石川准『アイデンティティ・ゲーム』1、5章
- 作者: 石川准
- 出版社/メーカー: 新評論
- 発売日: 1992/10
- メディア: 単行本
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まず、個人のレベルで考えた場合、人間が存在証明に躍起になるのは、人間は「自分がいかに価値のある人間であるか」(15頁)を証明せずにはいられない生き物であるからだと述べられている。
なぜわれわれは存在証明にそんなにも熱心なのだろうか。それは次のように考えなければ説明がつかない。すなわちわれわれは、自分という存在そのものには何の価値もないと信じているということだ。価値のある人間になるためにわれわれが努力を惜しまないのはそのためだ。内心の自己嫌悪が強いほど存在証明は熱を帯びる。われわれは存在証明に躍起になり、人生の大半はそのために消費される。(37頁)
他方で、もっと大きな視点で見た場合、社会が社会の構成員に対して存在証明を要求するものであると考えられる。
社会は、漠然と存在証明を要求するのではなく、社会成員の属性ごとに特定の項目に重みを付けながら――たとえば男性成員には能力の証を、女性成員には愛の証を求めるというように――、しかも存在証明の方法、形式、手段などにいたるまで事細かく価値づけすることで、社会成員の行動を水路づけ、管理し、秩序を調達している。(33〜34頁)
アイデンティティを失った場合の対処の仕方としては、「印象操作」「名誉挽回」「開き直り」「価値の奪い取り」の4つが挙げられている。
アイデンティティをめぐって紛争が絶えないのは、われわれ人間が存在証明のために「やらなくてもよいことをわざわざ行なう」(17頁)ためで、「アイデンティティ問題も差別も、そうした余分な価値づけ・価値剥奪がいたるところで過剰に行なわれるからこそ産出され続ける、というのが私の主張だ」(40頁)と述べている箇所には頷かされた。
社会が「煽る装置」として存在証明を我々に迫ってくる一方で、著者は存在証明の「実際的な効用」も指摘する。
プロテスタンティズムによって煽られたヴェーバーのピューリタンたちがそうだったように、存在証明へと煽られるからこそわれわれは自分でも信じられないほどのパフォーマンスを示すことができる。社会は「煽る装置」を駆使してわれわれに迫ってくるが、人は人でそうした力に翻弄されながらも、自分の存在証明への衝動を活用しながら自己の目的を達成していくしたたかさを持ち合わせている。(40〜41頁)
ちなみに、この「煽る装置」について、著者は注で以下のような興味深い指摘をしている。
大村英昭は『死ねない時代』の中で欲望を鎮める装置としての仏教の機能を論じ、合わせて欲望を煽る装置としてのプロテスタンティズムにも言及している。(43頁、注12)
第5章「逸脱の政治――スティグマを貼られた人々のアイデンティティ管理」では、逸脱社会学の理論の系譜が紹介されている。「逸脱」のレッテルを貼る側の道徳的絶対性を前提にし、「逸脱」行動の原因解明だけを志向していた「コンセンサス・アプローチ」から、そもそも「逸脱」の基準・規範がいかなるコンテクストの中で生まれてきたのか、その社会性と政治性を問い、そして支配的となったその規範が社会の中でいかなる機能を持っているのかに着目した「コンフリクト・アプローチ」へ逸脱社会学が移行したことが記されている。この「コンフリクト・アプローチ」を端的に表わしているのは次のエリクソンの言葉である。
逸脱の社会学が一番問題にしなければならないのは評価者の方である(195頁)
そのような方法論的変化が起こる中でまず現れたのが、「烙印論」(labeling theory)の「逸脱増幅説」である。
シェフによる精神病患者についての研究によれば、「強い否定的な評価を含んだこの烙印が規範侵犯者に貼られることで、それまでは無定形で、あるいは一過性のものだったかもしれない残基的な規範侵犯が構造化され、斉一的な安定した「症状」になる」(198頁)。
すなわちそれは、「逸脱」のレッテルを貼ることによって「逸脱者」は周囲から冷遇されるようになり、ますますその「逸脱」を助長させてしまうと考える立場であり、「社会統制の弛緩が逸脱を招くとする伝統的な見方に、致命的な打撃を与えた」(203頁)という意味で非常に大きな影響力を及ぼした。
同じく逸脱増幅説としてベッカーの「逸脱文化論」がある。
逸脱文化論は、全体社会の支配的な規範からは逸脱とされる行動を、正当化し奨励する逸脱的「下位文化」(subculture)が存在するとして、多くの逸脱は、じつはこの下位文化への同調だったと主張する。そして逸脱文化論は、人がいかなる経緯をたどって逸脱的下位文化に包絡されるに至るのか、また逸脱的下位文化はいかに形成され維持されるのかを研究主題とする。(199頁)
ここでもやはり、否定的評価を受けた「逸脱者」が、社会の主流の規範から受けるサンクションによって逸脱文化への接近を余儀なくされる「逸脱の増幅」が指摘される。
ところが、この「逸脱増幅説」には、「逸脱者」をあまりにも受動的な存在として描きすぎる欠点があった。「逸脱増幅というアイロニーを強調するあまり、彼らの意志決定主体としての能力を軽視し、社会統制に翻弄されるだけの無力な存在」(203頁)とみなすきらいがあったのである。
そこで、「逸脱者」は「見つめられる存在」であるばかりではなく、積極的に「見せる存在」でもあることを強調したのが、アーヴィング・ゴッフマンの「演劇論的逸脱論」である。人は外部から与えられるレッテルやアイデンティティを受動的に受け入れるだけではなく、「他者に向かって積極的にこれはと思うアイデンティティ請求(identity claim)を行なう」(205頁)存在でもある。人は「印象操作」を巧みに行いながら、他者に働きかけて積極的に「アイデンティティ管理」を行う存在とみなされる。(印象操作の技術としては、「成りすまし」(passing)、「カモフラージュ」(covering)、「役割距離」(role distance)が挙げられている。)
ゴッフマンの演劇論的逸脱論は理論の系譜の中でどのように位置づけられるだろうか。著者は以下のように見事にまとめている。
彼の演劇論的社会学は、「世界内存在」としての人間の受動性を強調する社会化偏重の人間観とも、人は没意味的な世界に対し絶えず独自に新しい意味を付与しつづけるとする、過度に構成主義的な人間観とも異なる。世界内存在である逸脱者は、スティグマという間主観的な意味に呪縛されつつも、あるいは呪縛されているからこそ、相互作用を通じて、そのような間主観的な意味に働きかけ、意味の変容を行なえると彼は考えている。(211頁)
しかしながら、「逸脱」のレッテルを貼られた「逸脱者」たちが、常に社会の主流派の規範に同調・適応するとは限らない。どれほど印象操作が巧みであっても、それだけで社会からの否定的な評価の全てを回避できるわけではもちろんない。そこで「逸脱者」は時として、社会の主流派の規範に挑戦し、集合的抗議を起こす。ここで重要になってくるのが、「逸脱の政治パースペクティブ」(219頁)である。
ここで強調したいのは、逸脱の政治は常にアイデンティティという相克的な価値をめぐるコンフリクトだということだ。逸脱の政治はスティグマを貼られた人々にとってのみ、アイデンティティ管理の戦略なのではない。スティグマを貼り付ける党派は、自分たちの社会的地位を保全するために逸脱者を必要とする。(215頁)
そして、このアイデンティティをめぐるコンフリクト状況にあまり注目しなかった点がゴッフマン社会学の欠点であると指摘する。
アイデンティティの相克性は、体面を繕うための印象操作に関心を寄せるあまり、ゴッフマンが軽視した点である。人は他者に理解を求めるのみならず、それとともに時として他者の価値を否定し剥奪することで、相対的に自分を支えようとする。(217頁)
逸脱の定義が社会的に構成されたものであることを強調した「コンフリクト・アプローチ」は理論における重要な進歩であった。しかし、そこに政治性や権力をみる視点が導入されて初めて、それはより妥当なものとなる。
逸脱の定義は、社会的に構成されたリアリティである。この点では、逸脱へのコンフリクト・アプローチは、現象学的社会学や象徴的相互作用論が切り開いた、人と社会に関する見方を継承する。だが、それだけではけっして十分ではない。われわれは逸脱に政治性や権力を見る枠組、すなわち「逸脱の政治パースペクティブ」を必要としている。(219頁)
最後に著者は、「逸脱」のレッテルを貼られた集団が政治化して、その集団的抗議を成功させるのに最も重要なのが、「社会的ネットワーク」の有無であると指摘する。それによって、そうしたネットワークがなかったならば「ただ乗り」や「裏切り」が起こったかも知れない集合的抗議が政治力を持つに至る(226〜227頁)。
本論稿から学んだことは実に多い。船津衛「『自我』の社会学」についてのコメントでも書いたとおり、これを集合的アイデンティティに適用することは恐らく可能だろう。自分が不勉強で知らないだけで、印象操作や役割距離や役割形成といったモデルを国家の対外政策に適用した研究もたくさんあるはずだ。
また、ここで紹介されている演劇論的逸脱論や逸脱文化論と、逸脱の政治パースペクティブは、安野正士の言う「アイデンティティ中心」(Identity-Centered)モデルと「利害中心」(Interest-Centered)モデルにそれぞれ該当するものとして考えることはできないだろうか。*1それが可能だとすれば、IdentityとInterestが、お互いに独立しつつも相互作用する「第三のモデル」(Middle Ground)を逸脱社会学の理論を使って論じることも可能なのではないだろうか。さらにそこから、このMiddle Groundが抱える限界まで論じられたらと今考えている。
*1:Tadashi Anno, Collective Identity As an “Emotional Investment Portfolio”: An Economic Analogy to a Psychological Process. In Rudra Sil and Eileen M. Doherty eds., Beyond Boundaries?: Disciplines, Paradigms, and Theoretical Integration in International Studies. NY: State University of New York Press. 2000. p.123.