なだいなだ『民族という名の宗教』書評

民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理 (岩波新書)

民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理 (岩波新書)

※本書評は3年前に書かれたものです。


ひょっとすると自分のライフワークのテーマを左右することになるかも知れない書である。中西治、後藤健生の本を読んで国民(民族)国家に対する関心が強まっていた時だけに、確かにインパクトは大きかった。

本書のキーワードは「フィクション」である。世界宗教、民族とそれに付随する国民意識ナショナリズム)は、一貫してフィクションとして描かれている。

その前に注意を要するのは、著者は民族を国民と同義で使用している点である。衛藤・渡辺・公文・平野『国際関係論』(東京大学出版会、1982年)にもある通り、「慣用的には国民と民族とにはかなりニュアンスの違いがある。」(衛藤他、143頁)すなわち、「国民といえば、(略)国家主権による統合の面が強く、民族といえば歴史的文化的つながり合いの面が強くあらわされ」る。(同上)具体的には、

中華人民共和国ソ連のなかにあるチベット人、モンゴル人、カザック人、タジク人などを少数民族とはよぶが、少数国民とは決していわない。オーストラリア国民ということばは熟しているが、オーストラリア民族ということばは何を指しているのかわからない(同上)

のである。

そのような微妙な差異を無視して二語を同義で使っているために、読む者に一部混乱を与えている箇所があることは否めない。例えば、114頁で「ユーゴスラビア民族」という言葉を使っているが、この場合は「民族」ではなく「国民」とするのが正しいのではないだろうか。もちろん南スラブ語という共通の言語によってまとまるというのは、民族を定義するための一要素に合致するものではあるが、それはあくまで一要素にすぎない。さらに「南スラブ語を話す人間の住んでいる地域をあわせると、今のユーゴスラビアの国になる」(114頁)というのは本当に正しいのか。自分にはそれについての詳しい知識はないが、南スラブ語を話す人間はロシアなど他の国にはいないのだろうか。

フィクションの話に戻る。まず著者がフィクションとして挙げるのが世界宗教である。世界の各地域において、多くの部族を征服・統合して帝国が生まれるのと時を同じくして、「ゾロアスター教、仏教、儒教キリスト教などの、世界宗教が生まれてくる」。(84頁)各部族が崇拝していた氏神に代わって世界宗教が生まれてきたのは、「それぞれの部族が、勝手に自分たちの氏神を拝んでいる状態では、部族を越えた集団を作ることは難しい」(86頁)からであった。

一度、敵となった部族を打ち破っても、相手はまた氏神を恃んで団結して復讐しようとするだろう。かといって、征服者が相手に、自分の氏神を拝めと要求しても、かえって屈辱感を与えるばかり。より寛容な、博愛的な、公平な道徳を説く宗教が、帝国的なものさしにあう宗教ということになる。(86〜87頁)

帝国規模の集団には、それをまとめるイデオロギーが必要なんだ。それが世界宗教だった。(同上)(日本でも、聖徳太子が当時の日本をまとめようとして頼ったのが仏教であった。(90頁))

フィクションとしての世界宗教に言及した上で、著者は同じフィクションとしての構造を持つものとして「民族」を挙げる。フィクションとしての民族が生まれる前に存在していたもの、それはエスニック・グループである。「日本なら藩、ヨーロッパだったら小王国、公候国、アフリカだったら部族という単位が、それにあたる」。(125頁)これらのエスニック・グループは、一定の土地に定着し、一生を通じて移動することはほとんどなかった。各々の集団が自己完結的に機能していたのである。ところが、産業革命によって農村人口が都市へと急激に流れ込んだ結果、都市にはエスニックなものを否定的に見る新しい集団が生まれた。これがのちに「工業優位の近代国家とその国民の核」(128頁)となる。

各々がエスニックなものを背負って集まってきた都市の住民たちを、エスニックなものの壁を超えて一つにまとめることが、効率を重視する産業革命の要請であった。そこで持ち出されたのが「民族」というフィクションとしての枠組みである。「国家を支えるために国民を一つにまとめるイデオロギーが欲しい。そこで生まれてきたのがナショナリズム」(108頁)であった。また部族を越えてまとまる際に意識されたのが、「言葉」であった。(109頁)「国家にふさわしいのは国民という呼び名、その国家と人間とをどろどろとした感情で結びつけようとして用いられるのが民族というフィクション。(略)それまで長い間、別々に生きていた、時には敵対しあい、あるいは競争しあい、あるいは無視しあって、他人として生きてきた人間たちに、ある日、突然、お前たちと俺たちは、同じ民族だ、団結して一つの国をつくろうというのだから、かなり乱暴なフィクション」(113〜114頁)だと著者は言う。

世界宗教、民族に続いて、著者が「人をまとめる原理」として最後に挙げるのが、社会主義である。社会主義によって描かれた未来が、近代化によって拡大した貧富の差に苦しみばらばらになっていた人々を一つにまとめる働きを担った。(192頁)

しかし、不思議なことに、ここで社会主義世界宗教や民族のように、フィクションとしては描かれていない。東欧革命によって社会主義が「粗大ゴミのように」(5頁)捨てられるのを見て、

マルクスレーニンの理論が間違っていようが、それが人を引きつけ、集め、まとめ、そしていくつもの植民地を独立させてきたことは、消えようがない事実(191頁)

だと言うのである。さらに著者は以下のように言う。

国家と国家が競争の原理で対決しようとすれば、戦争しかない。戦争は民衆の視点からもっと大きな悲惨を生む。その視点を持つことができたのは、社会主義者だった。(200頁)

一国がそれ(=所得倍増)にむけてつっぱしれば、どのような結果が生まれるか。それを予測できる理性的批判者は、日本人も東南アジア人もみな社会主義者のように『同じ』労働者という視点をもてる人間だ。(201頁)

植民地の人たちは(略)独立の言葉のもとに、とりあえず団結した。しかし、独立のあと、彼らの多くは、今、部族対立に悩んでいる。彼らをもう一度まとまらせることができるのは、部族を越えた人民としての連帯である。(203頁)

以上の箇所から評者の疑問は明らかであろう。「人をまとめる原理」としての世界宗教と民族がフィクションであったとするならば、どうして「労働者」とか「部族を越えた人民」というものも同様にフィクションではないと言い切れるのか。著者は、それまで長い間争い合って来た集団を強引にまとめたのが民族という枠組みだと言った。しかし、評者には、この集団間の反目・相違点を強調しておきながら、国や部族という枠組みを越えた労働者なり人民なりが、どうして反目し合わないと言えるのか全く理解できない。一つの民族としてまとめられたエスニック・グループ間以上に、そこには反目・相違が存在しているのではなかったのか。

社会主義が多くの植民地国を独立させてきたと言うが、それは著者の定義での民族が持った国民意識ナショナリズム)とて同じ作用を及ぼしたのではなかったのか。「チトーは社会主義のというよりも、ナショナリズムのシンボルだったのか」「チトーのカリスマ性が、ユーゴスラビアというフィクションを信じさせていたのだね」(118頁)と言っている箇所からして、著者も同じ考えを持っていることは明らかだ。にもかかわらず、すぐその直後で「もし社会主義体制があと二〇年続いていたら、ユーゴは一つの国になっていたかもしれないね」(同上)と言う理由が自分には全く理解できない。

国民国家について、そしてナショナリズムについてもっと勉強したいという思いを強く刺激された書ではあったが、この程度の社会主義擁護では、「批判的精神としての社会主義復権」(カバー解説)に賛同する者などほとんどいないであろうし、社会主義者の自慰的な論理としかみなされないだろう。