機関、特に研究活動を主義主張と結び付けようとする研究機関が増えることは、政策論争が激しさを増し、実際的な合意に達する確率は低くなるだけだと思われてきた。しかし中庸に向かう重力――現実の政治を通じて生じてくる力――は、繰り返し現われる。政府の官僚は、自分たちが比較的短い在職期間中に何を成し遂げることができるかを知る時が来る。彼らはまた、再任されたために政党の長期的な要求の影響力が弱められたことを感じ、さらに、自分たちが好むと好まざるとにかかわらず、反対勢力の人間と一緒に働かなくてはならないことにも気づくのである。(304頁)

長年にわたって生き残ってきた研究機関は、そのような中庸の場を占有しようとしてきたのではなく、それを形づくる手助けをしてきた。「アイディアの市場」や「アイディアの戦争」というメタファーは魅力的なものだが、それらはシンクタンクの最も特徴的な役割――中庸の場を作る縁の下の力持ち的な役割や、専門家の知識を政治目的に活かすことのできる仕組みを提供する役割――を反映してはいない。(304-305頁)

シンクタンクの価値は、官僚や政党の争いの競技場の外側に議論の場を作り出すこと

ワシントンの専門分化した政策形成に関与するコミュニティで、CSISは競争相手となるシンクタンク、たとえばブルッキングス研究所の公共政策教育プログラムと同様に、学者、官僚、政治家、利益団体リーダー、労働組合リーダー、経営者などが集まる場を提供している。研究所のさまざまなワーキング・グループは、連邦議会委員会や政党の研究会の枠を超えた政策課題に関する非公式な討論の場となっている。ワシントンにあるいくつかのシンクタンクにとって最も価値ある活動は、新しいアイディアを提案したり、政治に関心のある人々にそうした政策アイディアを広めたりすることではなく、官僚組織や政党の争いの競技場の外側に議論や意見交換の場を作り出すことである。(304頁)

シンクタンクに即効的な成果を求めるようになった巨大財団

保守派のシンクタンクの成功例をまねたり、これまで取り上げられなかった政策課題に焦点を当てたりといったことのほかに、近年の研究機関設立活動の隆盛には次の三つを要因として挙げることができる。第一には、かつて比較的少数の研究機関に巨額の資金を供与し、長期的な研究プロジェクトに助成を行ってきた巨大財団が助成方針を変えたことである。すなわち、より多くの研究機関に資金供与を行うとか、より直接的に助成対象者に自らの活動に責任を持たせるようにするなど、インフレによって目減りした資金で、より即効的な成果を求めるという力が働き、巨大財団は対象を絞って、すぐに成果が現われるようなプロジェクトを助成するようになった。数多くの新しい研究機関が設立された背景には、こうした民間財団が新しく小回りのきく研究機関を捜し求めたという背景がある。(310頁)

■専門家の影響力は直接的なものではなく、ゆっくり知識が沈澱していくプロセス

専門家たちは政府や政治の運営上欠かすことができなくなっているけれども、彼らの政策への直接的な影響力は過大評価されてはならない。ほとんどの場合、その政策への影響力は少なからずあるが、直接的ではない。それは政治プロセスが介在するからである。専門家がなしうるのは、政策そのものに対するよりは行政の運営・評価、政府が必要とするであろうデータの収集や分析に対するものである。(327頁)

政策エリートや理論派の社会科学者たちは、政策課題にアプローチするための視点(次第に精緻なものとなっていく)を提供してきた。そのなかには、景気循環論、ケインジアンの財政理論、金融理論、「公共選択」理論、ミクロ経済理論、人的資本論などさまざまなものがある。また時々には、「相互確認核弾頭破壊(Mutually Assured Destruction)」、「先制攻撃能力(First-Strike Capability)」、「供給サイドの経済学(Supply-Side Economics)」などの支配的な政策概念を提供してきた。
しかし、迅速に根本から国家の政策を変えたり、革新的な法律に直結するような、きらりと光るアイディアを専門家が持ち出すことは稀である。むしろ専門家の仕事はゆっくりとしたもので、ある学者が「知的這い這い」と呼んだ、知識が少しずつ沈澱するようなプロセスの中で、知的資産としての知識を築き上げる。専門家の重要な貢献はじっくりと考えられたものであって、極端な変更ではなく、小さな変化になりがちである。(327頁)

■政府入りして専門家の役割に否定的になったキッシンジャー

時折り、専門家の慎重さが、専門的知識に期待を持っている政治家たちをいらいらさせることがある。
たとえばヘンリー・A・キッシンジャーは、政府での経験を経るに従って、専門家の果たす役割についての見方を変えた。政府から去る頃にはキッシンジャーは、外部の専門家はほとんど革新的な政策とは無関係であり、行政内部の専門家もそうした政策に対する障害物であると考えるようになった。「外部専門家があるべき政策の展望を与えてくれることも稀にはあるが、政策をどう戦略的にうまく実行するかについて本当に手助けとなる、十分な専門知識を持っている場合は、まずほとんどない」と、ハーバード大学教授時代に政権に政策助言をしていた頃を振り返って、彼は書いている。彼は、また「ケネディ政権でコンサルタントとして活動する以前は、私は、他のほとんどの学者たちと同じように、政策に関する意思決定プロセスは非常に知的なものであり、唯一やらねばならぬことは大統領の執務室に入って行って、自分の考えの正しさを大統領に納得させることだと信じてきた。すぐに、この見方は、多くの人々が思っているように危険で未成熟なものであると気がついた」 とも書いている。しっかりとした専門知識に基づく議論は、政策決定プロセス全体から見るとほんの一部にすぎず、政治的かつ慎重な計算が重要であることはほとんどない。(327-328頁)

さらに、リチャード・ニクソンと同様にキッシンジャーは、政府内の専門家の意見にしばしば不信をあらわにした。その理由は、彼らが先入観を持っているからではなくて、彼らが強力で革新的な政策に対して障害になることが非常に多かったからである。キッシンジャーは、最良の政策決定は専門家の意見に従わないことによって行われることが多かった、と認めている。「いかなる国家においても、歴史上画期的な外交政策の多くは、専門家に反対された指導者によって発案されてきた。結局のところ、専門家の役割は既知の事柄を操作することであり、指導者の役割はそれを超えることである」。 (328頁)

キッシンジャーは、基本的に専門家をそれほど重要でないととらえていたと思われる。彼は専門家と指導者の緊張関係をほのめかしつつ、専門家が政府にしっかりとはめ込まれると、専門家の貢献は明らかに減退することを指摘した。制度や仕組みの一構成要素となった専門家は、もはや創造的なアイディアの源泉ではなくなり、代わって専門家は単に既知のことを管理・運用するだけで、お役所仕事を超越することも確立した政策形成パターンに挑戦することもできなくなる。キッシンジャーは事実、専門家の思考は既存の政策枠組みを精巧にしたり洗練したりすることに働いて、イノベーションを妨げているという世の不平感を補強した。(329頁)

■自然科学からのメタファーを借用することで、政治から逃避した社会科学者たち

彼ら(=社会科学者)はあまりにも軽率に、そして無批判に自然科学からのメタファーを受け入れており、時に有益な方法で研究を進める一方で、それらの借用したメタファーは社会科学者が社会を治療する医者や産業エンジニアや実験者になりうるとか、数学者や物理学者の持つ予測の確度をもって理論を仮定することができるといった、過剰な期待をもたらした(現在でも、カオス理論に興味を持っているコンピュータ科学者から借用した、新しい予測メタファーの出現を見ることができる)。しかし、科学者としての社会科学者は、自分たちの洞察力がたいしたものではないことがわかり、特別な病気が治らず、システムがぎこちなく設計され、また、出来事が見通せなかったことで失望を招くことを避けられなかった。さらに借用したメタファーは、事実と価値との間に人工的な区別をつけすぎるきらいがあり、政策専門家をしばしば方法論の技術者にしてしまい、政治の目的についての幅広い問題にうまく適合しないものにしている。実際、価値と究極の目標を議論の枠外に押し出すことによって、応用社会科学は政治から逃避するという不可能な約束をしてきた。(335-336頁)

■世間の議論の乏しさに責任を負っている政策エリート

我々の政治指導者や記者たちは世間の議論の乏しさに対する責任の大部分を負っているが、政策エリートも同様に、いくらかの責任を負っている。なぜなら、専門家は長い間、専門化が進むことによって世論を分断し、それを不可解で脅迫的なものにすることに手を貸してきたからである。ほとんど例外なく、政策研究機関は広範な市民教育についてはほとんど考慮せず、政府関係者に助言を与えたり、(教育とは関係のない)マスメディアの注目を集めたりすることにより神経を使ってきた。(337頁)

専門家階級は一般市民と政府の審議の間に介在し、単純な問題を自分たちだけの言葉でしばしば混乱させ、必要以上に複雑化させ、むずかしい政治問題は専門家の委員会や研究グループに任せることによって政治家の義務をかわす方法を与えた。そのようなシステムのなかでは、責任の所在がはっきりしない。そして、アメリカの政治文化の幅広い背景の中で、市民が専門家たちの激しい論争を評価することは困難である。(337頁)

人間生活の実際的な政治問題によって試されていない知識というものも、無駄で滑稽なものではあるが、知識を欠いた権力は恐ろしいものである。これら二つを、なんとかして結合しなければならないのは明らかである。(339頁)