吉野耕作『文化ナショナリズムの社会学』書評

文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方

文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方

戦前・戦中の日本に典型的に見られた政治イデオロギーとしての「頭大文字・単数形」のナショナリズム(Nationalism)がもはや社会的に有意なものとしてのアクチュアリティを失ってしまった一方で、様々な社会集団ごとに内容を異にする「頭小文字・複数形」のナショナリズム(nationalisms)の重要性はますます高まっているという認識に基づき(199頁)、「ナショナルな共同体の再生をめざす活動」(11頁)としての文化ナショナリズムを理論的・実証的に分析した、このテーマにおける先駆的な研究書である。日本における文化ナショナリズムの例として1970年代に盛り上がりを見せた日本人論を取り上げ、日本人論のテクストに現れた論理を再確認しつつ、80年代に入ってから日本人論に向けられた批判や解釈が、実は日本人論が有していたのと同じ「知的文化」(6頁)に拘束されてしまっていたと批判的に検証する。すなわち、日本人論が説く「日本人・日本文化の特殊性」に対する批判の仕方が、「自民族の特殊性やアイデンティティに執着するのは日本人だけである」という形をとることによって、むしろ批判していたはずの日本人論と同じく日本の特殊性を前提してしまうという矛盾に陥っていた点が本書で鮮やかに指摘されている。換言すれば、これまでの文化ナショナリズム批判には、比較研究という発想が決定的に欠けていたということになる(6頁)。現実には、世界各地に様々な自民族独自論が存在してきたことが本書で実証されている。

また、これは吉野による最も大きな学問的貢献であると思われるが、本書では、80年代以降の日本人論批判(あるいは従来の古典的ナショナリズム研究全般)に欠けていた「テクストの受容過程」に対して焦点が当てられている。すなわち、これまでの日本人論批判は、日本人論のテクストそのものが抱える曖昧さと非論理性に対する批判にのみ終始して、その日本人論が一般大衆によってどのように読まれたのかという視点を有していなかったということである。吉野の言葉を借りれば、文化ナショナリズムの「生産」のみならず、「消費」にも着目しなくてはならないということになる。(「生産主義的」ナショナリズム理論は、必然的に「エリートによる大衆操作」という側面に注目してしまい、大衆の側から起こる自発的な動きを見逃してしまうという弱点があった。209〜211頁)テクストそのものの検討のみならず、テクストと読者(聴衆)の関係、またはテクストとテクストの関係(「テクスト間」(inter-textual)関係)をも分析しなくてはならない(212〜213頁)。それによって初めて、日本人論の著者の意図とは離れたところで起こるナショナリズムの再構築、維持、強化(「再構築型ナショナリズム」)の実態が明らかとなる。

ナショナリズム理論の体系的な分類を行っている第二章では、ナショナリズムを活性化させる三つの分析次元として、原初主義/境界主義、表出主義/手段主義、歴史主義/近代主義が挙げられている。これらの分析次元は、それぞれに他方の不十分なところを補完する関係にあり、その相互補完的な関係によって時間と空間の両方の視点からナショナリズムにアプローチすることが可能となる。ちなみに、他者の存在を通して自己のアイデンティティを創造/強化する運動(さらにはそれが対外政策の作成につながっている点)に着目したDavid Campbellのような論者の議論は、まさしく境界主義のアプローチに該当する。本書では、ホブスボームの「伝統の創造」概念が原初主義と境界主義(または歴史主義と近代主義)の橋渡しを可能にする概念として積極的な評価が与えられている(44〜47頁)。

また、ナショナル・アイデンティティの表現のされ方が、ナショナリズムの発展段階(時間)とそれが起こる場所(空間)の違いによって、大きく変わってくる点も本書における重要な指摘だろう。その表現は「全体論的」と「制度論的」に理念上分類されている。すなわち、

ナショナル・アイデンティティは抽象的でつかみどころがない「民族精神」(Volksgeist)、国民性、行動・思考様式などを通して表現される場合もあるし、芸術・文学作品、習慣、儀礼、制度などの具象的な文化項目を通して表現される場合もある。(80頁)

70年代の日本人論は、例えば「日本人ははっきりと物を言わないことを美徳とする」という考え方に典型的な「異文化間コミュニケーション論」的日本人論、「個の重視よりも集団の和を重んじる」という考え方に典型的な「社会文化論」的日本人論、土居健郎の『「甘え」の構造』における議論や、「父性社会」の西洋と「母性社会」の日本を対比的に捉えようとする議論に典型的な「精神文化論」的日本人論という三つの領域に分類され、その全てが「社会全体に共有されていると(思われている)何らかの文化的特徴」(81頁)を前提にしている点で、「全体論(holistic)」なナショナル・アイデンティティの表現であると言える(日本人が「単一民族」であるとする議論も典型的な全体論的表現。160頁)。そして、これらの日本人論が「文化主義」「文化決定論」「文化還元主義」(「文化が下部構造として位置づけられ、社会、経済、政治現象は内在的な文化が表出されたものとして説明される」103頁)として、事実と異なる点や非論理性が厳しく批判されてきたことは周知の事実である。

さらに、日本の文化的特徴を「日本人の血」に還元させる「文化の人種的所有」(149頁)を前提とした議論も、日本人論に特徴的な点であった。これは、戦前の欧米に存在した「遺伝決定論レイシズム」(149〜150頁)とは性格を異にする。しかし、「人種」という概念が、生物学的に根拠のない社会的・文化的構築物であることから(145頁)、日本人論やレイシズム一般に見られる議論には、背後に何らかの意図や社会的要因があると見るべきだろう。本書では、「生産者」たる知識人は「西洋化や急激な社会変動によって脅威にさらされた文化的アイデンティティの危機を克服する目的から日本人論に参加した」(205頁)と考えられるのに対し、「消費者」たる一般大衆は仕事や日常生活における実際的な関心に基づいて、「国際人」としての立ち居振る舞いを習得しようとする目的から日本人論に接した事実が指摘されている。また、そこで果たした「異文化マニュアル」の役割の大きさも重要である(243〜250頁)。

欧米の計量的分析で使われる方法論に比べたら、本書で採用された方法論はそれほど緻密ではない印象を受けたが、それでも本書の結論はかなり一般化可能性の高いものであると思われる。また、本書において、日本人論に見られる文化ナショナリズムが「なぜ・どのように」起こった(ている)のかについてかなり明らかになったと言えるだろう。

ただし、本書が明らかにしたような形で浮き彫りになった文化ナショナリズムが、実際のところ本当に日本人と外国人のコミュニケーションを阻害する結果になったのかどうか、またそうだとしたらどのように阻害したのかについては、本書内では質的・量的に有意な具体例は示されていない。例えば、著者は以下のように述べている。

異文化間コミュニケーションの障害の除去を当初の目的とした活動は、日本的特異性に対する意識を過度に活性化し、その結果日本人と外国人のコミュニケーションに文化の壁という新たな障害を生む意図せぬ結果を引き起こした。外国人にうまく意志伝達ができない時に文化を言い訳にしたり、微妙さを重視する日本的思考様式は外国人には分からないという考え方が在日外国人の社会的適応を阻害している。(255頁)

しかしながら、このように述べる根拠がここでは示されていないし、注などでこうした事実を明確にする出典等も一切示されていない。これでは、「文化ナショナリズム」という現象が真に社会的に有意な現象であるのかどうかの根拠が弱くなってしまうのではないか。

また、「頭大文字・単数形」のナショナリズム(Nationalism)がすでに社会的にアピールしない現代においては、文化ナショナリズムに見られるような「頭小文字・複数形」のナショナリズム(nationalisms)がますます重要になってきているという吉野の問題意識は全くその通りだと思う。しかし、おそらくこれは異なる分析レベル間の相互作用の問題であって、「社会全体」を対象にしたナショナリズム研究が意味を減じるというわけではないと思う。David CampbellがWriting Securityの中で明らかにしているように、もし境界主義的な差異の創造が国家の対外政策の作成につながっているのであれば、やはり社会全体のレベル、国家のレベル、あるいは国際レベルでの分析は必要になってくるだろうと思われる。もちろんそこでは国家の枠組みにとらわれない小集団や第一次集団の役割の重要性が問題になってくるだろうが(224〜225頁)、それはやはり異なる分析レベル間の相互作用の問題であって、一方が他方よりも社会的に有意というわけではないと思う。

本書がもたらした視点によってナショナリズム研究はその裾野を大きく広げたと考えられる。すでにかなり進んでいるとは思うが、今後方法論や比較研究で文化ナショナリズムの研究がより精密化されていくのだろうと思う。