【国民・民族(エスニック・グループ)・国民国家の定義についての言及箇所】

■中西治『新国際関係論』(南窓社、1999年)
・「ネーション・ステート」は虚構(2頁、186頁、231頁)


後藤健生『サッカーの世紀』(文春文庫、2000年)
国民国家という擬制(123頁、125〜126頁)


衛藤瀋吉・渡辺昭夫・公文俊平平野健一郎『国際関係論』(東京大学出版会、1982年)
・「ネーション」の三つの定義(36頁)
・「国民」と「民族」のニュアンスの違い(142〜143頁)
・「国民」の形成に不可欠な条件としての主観的要素と客観的要素(144〜146頁)


■なだいなだ『民族という名の宗教』(岩波新書、1992年)
・部族→民族へ。このとき部族を越えて大きくまとまるために使われたのが民族意識ナショナリズム)(108〜109頁、111頁)

・フィクションとしての「民族」(109頁、111頁、113〜114頁、135頁、138〜139頁)


坂本多加雄『求められる国家』(小学館文庫、2001年)
・日本における国民観念の形成→「君民一体」「一君万民」(104〜105頁)

・単なる経済的効率ではなく、一個の「国民」として「国家」を構成しようとする政治的意思こそが、権力の正統性を生む。→実在しない「市場のユートピア」(156〜158頁)

・「創られたもの、虚構のもの=無価値」とはならない。→形式や儀礼の積極的意味(166〜168頁)


■川田侃『川田侃・国際学Ⅰ 国際関係研究』(東京書籍、1996年)
・「nation」の二つの使われ方(104〜105頁)
 ①「state」や「country」と同義語として使われる場合。(ただし正確にはstateとは異なる。)
 ②「nation←→state」として使われる場合。

・「ナショナリティ」と「ナショナル・ステイト」の関係(105〜106頁)

・民族および民族主義の研究の多くが個別的・具体的である理由(107頁)

スターリンによる「民族」の定義(110頁)

・ヨーロッパの近代国家→「国家」と「民族」の相互補完関係(110頁)

・「民族」と「人種」が混同されやすい訳(112頁)

・「民族」の定義における「主観説」(117頁)

・西欧と非西欧世界の民族主義の相違(119〜121頁)

・R.ニーバーによる世界政府論批判(314頁)


山内昌之『民族と国家―イスラム史の視角から―』(岩波新書、1993年)
・「神話・象徴複合」(myth-symbol complex)をもつ集団が民族(13頁)
 →ムスリムが一番強力な神話・象徴の要素たるイスラムを「超民族」の意識として共有していた。

・民族が国民として成熟→政治的な機構、国家システムが必要(14頁)

・「民族」と「国民」は国によって区別の仕方が異なる。(19頁)

・民族紛争とは、国民の枠組と民族の枠組が整合しないために生じたもの(19〜20頁、21頁)

・「郷土心・愛国心」(ワタニーヤ)の力は、民族主義(カウミーヤ)の圧力を斥けるほど人々の自然の生活感情に根ざしたものである。(22頁)

・「アラブ・ナショナリズム」は虚構(23頁、30頁)

・民族や国家という単位による区分→イスラム世界ではあまり意味をもたなかった。(117頁)

・18世紀から19世紀にかけてイスラム世界をゆさぶった「パトリオティズム」(愛国主義)と「ナショナリズム」(国民主義)(125頁、135頁)

国益を発展させる「構造」と国民との同一化を「神話」にすぎないと一笑する者は、市民の幸福や繁栄を犠牲にしかねないアラブ・ナショナリズムやパン・トルコ主義が、現実からかけ離れていることを知らない。(229頁)

国民国家とパン・アラブ主義のせめぎ合い(232頁)

・現在の中東アラブ地域における二種類のナショナリズムの相克(233頁)

・「パン・イデオロギー」(パン・イスラム主義、パン・アラブ主義、パン・トルコ主義など)の幻想(234〜235頁、236頁)

・「国民」ができるまでのプロセス(237〜239頁)


佐伯啓思『国家についての考察』(飛鳥新社、2001年)
・「ネーション」は、通常、共通の祖先、文化、言語などを持つと信じている人々が作り出した集団(252頁)
→「民族(エスニック)」もほぼ「ネーション」と類似した言葉であるが、インプリケーションが若干異なっている。

・「ネーション・ステイト」について注意すべき2点(252〜254頁)
→①「ステイト」と結びつくことによって、「ネーション」は、それがもともと持っていた「エスニック」な面を多少払拭することになる。「エスニック・ステイト」とはいわずに「ネーション・ステイト」といったときには、「ネーション」は一応「エスニック」からは分離され、その社会的結合がもう少し一般化されるのである。ここでは「エスニック」が明瞭に共通の祖先、文化、言語などで定義される民族を意味するのに対して、「ネーション」は、むしろ多様な民族的なバラエティを含みつつ、いっそう包括的に一定の文化や経験を共有する社会集団として定義されることになる。(→これを国民というのでは?)

 ②「ネーション」が一定の歴史的な構成体であり、文化的な共通性によって結びつけられた集団であるのに対して、「ステイト」は一つの支配機構を持つ統治体によってまとめられる集団の状態であり、しかも通常の場合、これは領土的に明示された範囲を持つ。つまり主権の行使される領域を持つのである。それゆえ、この意味での「ステイト」が近代的な主権国家を意味することは明白である。この「ステイト」と「ネーション」が必ずしも自動的に重なり合うものではないことは明らかだろう。

・「国民国家(ネーション・ステイト)」形成の過程における二つの側面(254〜255頁)
→①まず主権性を持った統治機構としての「ステイト」ができ、「ステイト」に見合うように「ネーション」が形成されるという側面
 ⇒「国民は創出される」。むしろ、フランスやアメリカのように、民族的要素を脱色し、さまざまな民族や宗教や言語を包括しうる共通の文化や理念によって国民統合を図ることが考えられる。「ステイト」によって「ネーション」が作り出されるという意味では、固定した民族的ルーツを持ち出すのではなく、民主主義や憲法という共通のルールや理念を持ち出す方が理論的には典型というべきであろう。

 ②一つの歴史的なまとまりとしての「ネーション」が一つの共通の主権を懐き、それが近代的な統治機関へと展開してここに近代的な「ステイト」ができるという側面
 ⇒イギリス、日本がこの典型。この場合には、「ステイト」による国民統合は比較的に容易であるし、しばしば、ごく自然に社会の中に存在する共通の文化的特性や歴史的経験を掘り出せばよいということになる。時には、ネーションそのもののルーツである民族性がことさらに強調されることにもなる。

 ⇒この二つのタイプはもとより相対的なもので、見方を変えれば、この二重性はあらゆる近代の「ネーション・ステイト」が持つ二つの側面ということも可能であろう。