Roxanne Lynn Doty, Immigration and national identityレビュー

Roxanne Lynn Doty, “Immigration and national identity: constructing the nation,” Review of International Studies, Vol.22 (1996), pp.235-255. レビュー


ナショナル・アイデンティティは社会的に構成されたもので、本来的に絶えざる変化に晒されているものであるとする社会構成主義者の立場から、戦後における英国の移民政策の変遷をケースに取り上げた論文。かつて七つの海を支配したと言われる大英帝国が第二次大戦における消耗と疲弊によって帝国の座から降ろされ、新たに「Britishness」を構築していくプロセスを移民政策の変化の中に見出そうとする。論旨は明快で説得力があり、移民問題がナショナル・アイデンティティの研究を行うコンストラクティヴィストに強力な経験的事例を提供していることがわかる。

英国人にとって何をもって「英国人らしさ」と見なすか、英国民とは誰を指すのか、というのは歴史的に決して一貫したものではあり得なかったにも関わらず、それはあたかも所与のものとして存在しているかのように語られ、当然視され、そして政治的に極めて重要な意味を持つものであった(237頁)。本来的に曖昧模糊とした英国人のナショナル・アイデンティティが、仮に一時的なものであれ、固定的な意味を持つのであれば、それは一体どのようにして起こるのであろうか。ある社会が内部と外部を隔てる境界線を引く時、それは何をきっかけにして行われるのであろうか。以上が本稿においてDotyが抱いている問題意識である。

英国の移民政策の変遷をここで詳らかに書くことはしないが、1948年に英国国籍法が制定されてから1962年に英連邦移民法が制定されるまでの間、帝国の座から陥落した英国にとって「英連邦」という実体がアイデンティティの最も重要なよすがとなっていたことが本稿からわかる。故に、終戦直後の旧自治領(オーストラリア、カナダ、ニュージーランドのいわゆる「白人」自治領)からの移民は寛大に扱われ、地域や民族によって差別を受けることはなかった。しかしながら、戦後にアジアとアフリカで独立を遂げた国々から大量に移民が流入してくるようになった時、英国社会には緊張と対立が生まれ、移民管理の厳格化を求める声が高まっていった(244頁)。その後移民の管理は次第に強化されていき、それに伴って「誰が真の英国人(であるべき)か」を決める境界線が引かれていく。その背後には英国のナショナル・アイデンティティを固定化させる有力な言説が存在していたことが本稿で述べられている。意味を固定化させるそうした特権的な言説は、英国の移民政策にとっては右派の反移民の主張であり、そうした言説が移民問題を論じる際の枠組みを提供した(250頁)。LaclauとMouffeはこうした機能を果たす言説を「nodal points」と、Lacanは「privileged signifiers」と、そしてDerridaは「dominant signifiers」と呼んでいる(240頁)。ちなみにそうした「排除の言説」に特徴的なのは、移民を無秩序、犯罪、不衛生といった否定的な概念に結びつける場合が多いということである。

本稿の最も重要な指摘の一つは、戦後の英国の移民政策が、英連邦という一見普遍的で開放的なアイデンティティと、その後の右派による排他的な反移民論が説く英国の特殊性は、実は対立的な概念ではなく、むしろ「相互に構成的、あるいは相互に侵食し合う関係」が成り立っているということだろう(239頁)。より具体的に言えば、英連邦に英国のアイデンティティを見出そうとする擬似普遍主義は、「英国の偉大さ」という特殊主義があって初めて成り立つ。この場合特殊主義は「構成的な外部」(a constitutive outside、248頁)として機能し、これなくして擬似普遍主義は生まれ得ない。しかし他方で、特殊主義が「我々対彼ら」という二分法を用いている点で、普遍主義は擬似的なものにしかなり得ず、真に普遍主義的なものとはならない(248〜249頁)。

以上のような関係を、DotyはBhabhaの「hybridity」という概念で説明する(内部と外部の「異種交配」とでも訳すのだろうか)。「内部」と「外部」の間に境界を作り出す時、「内部」は「外部」を取り込むことによって、絶えず自身を構成し続けている。「外部の他者」を「内部の他者」に変え、それによって「内部」そのものを定義しなおしていく(254頁)。この過程は繰り返し行われ、その都度短期的に固定的なアイデンティティが形成される。これはまさに、英国に大量の非白人移民が流入してきた時に英国のナショナル・アイデンティティが経験したことであった。「内部」が自身を構成する上で「外部」の存在を必要としているということは、「基盤となる中心」が内部自身の中には存在していないことを意味する。

おそらくナショナル・アイデンティティの持つ力は、基盤となる中心が存在することによってもたらされるのではなく、そのような中心が欠如していることで、(再)定義、排除と取り込みの両過程が絶えず可能になっていることから来るものである。(252頁)

英国に限らずナショナル・アイデンティティは、全く動揺を経験しない所与のものでは決してなく、「偶然に依拠した、恣意的で、不安定な性格」(254頁)を有したものであるということが、本稿における議論の結論である。