姜尚中、森巣博『ナショナリズムの克服』書評

ナショナリズムの克服 (集英社新書)

ナショナリズムの克服 (集英社新書)

【まとめ】


■90年代の日本のネオ・ナショナリズム

九〇年代日本のネオ・ナショナリズムが、グラムシ的な意味での「人民的―国民的な集合意志の形成」と「知的道徳的革命」を標榜していることは明らかです。例えば、「日本人」としての「ナショナル・アイデンティティ」や「こころ」、「精神の習慣」や「国民の道徳」といったキーワードがそれを象徴しています。(姜、36頁)


■姜の「国体」分析

「姜さんは、この「国体」という言葉を、政治的領域と美的領域の混在、使用範囲のあいまい性、ありもしなかった国民の歴史を偽造、強化するための計り知れない効果という三つの切り口で分析されました。」(森巣、40頁)


■「すぐれた技術と生産力が戦後日本を経済大国にした」の嘘

姜「日本は、東南アジアに対する賠償という形で、経済的に進出していく可能性をアメリカによって与えられたんです。テクノロジーや生産力がすぐれてるから、戦後の日本は経済大国になったというストーリーが、昭和天皇が死んだときにつくられたわけですけど、これは嘘だと思うんです。」

森巣「大嘘です。」

姜「もちろん、日本に技術力があったことは事実ですが、重要なのは、日本が、国際関係の大きな再編成の流れにきわめて有利な形で乗っかったということです。つまり、コロニアルなものに乗っかることによって、敗戦後の日本の成長の、国際的な基盤ができあがったわけですね。」(47頁)


■70年代末の経済ナショナリズム

姜「七〇年代の末には、アメリカに比肩できるほどの経済的な大国として、世界的に認知されていくわけです。そこから、日本の伝統や歴史を否定的に捉えるのではなく、ポジティブに評価しなければならないという方向に進んだ。」

森巣「経済的成功とともに。日本特殊論、日本人論の登場だ。」

姜「そうですね。日本の文化や伝統が、日本をここまで引き上げた要因なんだという幻想の登場です。」(48頁)


■イノセントなものに純化した微細なナショナリズム

ともかく、僕は、経済ナショナリズムの時代に、政治的なものの表現を絶たれていたがゆえに、イノセントなものに純化した微細なナショナリズムが、かえって社会の隅々にまで浸透していったのではないかと考えています。(姜、54頁)


■留学経験者がもつコンプレックス

留学経験がある人間にかぎって、非常にコンプレックスが強い。その持つ必要のないコンプレックスのそっくりそのままの裏返しで、日本に帰ってきたときに強烈なナショナリズムが発露されるというのは、よく見てきた光景なんですよ。(中略)つまり、セキュリティ・チェーンをかけたドアの隙間からしか世界を見ない人が本当に多いわけ。自分は留学先で相手にされなかったという強烈な思い込みがあって、ほんのわずかな隙間から見た世界でその国を理解し、納得し、了解し、しかも憎悪していく。(森巣、62〜63頁)


加藤典洋の「ねじれ」の幻想

森巣「『敗戦後論』の中で、加藤典洋は、敗戦を日本人は非常にゆがんだ形で処理してしまったというふうに、奇妙な心理分析を施しました。そうしたゆがみを土台に出発した戦後歴史の原点を「ねじれ」と称したんです。でも、「ねじれ」というのは、初めに、真っ直ぐなものがあったという想定があるわけです。実は、それがまったくの想像でしかなかったということが判明したのが、グローバリゼーションじゃないかと。」

姜「そこに難しさがあるんです。確かに、彼らは真正のものが過去にあると仮定している。そして、ねじれてない部分があるはずだと思い込んでいる。その発想に根拠を与えているのは、やはり、差し当たりは、明治なんじゃないかなと思ってます。」(65〜66頁)


カルチュラル・スタディーズと日本論・日本人論

この対談のメイン・テーマであるアイデンティティにかかわる研究の最前線に、カルチュラル・スタディーズという学問がありますよね。これは、数多の日本論・日本人論者にとっては、殺虫剤のような存在でした。カルチュラル・スタディーズの成果にまともに向き合うと、ほとんどの日本論・日本人論が駆除されてしまうでしょう。(森巣、73頁)


カルチュラル・スタディーズの日本への紹介が遅れた三つの理由

一つは、カルチュラル・スタディーズの論者たちの多くが第三世界出身者であること。日本では、第三世界の政治家についてはよく知られていますが、思想になるとなかなか受けとめられなかった。二番目は、七〇年代まで、ポリティカル・エコノミーという、政治経済学や社会経済学的な構造が学問の中心で、文化の問題もそれとのかかわりだけで意味があったわけです。だから、八〇年代から価値転換が起こって、文化問題がクローズアップされるにしたがって、ようやく、文化が社会構造的な問題と結びつけられて、議論されるようになった。(中略)それから、三番目は、時代的な問題。八〇年代半ばまでは、まだまだ、ナショナル・アイデンティティとかナショナル・カルチャーが一枚岩で成り立っているという前提があったわけです。そういうものを壊すための、ジェンダー論や、差異の理論、そして、アイデンティティに関する言説は、八〇年代の半ばになって、浮上してきたわけです。カルチュラル・スタディーズを受け入れる準備が、そこでようやく整えられていったんですね。(姜、74頁)


ライシャワー高木八尺(やさか)のひいたレール

姜「戦後の日本とアメリカの知的交流関係には、基本的には、ライシャワー中心の路線が引かれていたと思うんですね。で、日本の側の受け皿は誰だったかというと、高木八尺でした。南原繁といっしょに終戦工作をやってきたアメリカ研究者です。そのとき、彼は、吉田茂を交えた終戦工作グループにいた。そのグループの全貌はいまだ明らかになっていないんですが、高木八尺が中心人物だったことは、ほぼ間違いがない。」

森巣「彼は、東大法学部です。」

姜「そうですね。現在も、著名なアメリカ研究者は、ほとんどが高木八尺の影響を受けていると思います。」

森巣「高木八尺の引いたレールについて、ちょっとうかがいたいんですが。」

姜「要するに、日本は、アメリカの寛大な占領政策があったおかげで、ソフト・ピースという形で敗戦の荒廃から脱却できたのだ、という考え方ですね。そして、一九五一年のサンフランシスコ講和条約日米安全保障条約というのは、日本の復興のためにもっとも重要な基礎をつくったんだと。その知的パラダイムが、五百旗頭真をはじめとする日米関係研究者の中に、厳然と存在するんですね。一方、アメリカ側にも、その知的パラダイムを補強する学者がいた。」(75〜76頁)


■「リイマジンド・コミュニティ(再想像の共同体)」

まず、今は、ナショナリストでさえ、国家は想像の産物だっていうのは認めているわけです。坂本多加雄だってそうですよ。西尾幹二も、国家は想像だということを前提にして新しい神話をつくるのだ、という立場でしょう。私に言わせると、国家というものがもしも想像の産物であるなら、例えば、それが、少数者にしろ、中心から排除されたものにしろ、誰もが住みやすい社会を再想像する責任が、みんなにあるんじゃないかと思うわけです。つまり、イマジンド・コミュニティ(想像の共同体)から、リイマジンド・コミュニティ(再想像の共同体)へ、というわけですよ。(中略)私は、少数者や「異物」が排除され差別されている社会というのは、多数者にとっても住みづらい社会であると考えるのです。(森巣、149頁)

イマジンド・コミュニティを認めておきながら、存在しなかった古き良き時代に焦点を絞って、それを頑固に守りつづけるというのは、絶対おかしいと思うわけですよ。一回、イマジン(想像)したものであったら、絶対、より良い未来のためにイマジン(再想像)しつづけることは可能である。つまり、想像しつづけることが、多数者、少数者にかかわらず、住みやすい社会の構築を実現する手立てじゃないかなというのが、私の結論。(原文傍点)(森巣、219頁)


■すでに批判され尽くした「民族」概念

実は、「民族」という概念は、六〇年代の構造主義以降、すでに徹底的に解体され、また徹底的に批判され尽くした過去の残滓なんですが、それがどういうわけか、日本の人文社会の領域には、なかなか伝わってこなかった。いまだに、これに固執している学者たちが、日本には多いんですね。(森巣、180頁)

つまり、民族などという概念は、構造主義以降の学者たちが鮮やかに解体したように、成立しようがない。要は、抑圧と収奪の理念によって立ち上げられた、差異の政治学なのですね。「われわれus」と「かれらthem」の間に境界線を引き、「民族的」抑圧や収奪を容易にしていく。「民族」は、まさに、西欧近代が生んだ植民地主義帝国主義の理論であり、概念なんです。(森巣、181頁)


■国際化とグローバリゼーションの違い

国際化というのは、ある日本研究者の説明では、世界を日本のイメージで書き換える試みなんですね。それに対して、グローバリゼーションは、世界のイメージで日本を書き換える試みだと。だから、それに対する反発があって、ナショナリズムが台頭してきたのだ、と。確かに、あれは、説得力があった。(森巣、188頁)


9・11事件が人文社会科学に与えた課題

今は、九月一一日のテロが起こって、人文社会科学が、もう一回、その存立基盤である近代の根源そのものを問い直す作業が必要ですね。あの事件は、セキュリティとかリスクとかっていう話じゃなくて、知的作業に携わってる人間たちが、それをどう受けとめて、自分たちの知的なパラダイムをどう捉えなおすのかと、そういう契機にしなければいけない。(姜、206頁)


■難民拒否と自衛隊派遣の背後に潜むレイシズム

森巣「九・一一のテロの後、「ショー・ザ・フラッグ」と言われて、日本の国際貢献が問題になりました。あのとき、本当は、アフガニスタン難民を一〇〇万人の単位で受け入れればよかったのです。そうしたら、世界中から感謝されるし尊敬される。自衛隊なんかを送ったって誰も評価してくれないですよ。それができないのは、基本的にはレイシズムのせいなんです。」

姜「国家は常に、ろ過装置みたいに働いてくれるはずだと。自分たちはいい空気だけを吸いたい。不純な存在がいると空気が汚れる。そういう感覚が、人々の中にインプットされてるわけですよね。」

森巣「それが石原都知事の「三国人」発言、および、「中国人犯罪者民族的DNA」論に直接つながっている。」(209頁)

レイシズムは論理ではないんです。だから、難民として日本に来る人たちが労働力として役立つとか、日本の社会を活性化することになるんだとかいう、国益論者的な理屈でも、決して彼ら彼女らを説得することはできない。ナチスと同じように、論理では動かないんです。(姜、211頁)


■「歴史による記憶の抹殺」と「記憶による歴史の抹殺」

森巣「「集合的記憶」という概念を一番最初に言いだしたピエール・ノラが、歴史による記憶の抹殺ということを言ってるんです。それに対して、ある人が、歴史による記憶の抹殺じゃなくて、記憶による歴史の抹殺もあるんだと言った。」

姜「それは、テッサ・モーリス=スズキです。賛成ですね。」


【コメント】
 対話形式の本書はとても読みやすく、特に森巣博氏は、難しいことを簡潔でユーモラスに語るセンスがあるように感じた。大仰なタイトルの割りには、実際には本書は、いわゆる「ネオ・ナショナリズム」に分類される論者を罵倒しているだけのような気もした。その中には、「リイマジンド・コミュニティ(再想像の共同体)」、9・11事件が人文社会科学に与えた課題、難民拒否と自衛隊派遣の背後に潜むレイシズムなど、重要な指摘も見られたが、それらのナショナリズム批判がただちにその克服につながるかといえば、本書を読む限りではまだその可能性は小さいように感じた。「あんなところにも、こんなところにもナショナリズムが潜んでいますよ」という指摘だけでは、数え切れないほど多くの人間の命を吸い取ってきたナショナリズムを克服することは、恐らくできないだろう。