坂本多加雄『求められる国家』書評

求められる国家 (小学館文庫)

求められる国家 (小学館文庫)

「国民」観念の形成について、多くの示唆を得た。日本における「国民」観念は、他の多くの国と同じように、海外からの圧力によって生じたものであった。(アヘン戦争、ペリー来航など。)しかし、史上初めて国民国家が形成されたヨーロッパとは異なった形で、日本の国民観念の形成は促進された。すなわち、

日本では、国民観念の形成は、むしろ日本国の“本来の君主”は誰かということに向いていった。つまり、“本来の君主”を国民観念の中核に据えながら、君主と国民との間における『君民一体』、あるいは『一君万民』といった理念の実現が目指されることとなった。その結果、幕府のような既存の支配権力を、本来の君主である天皇と国民との間に介在する夾雑物と位置づけて、これを打倒するという方向を取ったのである。(104〜105頁)

わが国の国民観念は、天皇の政治上の地位が確立した状況下において、それに対抗するものとして登場したのではなく、むしろ、天皇の政治的地位が次第に上昇していく過程と並行し、むしろ、それを促進するような形で形成されていったという点が重要である。(106頁)

ヨーロッパにおいて、国民観念の形成は、『立憲主義』あるいは『民主化』の進行と並行していたが、わが国のそれは、それまでの幕府による政治的決定権独占体制が動揺していく過程として表れたのである。(同上)

君主に対する態度の違いは、議会制度が生まれる過程にも現れる。

「日本の議会制度は、ヨーロッパのそれのように、君主が国民から迫られて、妥協して設けたものではな」(110頁)かった。「日本では、君主と国民のあいだに対立はなく、常に調和を保っていたのであり、天皇の側から、その統治をよりよいものにするために、積極的に議会制度を導入した、その結果が帝国憲法であるというわけである。」(同上)

天皇制と国民主権が矛盾なく両立するのを示したのが、「五箇条の御誓文」であった。

フランスとは異なり、そもそも日本では、幕末期から近代にかけて、天皇を全国的シンボルとして掲げることで、藩に体現されたような地域的割拠性が克服され、国民意識が形成されていったという歴史的事情がある。その過程で、天皇の権威に支えられる『勅命』と国民の側から発せられる『公議輿論』とを矛盾なく両立させる道が探られ、それが、『公議輿論』の尊重を天皇の名において宣言するという先の『五箇条の御誓文』となって結実した。(130〜131頁)

また著者は、「象徴」としての天皇、「創られた伝統」を通して「想像」された虚構であるところの国民や国家を、これらに共通する人工的な要素をもって無価値とみなす立場には真っ向から反論している。

そもそも、虚構であることを認識しながら、なお演劇が鑑賞に値するのは、それが人生や社会のさまざまな側面を純化して強調し、それに関する人々のさまざまな要求や理想に巧みな表現と形象を与えるからである。それと同じことが、『国家』や『国民』についても言えないだろうか。(167頁)

西欧帝国主義国家によるアジアへの進出に対抗するために、「日本は自らの歴史を再構成し、国家儀礼を創造的に編成して、強力な『国民』観念の形成を図らねばならなかったのである。」(168頁)

今後の国家の運命に関しては、国家相対化論や国家衰退論に抗して以下のように述べている。

確かに、今後の世界においては、一九世紀におけるように、自国中心的な偏狭な形のナショナリズムを担っていた『国家』や『国民』の観念を、そのままの形で維持していくべきではないし、そうしたことは可能でもないであろう。にもかかわらず、そのことは、『国家』や『国民』の観念そのものが直ちに無用なものとなることを意味しない。(168頁)

もし、国家が生活協同組合のような存在であるなら、誰しも、もっとも安上がりで(もっとも低い税負担で)、もっとも良質なサービスを提供すると思われる国家を任意に選択して、その国民になるはずであるが、一般には、そうしたことは起きていないし、また人々も、現に自らが日本国民やアメリカ国民であることを、単にそうした理由付けで納得しているわけではないからである。(158頁)

従って、経済自由主義の立場から来る「市場のユートピア」は実在などしてはいないし、今後も現れる可能性はほとんどないと強調する。

そこからさらに議論が進み、個々の人間を「自由な選択の主体」としてとらえる社会契約説の人間観に、今日大きな疑問が投げかけられていると著者は言う。

そこから、個人主義的な社会契約説的発想に対しては、そもそも、一切の『役割』から解放された抽象的な『人間』から出発して社会のさまざまな関係を考えることが、果たして正しいのかという疑問が投げかけられることになる。最近の倫理学で、コミュニタリアン(「共同体論者」と訳されている)と呼ばれる立場がそれである。共同体論によれば、人間というものは、そもそも、その存在の初めから、ある特定の具体的な社会的・家族的コンテクストの中に生まれ落ち、そこに付随するさまざまな『役割』が命じる義務や振る舞い方に習熟しながら成長するのであり、『自然状態』において、すべてを自身の自由な決定によって人生を開始するという前提に立つことが、そもそも誤りだというわけである。(191頁)

すなわち、『人間』とは、さまざまな『役割』を除去するところにではなく、むしろそれらを担うことにおいて成立する概念であり、そうした『役割』をさまざまに担っているあり方において、『善さ』が評価されるのである。『国民』もその重要な役割のひとつにほかならない。(193頁)

何の役割ももたず、あらゆる関係性の網から解放された個人として人間を捉えることの是非が今論じられている。むしろ人間が担う役割を積極的に評価する共同体論の主張は、今同時にその是非が問われている「国民」や「国家」の概念の評価にも大きな影響を及ぼすことになるかも知れない。国家の運命を論じる上で、この議論を念頭に置いておく必要がある。