『北朝鮮をめぐる北東アジアの国際関係と日本』書評

北朝鮮をめぐる北東アジアの国際関係と日本

北朝鮮をめぐる北東アジアの国際関係と日本

アマゾンのあるレビュアーが書いていたとおり、一般には左右どちらかに偏りがちな北朝鮮本であるが、本書は両方の議論を取り入れることでバランスを保っている。もしこの本の執筆者全員が一堂に会して議論をしたならば、間違いなく収集のつかない喧嘩になってしまうだろうと思う。しかし同時に、これも別のレビュアーが書いていたとおり、論文の質はかなり上下する。単に出来事を時系列的に羅列しただけのものや、明らかに偏った視点で問題を分析しているものもある。

本書の中で最も興味を引かれたのが、清水耕介の論文「日朝関係における国家主義言説と市民概念」である。この論文の内容は、この本に収められている他のほとんどの論文の存在意義を否定してしまってもおかしくないと思う。これまでの国際関係学・国際政治経済学が「国家の論理」と「市場の論理」のみで国際的な現象や出来事を分析できると考えてきた点を指摘し、そこから軍事的封じ込めや経済制裁という対北朝鮮政策のオプションは出てきても、それ以外の選択、とりわけ「市民の論理」に基づいた政策は一顧だにされないと述べる。

国家間システムに焦点をあてた分析は、「非常に短期的な分析結果のみを重要視」(148頁)し、かつそこでは単純な善悪の二項対立が中心を占める。

そこでは、先に善悪のフレームがつくられ、そこで「善」の側に立つ主体がどのような戦略をとれば「悪」を駆逐できるのかという方法論のみが意味を持つ。「善」と「悪」とがどのような歴史的な経緯を持ち、それがどのように連続・非連続を生み出してきたのかという視点は舞台の袖へと押しやられてしまう。そして「善」と「悪」の歴史的生産過程は不問に付されるのである。この歴史的な視点の欠落は、現代社会の構造それ自体への批判的なアプローチを骨抜きにしようとし、構造の保守化・管理方法の学問化を更に促進する。(148頁)

この二項対立は、意識的にせよ無意識的にせよ、客観性を装う。それはソ連が崩壊した時に露わになった。

ジム・ジョージはソビエト連邦の崩壊が国際関係学に与えたショックを分析し、科学化への道をひた走る研究者たちに警笛を鳴らした。他者を客観的に分析しているつもりでも、多くの場合自己の正当化のみがなされてしまうことが往々にしてあると考えられるからである。(151〜152頁)

清水は、ポストモダニズムにおける「我々/彼ら」の二項対立概念を日朝国交正常化交渉に適用し、そのせいで北朝鮮との交渉が「北朝鮮を許すのか許さないのか」という話にのみ集中してしまったことを指摘する。

もともと日本政府と北朝鮮政府との関係を語っていたはずの国交正常化交渉は、北朝鮮が「善」か「悪」か、北朝鮮を「許すのか」それとも「許さない」のかというところへと論点をずらすことによって、結果的に「日本」の正統性を補強し、本来関係性の中に見つけられるはずの解決策が、北朝鮮政府の肩の上にのみ存在するかのような印象を人々に与え出したことも重要な展開であったといえるだろう。(153頁)

そしてそのような二項対立が想像力を貧困にし、「市民の論理」を門前払いする。

選択肢が二つなら、どちらかが正しくなければならないという強迫観念にも似たプレッシャーは、他にも何らかの可能な選択肢があるであろうという簡単な予測でさえ私たちの頭から追い出してしまう。日朝会談においては、私たちは日本政府の議論か、北朝鮮政府の議論かどちらかを「正しい」議論として選択しなければならないと思い込まされる。どちらも「正しく」どちらも「間違っている」という議論は、矛盾を孕むとして一蹴される。(154頁)

あたかも対立構造でしか世界は理解できないかのごとく。そして、その主体が常に国家間システムもしくは資本主義を鼓舞する人々を代表してきたことも忘れ去られてきた。つまり、市民の不在である。(155頁)

清水が指摘することはどれももっともなことである。ただ実際には、北朝鮮問題の専門家には、「必要以上に対立構造を強調してきた北朝鮮および東アジア政治の専門家」(152頁)とは異なる、幅広い視点を考慮できる人も多くいると思う。しかし、拉致問題が大きく影響を持つようになって以降は、そのような議論が埋もれてしまっていることも事実である。

他の論文については、特に指摘するほどの目新しい視点というものはないが、北朝鮮問題に関連した歴史的事実や出来事については教えられることがかなりあった。武貞秀士論文では、ロシアが持っている「シベリア鉄道朝鮮半島鉄道の連結」という構想が金正日の対外戦略に合致した様子が書かれている。杉田米行論文では、アメリカの歴史的な発展過程が、アメリカをして異質な価値観を受け入れられない国にしてしまい、それが「アジアに対する蔑視」にもつながっていると論じている。大津留(北川)智恵子論文では、脱北者北朝鮮の体制転換のための「手段」として使われることに疑問を呈し、人権と体制転換の問題についてアメリカや中国の事例も交えながら論じている。ソニア・リャン論文は、日本の事情にまだ疎いのではないかと思われる箇所が多々あったが、あまり論じられることのない在日朝鮮人の戦後史について、占領軍による弾圧、朝鮮総連の設立、日本国内での処遇、北朝鮮への帰還といった歴史的事実を記述している。

あとがきで二人の編者が最後まで意見を衝突させたことが記されている。それは「日米同盟は解消すべきか強化すべきか」という古くて新しい問題をめぐってである。だが、正直言って、両者の主張とも一面的で想像力に乏しいという印象を受けた。清水耕介の議論に即して言うなら、二人とも「国家の論理」に縛られてそれ以外の選択肢が見えていないのである。

議論の仕方や結論の導き方に多々不満はあったものの、本書は北朝鮮をめぐる国際関係について幅広い視点から議論を展開しており、多くの予備知識を与えてくれる。そういう意味では、読むに値する本ではあると思う。