R・ケーガン『ネオコンの論理―アメリカ新保守主義の世界戦略』書評

ネオコンの論理

ネオコンの論理

【まとめ】


■18世紀後半の「弱いアメリカ」と「強いヨーロッパ」→立場の逆転

十八世紀後半のアメリカの政治家は、現在のヨーロッパの政治家に似て、国際紛争を和らげる手段として通商の利点を高く評価し、武力よりも国際法と国際世論で問題を解決しようとした。建国間もない時期のアメリカは、北米大陸内の弱い民族に対しては力を行使したが、ヨーロッパの列強との関係では武力を放棄するよう主張し、十八世紀、十九世紀にヨーロッパの帝国が取り組んだ権力政治(パワー・ポリティクス)を、野蛮な時代への逆戻りだと非難した。歴史家のなかにはこの事実から、アメリカ建国の世代が現実離れした理想主義者で、権力政治を「自国には無縁で嫌悪すべきもの」だと本気で考えていて、「国際関係での力の重要性を理解する」能力が欠けていたとする間違った見方を導き出したものもいる。だが、ジョージ・ワシントン、アレクザンダー・ハミルトン、ジョン・アダムズは、そしてトマス・ジェファーソンすら、現実離れした理想主義者ではなかった。国際的な権力政治の現実を十分に認識していた。状況が許せば、ヨーロッパ流の権力政治を実行する能力をもっていたし、権力政治の舞台でわたりあえる力が自国にあればと願うことも多かった。だが、現実的な政治家として自国の弱さを認識していたので、意識的、無意識的に弱者の戦略を使って、世界のなかで自国の道を切り開こうと努力したのだ。権力政治を非難し、戦争と軍事力を嫌悪すると主張したが、これらはいずれも、ヨーロッパ列強にくらべて自国がはるかに劣っている分野である。通商の利点と効用を称賛したが、これは自国がもっと対等に近い立場で競争できる分野だ。各国の行動を規制する最善の手段として国際法を重視するよう訴えたが、これは、イギリスとフランスの行動を制約する方法がこれ以外にほとんどない現実を認識していたからだ。(14〜15頁)

それから二世紀たって、アメリカとヨーロッパは立場が逆転した。そして見方も逆になった。その一因は、過去二百年に、そしてとくに過去数十年に、欧米の力関係が劇的に変化したことにある。アメリカは弱い国だったとき、間接的な方法で目標を達成する戦略、弱者の戦略を採用していた。いまではアメリカは強力になり、強国の流儀で行動している。ヨーロッパの大国は強力だったとき、政治力と軍事力の栄光を信じていた。いまでは、ヨーロッパは弱いものの立場から世界をみている。

強いアメリカと弱いヨーロッパとで見方が違うことを考えれば、どちらの評価も納得できるものである。ヨーロッパ側はアメリカが問題の解決にこだわりすぎると批判するが、問題解決の能力をもつ人の方が、その能力をもたない人よりも、問題を解決しようとする可能性が高いと考えてまず間違いない。(45頁)

十八世紀には公海での国際法を強く主張したのはアメリカであり、強く反対したのは七つの海を支配していたイギリス海軍であった。無秩序の世界では、弱い国は餌食にされるのではないかとつねに恐れている。これに対して強国は、無秩序よりも、自国の行動を制約しかねないルールを恐れることが少なくない。無秩序の世界であれば、強国は軍事力に頼って安全と繁栄を確保できる。(52頁)

だが、ヨーロッパ人はもうひとつの真実を簡単には認めたがらない。それは、単独行動主義への嫌悪も自己利益に基づくものであることだ。(53頁)

ヨーロッパは、中東はじめ、軍事がからんだ危機のある地域では、強大な経済力を活かして外交上の影響力を確保することができていないようだ。(89頁)


■ヨーロッパが大国の地位を回復するための抜本的転換の必要性

冷戦が終わった後、欧米の識者がヨーロッパの戦略的な役割をヨーロッパ大陸から拡大するよう提案したが、そのためには、ヨーロッパの戦略と軍事力を抜本的に転換する必要があった。ヨーロッパが第二次世界大戦前に維持していた国際的な大国の地位を回復するとの予想が現実的だといえるのは、ヨーロッパの人びとが社会福祉制度から軍事力の整備へと資源の配分を大幅に変更する意思と、攻撃を受けた際に自国を防衛するために整備された戦力を遠い海外に派遣し駐留できる戦力に再編し、軍事技術革新を進める意思をもっている場合だけである。(34〜35頁)


■ヨーロッパの軍事力軽視と米軍駐留は相互に補完し合っている

現状は皮肉に満ちている。ヨーロッパが権力政治を拒否し、国際紛争を解決する手段としての軍事力の役割を軽視しているのは、ヨーロッパにアメリカ軍が駐留を続けている事実があるからなのだ。ヨーロッパがカント流の永遠平和の実現できるのは、アメリカが万人に対する万人の戦いというホッブズ流の世界の掟に従って軍事力を行使し、安全を保障しているときだけである。アメリカの軍事力があるから、ヨーロッパは軍事力はもはや重要でないと信じることができる。そして、最後の皮肉として、アメリカが軍事力によってヨーロッパの問題、とりわけ「ドイツ問題」を解決したからこそ、ヨーロッパ、とくにドイツは現在、アメリカの軍事力と、それを作り支えてきた「戦略文化」が時代後れになり、危険なものになったと信じることができているのである。(中略)ヨーロッパが歴史後の世界に移行できているのは、アメリカが歴史後の世界に移行していないからなのだ。(99〜100頁)

アメリカはヨーロッパがカントのいう永遠平和の天国に入るにあたって決定的な役割を果たしてきたし、この天国を成り立たせるうえで、現在でも決定的な役割を果たしているが、アメリカ自体はこの天国に入ることができない。天国の周囲に築かれた壁を守っているが、門の中に足を踏み入れることはできない。アメリカは自らが保有する強大な力によって、歴史から抜け出せない状況にあり、イラクフセイン政権、イランの聖職者(アヤトラ)、北朝鮮金正日政権、中国の江沢民政権に対応する責任を担い、その恩恵の大部分は他国が受ける仕組みになっているのだ。(102頁)


アメリカが寛大な外交政策を維持する必要性が薄れている

冷戦後にアメリカの政策から寛大さが薄れたと非難する人たちは、少なくともそうなった背景にある論理を認識すべきだ。客観的にみて、寛大さを特徴とする外交政策を維持する必要が薄れているので、アメリカが冷戦期と同じ程度に外交政策で寛大な姿勢をとり、国際機関を同じように重視し、同盟国を同じように気遣い尊重するには、アメリカ国民が以前より理想主義を強めなければならない。(110頁)

アメリカは九月十一日の同時多発テロで変わったわけではない。本来の姿に近づいただけだ。そして、アメリカがとっている道にも、これまでとってきた道にも、過去一年、過去十年はもちろん、過去六十年の大部分の期間でみてすら、不思議だといえる点はなく、過去四世紀の大部分の期間でみてすら、不思議ではないといえるほどである。(117頁)

九月十一日の同時多発テロによって、アメリカは姿勢を変え、歩みを早めたが、それ以前からのコースを根本から変えたわけではない。軍事力に対するアメリカの見方はたしかに変わっておらず、強化されただけである。(124頁)

アル・ゴア候補が当選していても、九月十一日の同時多発テロがなかったとしても、まさにブッシュ大統領のいう「悪の枢軸」を標的としたこれらの政策が推し進められていたはずである。(125頁)


アメリカはヨーロッパの協力を恐れる必要はない

九月十一日の同時多発テロの後、ヨーロッパがきわめて限られた軍事力をあててアフガニスタン攻撃に協力すると表明したとき、アメリカは抵抗した。ヨーロッパの協力がアメリカの行動をしばる策略なのではないかと恐れたのだ。NATOが設立以来はじめて条約第五条の集団的自衛権を発動してアメリカを支援する決定をくだしたとき、ブッシュ政権はこれをヨーロッパの好意とはとらえず、策略ではないかと考えた。(中略)しかしアメリカはきわめて強力なので、贈り物を持ってきたときにすらヨーロッパを恐れる理由はない。アメリカの指導者は、小人に綱で縛られたガリバーであるかのように自国をみるのではなく、実際にはほとんど制約を受けておらず、ヨーロッパにはアメリカを制約するほどの力がない事実を認識すべきだ。自国に対する制約という不正確な認識から生まれる不安を乗り越えれば、他国の見方にもっと敏感に反応できるようになり、冷戦時代のアメリカ外交を特徴づけた寛大さをもう少し示すことができるだろう。多国間主義と法の支配に敬意を払うことができるし、それによって多国間主義では解決できず、単独行動主義の行動をとらざるをえないときのために、国際社会の支持を得やすくしておくことができる。(137〜138頁)


【書評】
チャルマーズ・ジョンソンの詳細な事例を伴った議論に接したあとでは、本書の内容はいかにも単純明快で浅薄に過ぎる嫌いがある。しかし論文として最初に発表されたあと、本書はとりわけヨーロッパにおいて強い衝撃を引き起こした。その論理が単純であるだけに、衝撃はよりストレートなものとなって伝わった。つまりそれは、アメリカが単独行動主義の傾向をますます強めつつあるように見えるのは、アメリカが強いからで、それに対してますます批判を強めるヨーロッパをはじめとする諸国は、弱いが故にアメリカのそうした姿勢に反発するのだという身も蓋もない論理である。この論理の単純さ・明快さは、ハンチントンの「文明の衝突」論やフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」のそれに引けをとらない。しかしまた他方で、こうした単純明快な議論が共通に持つ、現実の複雑さの無視という欠点も本書には明らかに存在している。

恐らくいちいち具体例を挙げて本書の内容を反証することは可能なことだろう。しかしより重要な点は、こうした単純明快な論理を、アメリカの指導者たちが醒めた目をもって共有しているという事実の方にある。そして著者が指摘するとおり、こうした力の論理は9・11事件のあと急速に現れたものではなく、建国以来受け継がれてきたアメリカ外交の伝統なのである。

一人歩きしがちに見える「ネオコン」という言葉と同様、こうしたアメリカの単独行動主義は過度にセンセーショナルな捉え方をされているように見える。それがアメリカ外交の伝統であり、容易に修正できるような性格ではないのなら、それを批判する側もそのようなものとして扱う姿勢が必要だ。すなわち、どれほど単純明快で一見説得力があるように見えようとも、地道に反論を提示していく他ないのである。解説で福田和也が、まずは本書の議論に接して愕然とすべきだと言っているが、こういうセンセーショナルな捉え方をしていては、核心を見誤る。大国の地位を維持または回復するには、軍事力を質量ともに高めるべきだという著者の議論に対しては、反証のための材料がいくらでもあるのだから、愕然としている暇があるなら、地道に反論を重ねるべきなのである。