辻仁成&鷺沢萠書評――恋愛小説と映像化

太陽待ち

太陽待ち

いまこの瞬間 愛しているということ

いまこの瞬間 愛しているということ

夢を見ずにおやすみ (講談社文庫)

夢を見ずにおやすみ (講談社文庫)

『太陽待ち』をあるレビューアーは「筋の通ったねじまき鳥」と書いている。でも村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』が、個人の内面に存在する闇を、夢と現の境目を曖昧にしながら描いているのに対して、『太陽待ち』は、昏睡状態にある二郎の世界として、時間と空間を超越した精神世界のシーンはあるものの、基本的には業を背負って現実を生きている人々の物語である。辻仁成の最近の作品はあまり面白くないとの評判だし、自分も『冷静と情熱のあいだ』を読んだ時は、そうした噂もあながち外れてはいないかも知れないと思ったものだった。ところがこの『太陽待ち』はとても面白かった。本の装丁もいい。

どうして『太陽待ち』が面白かったのかはその時点ではわからなかった。これを読んだあと、同じく辻仁成の『いまこの瞬間愛しているということ』を読んだとき、「ああ、そういうことか」と合点がいった。『いまこの瞬間〜』は面白くなかったのだが、それは読んでいる最中に頭にストーリーの映像が浮かんでしまうからだ。おそらく後者は映画化できるだろう。だが『太陽待ち』のほうはおそらく映画化は、不可能ではないにせよ、かなり難しいだろう。この物語の映像が頭の中でできにくいのである。頭の中で映像化されてしまうと、面白みが半減してしまうのである。たとえ現実にはそうそうないような感動的なストーリーであったとしても、映像化されてしまうとまるで陳腐なものに見えてしまうのである。

言うまでもなく、映像化そのものが悪いと言っているのではない。映画には他に代えられない魅力がある。ただ、小説を読んでいる時に、あまりにあっさりとイメージが浮かんでしまうのが面白くないと言っているのである。ストーリーの単純さも原因であるかも知れない。それとも自分が小説に過大な期待を寄せすぎているのだろうか?

イメージがあっさり浮かぶか否かで見れば、続いて読んだ鷺沢萠の『夢を見ずにおやすみ』も映像として成り立ちやすい。物語の中にはヒーローもヒロインもいない。そのへんにいそうな俗物的なおじさん、おばさん、あんちゃんの物語である。だが、この小説からは、人間の悲哀とその悲哀を苦笑する著者のユーモアセンスが感じられて、それなりに楽しめた。「これら情けなくも、どこか滑稽感の漂う憎めない男たち。そのどうしようもなさを、鷺沢さんは愛しているのだと思われる」と巻末解説で桐野夏生は言う。身近で現実的な素材を使うことと、ストーリーの陳腐さは決して同義ではないのである。

最後に辻仁成二作品を読んで思ったこと。人間はみな、多かれ少なかれ業を背負って生きているのだということ。『太陽待ち』の智子のように、愛したくても愛せない、愛そうと必死で頑張ってみても、記憶がそれを邪魔してしまうつらさ。次に「恋愛の不器用さ」について。『いまこの瞬間〜』には、恋愛に不器用なフランス人シェフが出てくる。一般的に日本では「恋愛に不器用」という表現は、どちらかといえばプラスのイメージで語られる。想いを遂げられないまどろっこしさは人間味のある特徴として微笑ましいものと捉えられる。だが、自分にはどうもこの「恋愛に不器用」という特徴は、美徳でも何でもないと思われて仕方なかった。周りの多くの人間に迷惑をかけるし、純粋と同義で語られやすいこのイメージも、一歩違えば単なる世間知らずになってしまう。むしろ人間関係の機微を理解できないがさつな人間として、軽蔑される特徴にも十分なり得ると思った。