中西寛『国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序』書評

国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序 (中公新書)

国際政治とは何か―地球社会における人間と秩序 (中公新書)

【まとめ】


■「国際政治」は以下の三つが混ざり合ったもの(21〜25頁)≪三つのイメージの競合≫(60頁)

①「主権国家体制」(realism、ホッブズ的伝統)
(1)主権国家が国際政治の唯一の基本単位である。
(2)主権は不可分かつ不可譲であり、国内社会では至高の存在であり、互いに対等である。
(3)個人の自由は自らが同意する主権国家をもつことで実現される。


②「国際共同体」(liberalism、グロティウス的伝統)
(1)主権国家は国際政治の基本単位だが唯一の主体ではなく、国際機構、社会集団や個人も一定の範囲で国際政治の主体たりうる。
(2)主権は少なくとも部分的に分割、委譲可能である。
(3)国際社会の諸アクターは一定の価値、目的を共有しうる。


③「世界市民主義」(globalism、カント的伝統)
(1)国際社会においても基本単位は個人である。
(2)国家は擬制に過ぎず、個人は世界に帰属する。
(3)平和は世界の(政治的、社会的、精神的)統一によって達成される。


→現実の国際政治にはこれら三つの規範が入り交じっている。国際政治はトリレンマ(三律背反)としての性格を有し、この三つの矛盾する首尾一貫した論理の間で選択を迫られる。(25〜26頁)


→「やがてテクノロジーの発達とともに、さまざまな境界を超える秩序の問題が意識されはじめ、そこに特殊な「政治」があると見なされるようになった。そこでは、現にある秩序としての主権国家体制と、可能な秩序としての国際共同体と、理念としての世界市民主義とが併存し、競合しながら、国際政治という領域を形づくっていった。」(266頁)


■国際政治の来歴について(第一章)

古代都市国家ポリスに連なる近代の「政治」は何よりも、普遍的な秩序を否定するところに出発点があった。近代初期において国家間の、あるいは国境を越えた人々の相互交流がなかったわけではない。むしろその活動が活発化し、中世的権威では制御しきれなくなったために、内的統一をもつ、近代的な「国家」が生まれてきたのである。したがってそこでは、国家を越える政治、国家間の政治は意識されなかっただけでなく、むしろ積極的に否定されたのであった。国家間に、あるいは国境を越える空間に「政治」はあってはならないと考えられたのである。なぜならそうした空間で政治を語ることは、中世的な普遍的権威を復活させ、「政治」の空間としての国家の完結性を損ない、新たな混乱を招きかねないと恐れられたからである。「国際政治」を禁忌とすることが、近代の「政治」が生み出される前提条件だったのである。(35〜36頁)


国際法と国家理性

国際法や国家理性論は、普遍的な権威を脱して複数の自律的な国家が併存する近代ヨーロッパにおいて、国家の上位に立つ権威的存在を認めることなく、しかも国家間の関係を弱肉強食の関係に陥らせないためのいわば便法であった。(42頁)


■近代個人主義の誕生から権力政治の浮上へ(「国際政治」の誕生

中世的権威が崩壊する近代初期に、世界市民主義は個人主義という形で再定義されることになった。(44〜45頁)

十八世紀の中頃に、近代個人主義は新しい段階に至ったのである。中世的世界観を完全に脱したヨーロッパ人は、人間こそが人事と自然の主人公であるとの考えをすべての思考の前提に置いた。近代人は世界を知るだけでなく、それを自らに好ましいように作りかえ、自己を満足させることを求めはじめた。こうした活動は自然を作りかえる産業革命をもたらすと同時に、人間社会についての一連の思想を生み出した。重農主義者や啓蒙主義者と呼ばれる一連の思想家は、自由な個人からなる社会という仮定から出発して、国家や政治を社会的効用という観点から基礎づけようとしたのである。言い換えれば、「社会」の観点から見て正当化しうるか否かが、よき「国家」、よき「政治」の判定基準となった。(45〜46頁)

①「まず、国家の構造が変化した。国家は、軍事力と徴税能力を握って一定の領域を君主が支配する領域国家から、社会の承認の下に支配者が統治を行う国民国家へと変貌を遂げることになった。」(46頁)


「君主の間で安易に行われた領土のやりとりが行われなくなる一方で、一つの国民が国家をもつという観念は闘争を非妥協的で激しいものとした。」(47頁)


②「いささか意外ではあるが、十八世紀までのヨーロッパ主権国家体制においては権力政治という観点は存在しなかった。国家間の関係に政治は存在しないと考えられていたからである。十九世紀になって権力政治という観点がとられるようになったのは、国家間関係が価値の闘争の場としての性格をもちはじめたことを意味していたのであり、それは国際政治が意識されるようになる前段階を意味していた。」(48頁)


③「十九世紀の後半が「帝国主義の時代」と呼ばれるのは、ヨーロッパの拡張のゆえではなく(それは以前より行われていた)、そこに政治支配を打ち立てようという動機が一般化したためであった。」(49頁)

こうして十九世紀の後半には、主権国家―国家間関係―地球世界という三層構造は国民国家―権力政治―帝国主義という新たな政治秩序へと置き換えられていった。(49頁)


■産業化と国民国家

一九三〇年代に明らかとなったのは、産業化は社会的結びつきを地理的に拡大し、国境を越えたつながりを強めただけでなく、社会と国家のつながりを強める作用ももっているということであった。つまり国民国家は産業化によっていっそう強固な基盤を確立したのである。(66頁)


■理想に引き戻された冷戦期の世界市民主義

社会の救済者として現れた行政国家を基礎として、連合国=国連体制は主権国家体制、国際共同体、世界市民主義の間に安定した均衡を形成するかと期待された。しかし世界を一つの価値意識によって統一しようとすることは、新しい権力闘争をもたらした。米ソ、資本主義と共産主義個人主義集団主義の間の相違は次第に決定的なものとなり、ついには冷戦に至った。冷戦は、地球社会が実現されるというユートピア像に対する不安が生み出した反ユートピアとして開始された。冷戦によって世界市民主義は再び現実と切り離された理想へと戻され、主権国家体制を基礎として、いかに国際共同体を強めるのかという現実的な課題が国際政治の主要問題となったのである。(70〜71頁)


■「仮想の地球社会(virtual global society)」

二十世紀の後半は、近代的な主権国家が今後の国際政治に対してもつ比重の低下を強調する議論が数多く現れる一方で、「主権の大量生産」が行われた時代でもあった。(80〜81頁)


→「「地球社会」を意識させる現象はテクノロジーによって生み出され、人工的な空間においてのみ可能な範囲にとどまっていることが少なくないのではないだろうか。たとえばインターネットを通じたコミュニケーションはたしかに国境を感じさせないが、それはコンピュータに限られた世界に過ぎない。その意味で我々が経験しているのは、「仮想の地球社会(virtual global society)」にとどまっている。」(81頁)


→この「仮想の地球社会」は主権国家体制―国際共同体―世界市民主義という国際政治のトリレンマに対してどのような影響を与えるのか。

主権国家が抱えるジレンマと勢力均衡

主権国家は、宗教や帝国といった権威を建前として混乱した中世末期のヨーロッパに秩序を与え、個人の安全を守る防壁として構築された概念であった。したがって複数の主権国家が併存する状態において、主権国家同士の関係を、より上位の権威によって秩序づけることはできない。このジレンマ―主権の絶対性は個人に安全を与える防壁であるが、まさに主権の絶対性ゆえに国家間には常に戦争の危険が存在する―に対する実際的な対処法として、力という客観的事実によって強国が弱国の主権を容易に犯すことができないような状態をつくりだしたのが勢力均衡という原理だった。(91〜92頁)


■集団安全保障の理想と現実

国際社会は、集団安全保障の理想が期待するように、いついかなる時も侵略を受けた国を救援するほど善意に満ちた世界ではない。しかし長期にわたって一定規模の国際紛争が続けば、それを放置しえない程度に国際社会は相互依存的ではある。(114頁)


■主権をめぐる認識の違い:近代ヨーロッパと非ヨーロッパ世界

発展途上国の国家や主権についての観念は近代ヨーロッパのモデルに基づいている。前章に見たように、近代国家や主権概念が登場した近代ヨーロッパでは、中世の普遍的権威を否定する意識が強かったために、理論家は国家の独立性や主権の絶対性を強調した。しかし、実際には、近代ヨーロッパではさまざまなつながりをもつ複数の主権国家が存在し、その間で調整を図る感覚、言い換えれば主権国家体制に基づいて国際共同体としての性格を強める要素が暗黙の前提として存在していた。一方、非ヨーロッパ世界では、こうした近代ヨーロッパ政治の実際的側面への理解は少なく、過去の植民地化や圧迫の経験もあって、国家の独立や主権の絶対性を主張する傾向が強い。そして近隣諸国との関係でも、近代ヨーロッパのような国家を越える紐帯をもたない場合がほとんどである。したがって、地球上の多くの地域では、主権国家が相互的に国際秩序を強化していく傾向は弱いのである。(133〜134頁)


主権国家体制の安定こそが解決の糸口

内戦であれ、その他の安全保障上の諸問題であれ、解決の糸口は今日でも主権国家体制を安定させることなのである。しかしその上で内戦は、国家間の関係だけに着目していても、今日では安全保障は十分に得られないことを端的に示してもいる。国家を支える社会、ことに人々の生活に関わる経済にまで目を広げることが必要であるし、そのことで主権国家体制により安定した秩序としての性格をつけ加え、国際共同体としての性格を強める可能性が広がってくるのである。(146頁)


■地球的統治と国家エゴ 

もちろん地球的統治にとって国家エゴは問題である。しかしそれは国家代表の心がけや視野の広さに問題があるのではなく、国際政治の構造そのものに由来する問題である。(略)要するに、国家エゴとは、人々の忠誠心の対象が圧倒的に地球社会にではなくて、国家に向けられていることの帰結なのである。(略)地球的統治について「政府なき統治(governance without government)」という表現が用いられることがあるが、本当は「諸政府との統治(governance with governments)」でしかありえないのである。(203頁)


■「文明」と「文化」:文化と民族性を結びつける傾向

文化と民族性を結びつける傾向は十九世紀の前半にはまだそれほどはっきりしていなかったが、世紀の後半にはドイツの一般的思潮となった。この際の特徴は普遍主義的で物質的、技術的な西欧「文明」に対して、精神的、内面的価値を表現するのは「文化」であり、歴史的伝統や芸術に代表される知的側面、人間的教養こそが真の人間的価値を示すという対抗的、反発的観点である。(215頁)


■文化の脱政治化、文明概念の普遍性の強調と国際政治における文化・文明概念の復活

(第二次)大戦が開始されると、連合国は戦争を文化・文明間の争いではなく、文化・文明観の抗争として捉え直した。つまり人種や文化を政治的対立、抗争と結びつけて考える考え方そのものを攻撃し、より普遍的な文明のために戦うとして捉え直した。(220頁)


→連合国の結束を可能にした文化・文明観における二つの要素
①文化相対主義(220頁)
②文明概念を法、権利、正義といった抽象的、形式的レベルで定義し、その普遍性を主張して国際的支持を獲得すること(221頁)


第二次世界大戦に至る抗争を経て、文化が相対主義によって脱政治化されると同時に、文明概念が法的な意味での世界市民主義として定義されるという二重の形式化が行われた。(222頁)


→「こうして第二次世界大戦後には文化や文明は社会科学や政治において敬遠される言葉となった。」(222頁)


→「しかし一九五〇年代の後半になると、再び文明や文化といった概念が語られるようになってきた。その根底には、「仮想の地球社会」化が作用している。それは政治から切り離され、脱政治化されていた文明や文化といった領域と政治の領域との境界を再び曖昧にし、新たな形で文明や文化を政治の領域に呼び戻したのである。」(223頁)


■「民主的平和」(democratic peace)論について

「民主的平和」論が正しいかどうかについては今日でも論争が続いている。しかし私は、こうした仮説は経験則としておおむね首肯できる、という程度にとどめておくのが妥当であり、厳密な定理として証明しようとすることは意味がないばかりか危険も存在すると考える。なぜなら、この仮説の意味するところを実践に応用しようとすれば、民主国と非民主国に抜き差しならない境界線を引いたり、民主主義を拡張することが真の平和の道なのだから、危険を覚悟してでも非民主国を民主化しようという主張につながりかねないからである。(229〜230頁)


→「民主的平和」論は、「民主制の本質についても、非民主国を民主化する手段についても明確な考えを含んでいない。近代民主制の本質は、表現の自由なのだろうか、政治参加の権利なのだろうか、結社の自由なのだろうか、国民の生存権の確保なのだろうか。また、民主化するには非民主的な権力者を排除することが必要なのだろうか、それとも権力者に改心させることで足りるのだろうか、それとも非民主国がしばしば言うように、物質的経済的豊かさが必要なのだろうか。第一とすれば政権の転覆が、第二とすればさまざまな圧力が、第三とすれば経済的支援が民主化への早道となる。しかしその目標も手段も曖昧なまま、民主化というシンボルだけが一人歩きすることは政治的実践においては危ういものとなる。」(231頁)


■普遍的司法管轄権という考え方の問題点

司法とは、あらゆる公的行為の中で最も権力的な行為である。それは権力の名において人間の自由を奪い、時に命すら奪う。そうしたことが行われるのは、人々が自らを支配する司法権力に対して、明示的ないし黙示的に服従の同意を与えているからであり、その限りにおいて司法は正義の実現という道徳的正当性をもつ。しかし国際的な司法裁判所はこうした権威を欠いている。それゆえ、実際に国際刑事手続きが行われる場合には、権力の契機が前面に出てこざるをえない。極東軍事裁判を「勝者の裁き」として批判する主張を完全に批判できないことが、日本での戦争責任についての議論をどれほど歪めていることか。責任の自覚は本来、客観的事実が明らかとなり、個人が内面において感じるべきものであるのに、拙速な裁判と断罪は、内面的自覚を阻害する結果をもたらした。(241〜242頁)

もちろん、政治指導者がジェノサイドや「民族浄化」を命じる危険が存在することは否定できない。そうした危険を抑止し、その命令者を処罰する手続きがないことは、主権国家体制の欠陥と言うことができよう。しかしそうだからといって、普遍的な司法管轄権を安易に強化することは極端な試みであり、欠陥はあってもそれなりに機能している主権国家体制の基本的前提を崩すことになる。(242頁)


価値観の多様性を前にして、強制的民主化や普遍的司法権や人道的介入の範囲を広げることは一見国際的な倫理的統一を強めるように見えながら、実際には世界の価値観の相違を強めてしまう危険をはらんでいる。(249頁)


■近代と現代におけるコミュニケーション技術の違い:印刷メディアと電気的メディア

コミュニケーション技術の発達と近代ナショナリズムの形成過程を関連付ける研究(カール・ドイチュ、アーネスト・ゲルナーベネディクト・アンダーソン


「かつてのコミュニケーション技術が国民統合的な機能をもったとするなら、グローバルな統合に向かっていないように見える今日のコミュニケーション技術とは何が異なっているのだろうか。」(250頁)

伝統的な社会でのコミュニケーションは、相互の心の中に相手への共感を生み、そこに理解が成立する。活字によるコミュニケーションは共感の代わりに読み手の想像力を喚起する。これに対して、電気的メディアによるコミュニケーションは共感を呼びさますには速くかつ細分化されすぎているし、あまりに我々の情緒の近くまで迫ってくるため、想像力の働く余地もない。マクルーハンの説くように、電気的メディアは「想像の共同体」としての国民意識や中央集権的な国家を弱体化するかもしれないが、それに代わって地球市民を生み出すわけではないのである。(252〜253頁)


それ(電気的メディア)は文化人類学者の青木保の言葉を借りれば、極端に「速い情報」をやり取りするメディアであり、瞬間ごとの切り取られた情報を伝えはするが、深い人間関係を形成する濃密な「遅い情報」を伝えることはできないのである。(252頁)

もちろんエスニック集団の混在が常に対立を生むと考えるのは早計である。異なる文化の間での相互理解、いわゆる異文化理解が進むことは可能だし、文化の接触が刺戟となって新しい文化が生み出されることもありうる。しかし、文化の相互理解や融合のためにはある程度の時間がかかる。今日のメディアが伝える「速い情報」は短期間に多くの情報をもたらすけれども、文化の深層を伝え、共感を生み出す能力を十分にもたないために、かえって偏見や単純なステレオタイプを増幅する危険性をもっているのである。(256頁)


■伝統的な国際政治のあり方がもつ意義

宇宙から人類を眺めるかのように、いわば人間を類的存在として科学的に観察し、制御する方法としての秩序を説く世界システム的観点に対して、人類が複数の政治的共同体に分かれ、第一義的には個々の政治的共同体の中で問題解決を図ることを原則とした上で、複数の政治的共同体に関わる問題について協力の範囲を広げるべく努力する伝統的な国際政治のあり方は、多くの矛盾と限界を抱えながらも、安易に否定しえない意義をもっていることを本書では強調してきた。(267頁)


人類が理想的ではないにせよ、ある程度満足できる政治秩序として選択してきたのが、主権国家体制を基礎とした上で、その欠点の改善を図るという秩序のあり方だったのである。(267頁)


【コメント】
本書の著者は、日本を代表するリアリスト国際政治学者である故・高坂正堯の教え子である。本書の内容も高坂の『国際政治』(中公新書)から大きな影響を受けている。

以前に高坂の『国際政治』の書評を書いた際、残念ながら言いたいことがよく理解できなかったと書いた。現実主義に足場を置いて世論信仰や理性万能主義を批判する姿勢には共感したが、全体的には不満の残る内容だった。高坂の該博な知識のせいで内容が漠然としすぎてしまい、まとまりを欠いているように思われたからだった。

で、本書である。人間らしさに基づいた著者の国際政治観は非常に分かりやすくて内容にも同意できたが、やはり全体的に冗漫な印象を受けるのである。言いたいことは序章で書かれている「国際政治のトリレンマ」(後述)であって、その説明を展開するための第二章から第四章までが読んでいて非常に長ったらしく、もう少し簡潔にできたのではないかと思わざるを得なかった。

「国際政治のトリレンマ(三律背反)」とは、以下のような国際政治における三つのイメージが混在または競合する状態にあることを指す。

①「主権国家体制」(realism、ホッブズ的伝統)
(1)主権国家が国際政治の唯一の基本単位である。
(2)主権は不可分かつ不可譲であり、国内社会では至高の存在であり、互いに対等である。
(3)個人の自由は自らが同意する主権国家をもつことで実現される。

②「国際共同体」(liberalism、グロティウス的伝統)
(1)主権国家は国際政治の基本単位だが唯一の主体ではなく、国際機構、社会集団や個人も一定の範囲で国際政治の主体たりうる。
(2)主権は少なくとも部分的に分割、委譲可能である。
(3)国際社会の諸アクターは一定の価値、目的を共有しうる。

③「世界市民主義」(globalism、カント的伝統)
(1)国際社会においても基本単位は個人である。
(2)国家は擬制に過ぎず、個人は世界に帰属する。
(3)平和は世界の(政治的、社会的、精神的)統一によって達成される。

国際政治の専門用語に通じている者にとっては、リアリズム、リベラリズムグローバリズムという言葉のイメージがそれぞれの三つのイメージに近いことが理解できるだろう。国家の意義を強調する度合いがそれぞれ異なるわけだが、現実の国際政治では、この三つの矛盾する論理の間で、ケース・バイ・ケースで選択を迫られる。

国際政治の大半は、自己の国益を守ることと世界的な公共利益のために行動するという二つの要請の間で、いかに妥協を図るかという点につきるからである。(26頁)

しかし、こうした国際政治観が確立するまでには、近代主権国家の成立以後、長い年月を必要とした。妥協の余地なく多大な被害をもたらした宗教戦争から、ヨーロッパは主権国家といういくつかの政治共同体に分かれた体制を築く知恵を編み出した。そこでは、まずは自己の国家そのものを確立することが要求されたのであって、国家間関係はかつての宗教的・普遍的な権威を復活させるものとして、思考から排除された。そこでは「国際政治」という考え方はタブーだったのである。

我々はマキャベリの『君主論』などから、時には積極的に悪を為す権力政治のイメージをこの時期に対して持っている。意外なことだが、実はこの時期は国家間の権力政治は極力敬遠されたのであり、マキャベリ自身が望んだのも、「外国勢力を排除し、宗教的権威と現世秩序とを分離して、統一された政治体としての国家が建設されること」(34頁)だったのである。彼が国家間の権力闘争ではなく、君主自身による権謀術数を説いたことは、「君主は、野獣と人間とをたくみに使いわけることが必要である」という『君主論』の中の有名な言葉からも分かる。

19世紀後半には産業革命が起こり、またそれに伴って世界に政治的な支配を確立しようとする帝国主義の時代がやってくると、タブーであった国際政治は徐々に意識されるようになってきた。

十九世紀になって権力政治という観点がとられるようになったのは、国家間関係が価値の闘争の場としての性格をもちはじめたことを意味していたのであり、それは国際政治が意識されるようになる前段階を意味していた。(48頁)

その後は二つの世界大戦を経て、「国際共同体」と「世界市民主義」の重要性が注目されるようになり、「国際政治のトリレンマ」が生まれることとなった。しかし現代においては、テクノロジーの急速な進歩によって、このトリレンマが「世界市民主義」の方へと向かうようにますます思われるようになっていると著者は言う。普遍性が強く要求された場合、国際政治においては、独裁国家の強制的な民主化国際刑事裁判所のような普遍的司法管轄権の確立、内政不干渉を修正する人道的介入といった動きに通じることになる。

もちろん、政治指導者がジェノサイドや「民族浄化」を命じる危険が存在することは否定できない。そうした危険を抑止し、その命令者を処罰する手続きがないことは、主権国家体制の欠陥と言うことができよう。しかしそうだからといって、普遍的な司法管轄権を安易に強化することは極端な試みであり、欠陥はあってもそれなりに機能している主権国家体制の基本的前提を崩すことになる。(242頁)

ここからも明らかなように、著者はたとえ従来までの主権国家体制が「仮想の地球社会(virtual global society)」の出現によって修正を迫られているとしても、人間の叡智の結晶である主権国家という装置を全くのゼロにしてしまうことは、利点以上に弊害が大きいと見ている。

主権国家が成立したあと、それ以前の宗教戦争の時代に比べて戦争は格段に減った。主権国家は確かにヨーロッパ人が生み出した叡智であった。もちろん近代と現代は違う。今は国家の枠ではとらえきれない紛争(内戦、民族浄化、テロ)がますます顕著となっている。しかしこれらの紛争は、国家の枠では捉えきれないからといって、国家というシステムを廃止して抑制できるものでは決してない。むしろそれはさらなる混乱につながるのであり、最も現実的な方法とは、著者が説くように、主権国家の安定性を確保して、その上で「国際共同体」の確立を目指したり、「世界市民主義」の理想を追求したりすることなのである。すなわち、現代人は「国際政治のトリレンマ」の中で生きていく他ないのである。
  
しかし著者は、そうした制約は「人間の生み出してきた一切のものの源泉」(270頁)であり、テクノロジーによって全ての制約が取り払われた生活よりもはるかに人間らしい生き方であると積極的に意義付けする。確かに「国家の時代は終わった」と物知り顔で語るよりも、主権国家体制の安定を維持しながら、その欠陥を漸進的に修正していく方が反発や抵抗も少なくて済むだろう。ただ、その漸進的な修正の意図するものや結果次第で、保守的な主張のクレディビリティが左右されるだろうことは、保守的な人間自身が認識しておくべきかも知れない。