梶田孝道編著『国際社会学』書評
- 作者: 梶田孝道
- 出版社/メーカー: 放送大学教育振興会
- 発売日: 1995/03
- メディア: 単行本
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■「国際社会学」の二つの意味
①「国際社会・学」=「国際社会を一つの有機的実体としての社会として把握し、その発展・運動形態や構造を研究し、国際社会の諸問題を解決しようとする学問」(12頁)
■国民社会と国際社会の相互接近
これまで、国民社会と国際社会とはまったく異なる存在として考えられることが多かった。しかし、一方では、近年における国民国家内部の地域主義やエスノ=ナショナリズムの台頭により、また多数の移民労働者の定着により、国民社会内部の文化や価値観の均質性に対して疑問が向けられている。国民社会の国際社会への接近である。また他方では、国際社会においても人権や民主主義が一定程度尊重されるに至っており、国連や各種のNGO(非政府的国際組織)の活躍にみられるように、国家主権は無条件のものとは理解されず、場合によっては内政干渉も許容されるような事態もしばしば起こっている。国際社会の国民社会への接近である。(12〜13頁)
■EU・国家・地域の「三空間並存モデル」(19頁)
ヨーロッパでは、EU・国家・地域という三つの政治社会空間が並存するという興味深い事態がみられる。(14頁)
ナショナリズムがヨーロッパなどの歴史のなかで使用されてきた比較的古い概念であるのに対して、エスニシティは1970年代にアメリカ合衆国において登場した比較的新しい概念である。(21頁)
≪エスニシティ≫
「もちろん、従来のナショナリズムと重なる部分も多い。しかし、それと異なるのは、国家建設を必ずしも志向せず、むしろ既存の社会の存在を前提とし、国内の問題という性格が強いという点であり、運動の内容も政治的なものというよりは社会経済的なものであった。言語の復活、社会的差別の撤廃、経済的格差の是正などが要求として提出された。」(24頁)「エスニシティは、文化・宗教・言語・民族などの属性を客観的に保持することとともに、本人の主観的な帰属の意思ないしはアイデンティティをも含んだ概念である。とりわけ、主観的な意識ないしは自己定義という点が重要である。」(25頁)
イギリスとフランスは、その国家の当初から文化的単位と政治的単位とが比較的一致していた。しかし、ドイツとイタリアの場合は、文化の共有と統一は実現されていたが、政治的には多くの都市国家や公国などに分裂していた。従って、文化的単位に合わせる形で政治的分裂状態を克服し、民族の統一をはかることが追求されたのである。(21〜22頁)
■民族運動の類型(26〜32頁)
民族運動
①「ホームランドに基づく運動」
(1)先住者の運動
(2)周辺に位置する少数民族の運動
・政治的・文化的・経済的中心が一致するもの
・ 〃 しないもの②「移民の運動」
(1)植民者の運動
(2)途上国から先進国に渡った移民たちの運動
(3)「パーリア型移民の運動」※「パーリア型移民とは、本国人が卑しいものとして忌避する職業に積極的に就くことによって、結果的には経済的富を獲得するような場合をさす。ユダヤ人や華僑や印僑と呼ばれる人々に代表されるディアスポラ型の移民が、そのよい例である。」(31頁)
→「民族運動の類型が我々に教えるのは、民族的主張には実にさまざまなタイプがあり、それらを民族運動や民族問題という言葉によって一緒くたにして扱うべきではなく、民族運動として平板化するべきではないという点である。」(31〜32頁)
■人種や民族とエスニシティを研究する理由
1960年代後半からの西側先進諸国での人種・民族・エスニック問題の発生と、1980年代後半からの社会主義諸国での民族運動の発生と国家の解体が近年大いに注目されたが、これらは近代化論的な発想では起こり得ないはずだったからである。社会が近代化すると人々の価値指向が、属性主義、特殊主義、地域主義、部族主義、伝統主義から機能主義、業績主義、合理主義や普遍主義へと変化し、人種や民族とエスニシティへのこだわりは消滅すると思われたが、歴史はそのように動かなかったのである。(69頁)
■人種・民族・エスニシティ紛争の学説(71頁)
①心理・生物主義的アプローチをとる学説
(1)原初的特性重視論(文化人類学アプローチ)(72頁)
(2)社会生物学アプローチ(73頁)
(3)社会心理学アプローチ(74頁)②構造・手段主義的アプローチをとる学説
(1)文化的分業あるいは国内植民地論(76頁)
(2)エスニック集団競合論(77頁)
(3)エスニック・エンクレイブ論(78頁)→「人々のエスニシティへのこだわりを説明する上で、心理・生物主義アプローチは、こだわりを心理的で生物学的な特性として解釈しているのに対し、構造・手段的アプローチは、人口集団間の経済的・政治的希少資源の競合や対立と、不平等な支配―従属的集団関係という特定の経済的・社会的・政治的条件があってはじめて、エスニシティへのこだわりが活性化するとみる。」(79〜80頁)
→「さらに前者が、エスニシティを非合理的で感情的なもの、そして着脱不可能で変更困難な客観的なもの、さらに集団の境界も変更困難なため、不可能ではないとしても所属変更は難しいとみているのに対し、後者では、マイノリティ対抗運動を組織する際に、エスニシティを集合行動への資源として手段的に動員する側面が強く、場合によっては伝統的文化や言語と生活習慣が消失していても再生が可能であり、エスニシティを固定的で不変的なものとはみず、むしろ主観的で場合によっては着脱可能で、境界との所属の変更も可能とみている。」(80頁)
■「文化相対主義(cultural relativism)」と「多文化主義(multiculturalism)」の違い
「文化相対主義」は、ともすると社会(部分社会を含む)と文化との一対一の対応を前提とし、各文化がそれ自体としてかけがえのない固有の価値をもつ点を強調する。つまり、いずれの社会の文化の間にも(先進国の文化にも未開社会の文化にも)上下関係はないと主張する。これに対して「多文化主義」の場合は、共通の社会空間の内部における複数の文化の共存を問題にするという点で、新たな課題がつけ加わっており、多文化主義の実現は、はるかに困難な課題である。(95頁)
■多文化主義の諸類型(100頁)
①「リベラル多元主義」=「あくまでも個人を単位とし機会の平等を前提とするが、同時に「公的空間/私的空間」を区別し、「公的空間」においては当該社会の価値基準なり言語なりを維持するものの、「私的空間」においては各人種・民族集団の文化や言語の維持を認める。」(100頁)
②「コーポレイト多元主義」=「人種・民族集団に対して法的実体性を付与し、当該社会の構成原理として多文化・多言語を保障する。いいかえれば、私的空間のみならず公的空間においても、複数の文化や言語の公的使用を保障するのであり、そもそも公的空間/私的空間の区別は、ここでは意味をなさない。」(101頁)
※アメリカの「affirmative action」など。
■「インナーシティ問題」
「インナーシティ問題」とは、大都市の衰退ないしは産業構造の変動に伴って、都市中心部において企業流出、人口減少、人種・エスニック問題の発生、施設の老朽化と機能不全、治安の悪化などの一連の問題群が集中することを指す(143頁)
■「社会学的文化」と「人類学的文化」
「文化」には大別して、ライフスタイル、ファッション、あるいは若者文化、階級文化などに代表される「社会学的文化」と、言語、宗教、民族性などに代表される「人類学的文化」とがある。前者は「ソフトな文化」、後者は「ハードな文化」といいかえることもできよう。「社会学的文化」は産業化や情報化によって急速に普及し変化するのに対して、「人類学的文化」の方は相対的に変化しにくい性質をもっている。とはいえ、この「人類学的文化」も不変の存在ではなく、「伝統の発明」論にみられるように変化しうることはいうまでもない。(161頁)
■「文明」と「文化」の定義
「文明」と「文化」という概念は、歴史的にも数多くの論争を生んできたものであり、論者によってその定義が異なる。普遍性と進歩を強調するフランス型の「文明」と、教養と民族的特殊性を強調するドイツ型の「文化」との対比は、その代表的な使用法の一つである。しかし、ここでは、以下のような単純な定義に基づいて議論する。すなわち「文明」は、どの社会にも存在可能な普遍的性格をもった装置・制度群を意味するのに対して、「文化」は、ある社会の基本的な価値観を反映する特異な性格を意味する。(163頁)
■文化と経済の関係
西欧型の資本主義が、例えばM・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にみられるように、一定の宗教的・文化的風土のなかで、それらを前提として誕生したことを考えると、西欧型の資本主義が「文化」を部分的とはいえ共有していることは否定できない。(中略)「日本型モデル」も、そうした一例として考えることができる。それゆえにこそ、生産システムの是非の問題が、文化的閉鎖性の問題として理解(誤解)される余地が生じるのである。(166頁)
→青木保『文化の否定性』における文化と経済の関係についての議論と異なる。
■「文明」と「文化」の比重の違い
上記の各問題領域(経済・労働、地域社会、教育、言語、宗教・国民性)は、いずれも「文明」と「文化」の両側面を有しているが、「文明」と「文化」の比重が決定的に異なり(図15−1参照)、それゆえ、相互に異質な問題として登場するのである。従って、どの問題領域を念頭においてモデルを構築するかによって、異なったイメージが生まれる。(168頁)
【書評】
放送大学テキストシリーズの一冊。エスニシティや文明・文化についてわかりやすい定義を用いて解説しており、テキストとしては申し分ないと思う。
青木保は『文化の否定性』の中で、エスニック紛争を説明する上で、政治・経済の問題と文化の問題を明確に分けてこう言った。「政治や経済の問題ならいくらでも話し合いもできるし、ゆずり合いもできる。そこに文化の問題が介在するので、にっちもさっちもゆかなくなる。」(青木、41頁)
この箇所を読んだ時からすでに釈然としないものを感じていたが、本書を読んでそれは確たるものとなった。ゲルナーの「ナショナリズムとは文化的単位と政治的単位とを一致させようとする運動である」(21頁)という定義を持ち出すまでもなく、民族紛争において文化と政治は常に密接な関わりを持ってきた。また文化と経済の関係については、マルキシズムの上部構造―下部構造の概念がまさしくそれを説明しているし、M・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』では、西欧資本主義の発展は、プロテスタンティズムという宗教的価値観(西欧における文化の一面)に裏付けられたものだったことを示唆している。本書第15章の「文明の問題と文化の問題」を読んで、文化の問題を政治や経済の問題から切り離して論じることの不毛さを痛感した。
本書のタイトルである国際社会学には二つの意味があると言う。一つは「国際社会・学」で、「国際社会を一つの有機的実体としての社会として把握し、その発展・運動形態や構造を研究し、国際社会の諸問題を解決しようとする学問」(12頁)を指す。他方は「国際・社会学」で、「国際関係および民族関係を社会学の理論・仮説・手法等を用いて分析しようとする学問体系」(同)を意味する。前者は国際関係論というより総合的なディシプリンを持つ学問に対して、極めて有力なレンズを提供するものであり、自分の関心領域とも重なり合う。本書によって国際社会学に対する自分の注目度は俄然高まった。