David Campbell, Writing Security書評⑩(完)

sunchan20042005-10-10

【Epilogue. The Disciplinary Politics of Theorizing Identity】

この最終章では、アイデンティティ論の展望というよりは、アイデンティティ論が国際関係理論における主流派の理論家からどれほど誤ったイメージと浅薄な理解によって評価を下されてきたかが書かれている。そうした理論家としてKeohane、Ruggie、Mearsheimerなど聞き慣れた名前が挙げられている。渋々ながらも一応「ポスト構造主義者」という自身に対する称号を受け入れたCampbellは、その「ポスト構造主義」と主流派の理論がどのような点において一線を画すのかをやや大雑把な表現で述べている。

まずKeohaneは、批判理論をひっくるめて「リフレクティヴィスト(reflectivists)」と呼び、実証における厳密性を重視する「合理主義者(rationalists)」と対比させる。そして、前者がそうした厳密性を実現するまでは、それに真剣に耳を傾ける価値はないと言う(211頁)。Mearsheimerによって同じ批判理論の範疇に含められたRuggieは、いわゆる「ポストモダニズム」が現代において倫理学政治学に対して貢献できると考える必要はないと言い切る(211頁)。しかしながら、根拠と厳密性に非常にこだわるこの「啓蒙主義者たち」が、彼らが危険であるとみなす理論を分析する際にはなぜかそうしたこだわりを忘れてしまうのは不思議だとCampbellは述べている(211頁)。

ポストモダニズム」(「」をつけるのは、主流派がそう呼んでいるため)に対する誤った理解に基づいて主流派理論家が抱く恐れとは、「ポストモダニズム」では「あらゆるものが認められ」、「あらゆる解釈が等しく価値あるもの」であり、「我々自身には判断を下す能力はない」と主張されていると考え、それによって倫理や真実の解体が起こってしまうというものである(212頁)。「ポストモダニズム」は、「解釈的分析手法」(interpretive analytic)と考えられ、それは「現在を歴史的に考えようと試みる」批判的姿勢のことを意味する(213頁)。

ポスト構造主義」は、「『ポストモダニズム』に対する解釈的分析手法」(216頁)を意味し、主流派の理論とは認識論的に見て大きく性格を異にする。また、一括りにされがちなコンストラクティヴィズムともラディカルさの度合いにおいて大きく異なっている。まず主流派の理論が客観的な知識の蓄積の追求をその使命と考えているのに対し、「ポスト構造主義」は政治的な影響をもたらす解釈的介入が自身の仕事であると考えている(221〜222頁)。コンストラクティヴィズムとの相違は、「ポスト構造主義」が「主体概念の不確実化」(the problematization of subjectivity、223頁)にその意義を依存していることである。後者が、アイデンティティ脱構築アイデンティティの構築に必要な「政治的なるもの」の範囲を広げ、同時に既存のアイデンティティ形成の土台を揺るがして他の選択肢を可能にすると考えているのに対し、前者はそこまでラディカルな姿勢は取らず、分析を締めくくる一つの方法として、アイデンティティのいくつかの特性を固定化することを好むのである(223頁)。

ポスト構造主義者」がアイデンティティ政治の非政治化・非歴史化に異議を唱え、他方で頑固なリアリストは彼らが厳密性の欠如と見なすものを嘆くのである(225頁)。また、両者の対話は必要であり歓迎すべきものであるが、おそらくその結果、両者の関係は「根本的に異なった倫理的・政治的立場間の対立」(225頁)であることがわかるであろうとCampbellは述べている。それぞれのグループはそれぞれの「組織綱領」(226頁)を持っており、その相違は「政治的批判の特質」と「社会科学の厳密性」の間の相違、あるいはまた「解釈の論理」(a logic of interpretation)と「説明の論理」(a logic of explanation)の間の相違であると言える(226頁)。前者の仕事に携わっている「ポスト構造主義者たち」は、国際関係論というディシプリン内における彼らの研究の位置によって不利益を被ることはあまりないし、他方、社会科学的な手続きのもとに行われている研究は、彼らのディシプリンにおける聴衆とその研究の影響力を最大化するような形で議論を位置づけることに常に関心を持っている(226頁)。

少なくとも狭い社会科学的意味合いにおいては、個人にとっても集団にとっても、アイデンティティが単に周縁的な属性ではなくて、存在にとって不可避の要素であるということを実証する「証拠」はほとんどない。しかしながら、アイデンティティが政治的争いの場であることを示す証拠は、公文書や政治的言説の中にたくさん存在している(226頁)。

異なる理論間の異なる目的は、Connollyが言う「政治存在論的前提」(ontopolitical assumptions)によって理解することができる。それは現実に起こった出来事とそれを理解する我々の能力の本質についての判断であり、それが鍵概念となるのは、国際関係論において競合している理論間の対立は、方法論的・認識論的な不一致を超えたところで起こっているからである。そうした対立は、それぞれの理論が、我々が生きる世界とその中における場の本質についての強力な前提を有していることの証拠であり、そうした前提によって、それぞれに異なる表現形式を採用することになるのである(226〜227頁)。

Campbellの議論からすれば、「ポスト構造主義」は既存の主流派理論に対して常に批判的な姿勢を持ち続け、「政治的なるもの」(the political)を国家の枠組のみに矮小化させないためのあらゆる代替の選択肢を用意することを目的にしているということになり、確かにそれは狭い意味での社会「科学」とは異なるものかも知れない。その意味で、「ポスト構造主義者」が提唱するアイデンティティの理論は文字通り「批判理論」である。Campbellは両者の対話は必要で歓迎すべきものと述べているが、実際に生産的な対話が実現するためには、本書でCampbellが展開したアイデンティティ論が、主流の理論家たちにどのように受け止められたのか、そして彼らのその後の理論研究にどのような変化をもたらしたのかが明確に示されなくてはならないだろう。この本が出た1992年以降にアイデンティティを論じた論文や文献を検証する際には、Campbellの問題提起にどう答えているのかを見ながら進める必要がありそうである。(了)