最上敏樹『人道的介入―正義の武力行使はあるか―』書評

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

【ピックアップ】


■人道的介入のモデルケースとはみなしにくいNATOのユーゴ空爆

この爆撃自体は、人道的介入のモデルケースとはみなしにくい事例である。同国のコソヴォ自治州で、殺戮や迫害などさまざまな非人道的事態があったことはたしかだが、とられた手段(=空爆)、それをとった手続き(=安保理無視)、得られた成果(=迫害の循環)のいずれをとっても、疑問の残る行動だったからである。(中略)それゆえ、あの事例をもとに人道的介入を肯定する議論も、それをもとに人道的介入を否定する議論も、同程度に意味をなさない。(vi頁)


■非人道的事態に対して「何を」するべきか 

「何か」であるからその幅は広く、犠牲者たちに激励のメッセージを伝えることから加害者を殺害することまで、さまざまなものが含まれるだろう。その「何か」をする主体も、一人一人の市民から強大国の軍隊に至るまで、いろいろなものがありうる。どのような状況のなかで、だれが何をすることが必要であり望ましいか―それを考えることが人道的介入について考えるということにほかならない。いかにして国家に武力行使を許す口実を増やすかの問題ではないのである。(24頁)

ソマリアの事例のようにやりすぎてもいけないし、ルワンダやスレブレニッツァの事例のように無為無策なのも正当化できない。他方で、「中立性と非暴力性」を捨てるか、それともそれらを守って何もしないか、という短絡した選択肢を立てる必要もないだろう。中立性と非暴力性を守りつつ、あるいはそれらに何ほどかの修正を加えつつ、何かをするということも不可能ではないし、それこそが必要な場合もあるのである。(92頁)

具体的事例を離れて抽象的・一般的に是とか非とか言えるものではないし、またそれが唯一の論点であるわけでもないのだ。そして、是と答えた場合には自分の行為に陶酔せぬ賢慮が求められ、非と答えた場合には、迫害される人々を救済するために代わりに何をするかの提示が求められる。(207〜208頁)


■人道的介入論の難しさ:人道的要因vs地政学的要因

これは他の介入例にも多かれ少なかれ共通する点だが、動機の一部に人道的な要素はあるものの、それ以外の動機も不純物のように混じりこんでいることである。つまり、介入相手国(の特定政権)との対抗関係、近隣の大国への勢力誇示、勢力圏拡大といった、地政学的な要因である。ヴェトナムの場合も、それらがすべて当てはまっていた。こういう要因複合型の行動をどう評価すべきかも、人道的介入論のむずかしさである。無辜の人々の虐殺が一〇〇万人ほどで止まったことを前向きに評価すべきか、それとも別の(それ自体としては害の多い)動機が混じっていることを理由に否定的に評価すべきか。(33頁)


■「予防」と「処罰」のための武力行使

まず、「予防」のための武力行使という考え方は、現行国際法に根拠を見いだすことがほとんどできない。また、「処罰」のための武力行使となると、ますますもって正当化することがむずかしくなる。いかに悪行をはたらいた政権であれ、それに武力攻撃をかけて「処罰」することを許すルールは、少なくとも現行国際法にはないからである。それを許すルールが何もないのなら、別の新しいルールを作るか、これまであいまいだったルールを明確にするかのいずれかが必要になる。「人道的介入」はそういう新しいルールの候補のひとつであるかもしれない。しかしその場合でも、迫害の犠牲者の救済ではなく、加害者の処罰を目的とする人道的介入が認められるかどうかは、更に慎重な検討を要する。(37頁)


■「国境なき医師団(MSF)」による「介入の権利」

MSFに言わせれば、それは、普通の市民たちがもつ「介入の権利」を行使しているにすぎない。こうして人道的救援の世界に新しい要素が加わることになった。武力を背景とした、国家(群)による介入ではなく、武力を持たない市民たちによる「介入」である。当事国の不同意を押し切って活動する場合もあるから、たしかに「介入」であって、単なる支援や援助ではない。また、「権利」を打ち出したのも斬新だった。国家間関係が「不介入の義務」によってしばられるかたわら、非国家的組織のレベルでは「介入の権利」が語られ始めたのである。第二次大戦後の最も大きな惨劇の背後で、こうして画期的な転換のあったことだけは覚えておきたい。(47頁)


■「狭義」の人道的介入と「広義」の人道的介入

ふつう「人道的介入」という場合、国連のとる行動はそのなかに含まれない。前章でも述べたように一般に議論される(狭義の)人道的介入とは、(1)国家が単独あるいは共同で、(2)国連など国際的機関の決定を経ずに独自の判断で、(3)武力行使を伴ってなされるもの、を指すからである。この三要素のいずれであれ、それと違ったカタチでおこなわれる場合は、いわば広義の人道的介入とでも呼ぶべきものとなる。つまり、(1)’国連がおこなうか、(2)’国々が国連安保理の承認を得ておこなうか、(3)’主体が誰であれ(NGOなども含む)武力行使なしに実行するか、そのいずれかの場合である。広義の人道的介入は、意味の上で狭義のそれとは明らかにズレている。しかし、現代の人道的介入を考える際には、こうした広義の人道的介入を除外するわけにはいかない。とりわけ、国連のおこなう活動はそうである。(50頁)


■国連と人道的介入の関係

人道的介入が国連と疎遠だと考えられがちだったのは、主として法的な理由による。つまり、人道的介入というと武力行使を伴うと考えるのが普通だが、国連憲章上、武力行使を伴う国連活動は「強制行動」(国連憲章第七章、特に三九条プラス四二条)に仕分けすることができ、「介入」とは別の、合法性の明らかなものになりうるからである。強制行動とは、侵略や平和を脅かす行為に対し、国連が兵力を組織して鎮圧に当たることを指す。ただ、発動原因を侵略に限る必要はない。人道的緊急事態に対応して強制行動を起こすことも可能で、その場合、この活動は、外見的には「人道的介入」だが、法的には「国連の強制行動」という別物となる。(51頁)

両者ともに、相手の意思に反してでもとられる措置である点では共通している。違いは、介入が(個々の国々がおこなう限り)合法かどうか不確かな行為であるのに対し、強制行動は法によって定められた合法な行為であることである。もっとも、このような強制行動をおこなう本来の国連軍は、いまなお存在しない。本来の国連軍は存在しないが、平和維持活動(PKO)をおこなうための平和維持軍は、これまでに何度も設置されている。それが人道的緊急事態に対処する場合、「人道的介入」との関係は、「本来の国連軍」が対処するであろう場合より少し入り組んだものになる。平和維持活動の場合、兵力の展開は受け入れ国の同意に基づいており、相手の意思に反してでもおこなわれる強制行動や介入とは本質的に異なっている。また、武力行使についてもさまざまな制約があるし、対象国にあれこれ命令する権限ももたない。ひと口で言うなら、平和維持活動である限りはむやみに「介入」できないことになり、逆に、「介入」しようと思うなら―強制行動の場合と違って―特別の法的な正当化根拠が必要になるのである。(51〜52頁)

迫害の犠牲者たちに精神的・物質的な支援を送ったり、あるいはそれ以前の段階でそもそも迫害の起きない社会建設を助けたりする「介入」なら、NGOが最適の主体だし、ある程度までは各国政府の活動にゆだねることも可能だろう。だが、何らかのかたちで軍事力を動員することが必要な場合、それはNGOには不可能だし、国々の個別的な判断と行動に任せるには危険性がある。とすればやはり、国連の役割をできるだけ明らかにしておかなければならない。ソマリアルワンダでの失敗を踏まえ、かつ、一気に「中立性と非暴力性」を放棄した代替策に飛躍するのではない、国連の新しい役割を構想することが求められている。(128頁)


■目標は「予防行動」であって「怨念の解消」ではない

自前であれ外注であれ、ルワンダの事例では、国連および国際社会の措置が遅すぎたし少なすぎた。早めに十分な武力行使をすべきだった、という意味ではない。早い時期に非武力行使型の兵員および文民警官を派遣していたなら、五〇万人もの虐殺はかなり防ぎえたのではないかという意味である。長年にわたる部族間の怨念の衝突なのだから防ぎようがなかった、と言うのは誤っている。国際社会が防ぐよう求められていたのは、噴出する歴史的怨念そのものではなく、斧や鎌を用いた殺人だったからである。それぐらいのことがまったく不可能であるはずはない。その点でこの事件は、どうすれば有効に人道的武力介入ができるかではなく、どうすれば有効に人道的予防行動ができるかが問われた事例だった。(69頁)


■ユーゴ空爆の是非

ユーゴ空爆についてはすでに多くの議論がかわされ、おびただしい量の文献も出まわっている。そこで特徴的なのは、議論がしばしば「ユーゴ空爆=人道的介入は是か非か」という設問を軸に展開されたことである。だがこれは、いささか大雑把にすぎるように思う。もう少しきめ細かく分けて、たとえば「ユーゴ空爆は人道的介入と言えるかどうか」というところから議論を始めなければならないのではないか。そして、その答えが「言える」であったとしても、それでただちに「是である」ということになるわけでもない。一定の基準に照らして「人道的介入」と呼べるのだとしても、それが法的あるいは政治的に許容しうるものであるかどうかは、また別の事柄だからである。(98〜99頁)

このすべてが空爆のせいで起きたと言うのは明らかに誤っている。言えることは、しかし、こうして迫害を連鎖させる社会構造の改善に空爆は何の意味ももたなかった、ということである。コソヴォには「春が早く来た」のではなかった。はかない春とむごい冬とが、いくつかの「民族」の間を行ったり来たりしただけである。(110頁)

そのすべてが誤りだったというわけではない。最小限、迫害されている人々を救援しなければならないという判断自体は正しかったのだ。問題は、第一に、加害者に向けてそうした外科的処置を施すことが、あの場合もっとも適切だったかどうかである。そして第二に、論理的に一貫しようと思うなら、コソヴォアルバニア系住民を守るためにセルビア人支配地域を爆撃したあと、加害と受難の関係が逆転した時点で今度はアルバニア系住民に対して爆撃をしなければならず、ひいてはマケドニアアルバニア人勢力に対しても同じことをしなければならなかったはずだ、という点である。(151頁)


■「不介入(干渉)原則」と「武力不行使原則」は乗り越えられるか

人道的介入の政治的・道義的なむずかしさは、そこにおいて絶対平和主義と絶対倫理とが衝突する点にある。そのふたつの要請を調和させねばならないから、きわめて重い課題になるのだ。しかし、むずかしさはそれに限られず、法的に見ても十分にむずかしい。その半分が、国際法上の不介入(干渉)原則そのものとの兼ね合いであることはすでに第一章で述べた。残る半分は、武力不行使原則との両立可能性である。不介入原則が国連以前からの慣習法という性格が強いのに対して、武力不行使原則は国連憲章において確立した規範という性格が強い。(116頁)


■「正戦論」と「無差別戦争観」

一七世紀頃まで、国際法の世界には法的に許される戦争(正戦)と許されない戦争(不正戦)とがあった。それは正戦ならたたかってもかまわないという法体制だから、武力不行使を根本原則とする体制とは異なる。この区分は、しかし、一八世紀頃からくずれ始め、戦争に正しいも正しくないもないという、「無差別戦争観」にとって替わられた。ここで世界は、武力不行使原則からさらに遠くへと追いやられる。やや乱暴なまとめ方をするなら、無差別戦争観とは戦争の善悪の判断を放棄することであり、それによって戦争を法の制約から解放し、結果的にいわば戦争自由を原則化するに等しいものだったからである。(117頁)


■第二次大戦後の武力不行使原則

この二条約(国際連盟規約と不戦条約)にもかかわらず第二次世界大戦が起き、世界は戦争法の根本的な刷新を迫られる。それに応えて国連憲章が用意したのは、「戦争」よりも範囲の広い「武力行使」(および武力による威嚇)を禁止する法規定だった。しかもそれは、「正・不正の判定ができないならすべての戦争を正しいと見なそう」という無差別戦争観を乗りこえ、「正・不正の判定ができないならすべての戦争(さらには武力行使)を正しくないと見なそう」とするものであり、その意味で正戦論の否定にまで至るものだった。こうして、二〇世紀国際法の金字塔とも言うべき、国連憲章二条四項が成立した。(118頁)

もっとも、「正戦の否定」という点に関しては、ひとつ大きな限定がつく。禁止されるのは国々の武力行使であって、国連(・・)の(・)行う武力行使ではない、という点である。(同)


■「武力不行使原則」に対する≪正当な例外≫とは?

国連憲章のもと、武力行使の禁止がなかば絶対的であるなら、理由が人道的であれ何であれ、いかなる武力行使も、原則に対する《正当な例外》であると言えなければならない。そのような例外であることを示すために人道的介入肯定論の示す論拠は、大きく三つある。第一に、武力行使の一般的禁止は国連の安全保障体制がきちんと機能することを前提としているのだから、きちんと機能していないときには、個々の国家による武力行使が許される場合も出てくる、という主張である。侵略を受けた国があったり、国民を虐殺する国があるのに安保理が有効な手だてを打てないような場合、不正をただす意思と能力を持った国が実力行使することを許される、とこの説はいう。第二に、人権の保障は武力不行使とならぶ国連の大目的だという点である。この考え方によれば、武力不行使原則は絶対無条件ではない。むしろ、人権の保障という大目的(国連憲章一条三項、五五条など)はそれと同等の重要性をもつ。武力不行使原則と同様に強行規範(ユース・コーゲンス)だ、とする考え方もある。そうであるなら、人権がはなはだしく侵され、武力を行使しなければ救済できないような場合、武力行使の禁止はいったん解除される、とこの見解は説くのである。積極的に武力行使することが求められるとする説さえある。第三に、憲章二条四項は、他国の領土保全や政治的独立を侵すような武力行使だけを禁止しているのであって、それ以外の(他国の領土を占領したり政権を転覆したりするのではない)武力行使は許される、という解釈である。国際法学界の通説とは言えない解釈だが、まったくの的はずれであるわけでもない。この解釈に立てば、自国政府に迫害される人々を助けるだけのために軍事侵攻し、その目的が達せられ次第、占領も政権転覆もせずに撤兵するような行動は、憲章二条四項のもとでも許されることになろう。(120〜121頁)

以上の議論にもかかわらず、個別国家による人道的介入が武力不行使原則の《正当な例外》としての地位を確立したとは言えそうにない。それほどまでに武力不行使原則は、戦争にみちた世界を平和な世界に変えるための譲れぬ原点であり、それゆえに、例外設定の試みをはねつける強さをもち続けた。(121頁)


■「人道的介入=武力行使」または「武力不行使=非介入」は誤り 

選択肢が、人権侵害の救済か武力の不行使かというものである場合、後者を選択することが「時代遅れ」と批判される可能性のあることである。武力不行使原則自体が時代遅れなのではない。人道的介入は是か非かという問題が、しばしば、人権をとるか国家主権をとるかという選択に置き換えられるため、武力不行使原則の重視が、あたかも国家主権重視と同義であるかのように見なされることなのである。はなはだしい人権侵害にも他の諸国が手出しできないというのは、すなわち侵害国の国家主権を最大限に重んずるという意味でもありうる。そこから、はなはだしい人権侵害を救済するためであっても武力を行使してはならないと言うことは、国家主権を絶対に侵害してはならないと言っているのと結果的に大差ない、という批判が生まれるのである。厳密に言うならばこれは、不介入原則絶対主義への批判ではあっても、武力不行使原則絶対主義そのものへの的確な批判とはいえない。人権侵害をやめさせる目的で他国に断固として介入はするが、武力行使は極力避ける、という選択もありうるからである。にもかかわらず、「人権か国家主権か」という設問の仕方は、人道的介入の議論ではよく見られる。(中略)問題は、いまの設問に答えて「人権」を選んだ場合、なかば自動的に武力不行使原則の緩和をも選択する結果になることである。これはおかしい。「人権」を選択することの結果として切り捨てられる「国家主権」とは、まずもって、その国に対する他国の不介入義務である。人権侵害国の国家主権はその限りで保護を奪われる。そうしてその国に調査団が派遣されたり、経済制裁が課されたり、一定の介入が行われることになるだろう。その段階で初めて、介入の手段として武力行使を含めるべきかどうか、含めてよいかどうかが検討の対象になるのである。「人権」に優先順位を与えることがすなわち、どの国も等しく負っている武力不行使の義務の放棄につながるのではない。(122〜124頁)

→マイケル・J・グレノンの議論を参照(「単極構造世界と安保理の崩壊」『ネオコンとアメリカ帝国の幻想』206頁)。

虐殺や非道な抑圧は当然にやめさせなければならない。しかし、そのために武力を行使してよいことにすると、人類が何世紀もかけて達成した武力行使の違法化を台無しにするおそれもある。のみならず、これまでの歴史において、当事者が人道的介入と称する行動は、たんなる口実であったか、あるいは、救援以外の目的も兼ねた「乱用」の場合がほとんどだったのではないか。(124頁)


■人道的介入の三つの類型

(1)加害者、すなわち非人道的事態を引き起こしている者たちに武力攻撃を加えること。これまで人道的介入と呼ばれた(自称したものも含む)歴史的事例は、ほとんどがこの場合だと言ってよい。バングラデシュ独立時のインドのように現場で加害者(パキスタン軍)に攻撃を加える場合と、NATOによるユーゴ空爆の際のベオグラード爆撃のように遠くの加害者を攻撃する場合とがある。


(2)迫害の犠牲者を救援すること。犠牲者に対する暴力を武力行使によって阻止する行動(インドの場合がそれに近い)と、国連難民高等弁務官事務所UNHCR)や赤十字国際委員会(ICRC)など人道救援組織がおこなう、犠牲者に医薬品や食糧などの必需物資を届ける活動や、難民を救援したりする活動とに分けられる。


(3)犠牲者への救援活動に対する攻撃から、それらの活動に従事する人々を守ること。現地に派遣された国連平和維持軍や、治安任務で駐留するNATO軍などが実際におこなっている。


このうち(1)は、人道的介入として最も連想されやすいものであると同時に、被害者への救援それ自体から最も遠いものでもある。被害者の救援が人道的介入の本質であると考えるなら、このタイプはそういう本質から最も遠い。だとすると、これまでの人道的介入論の主流は、実はその本質から最も遠いものを最も中核的なものと扱ってきたのだとは言えまいか。(141〜142頁)


■介入に必要な覚悟

人道的介入と称して大規模な空爆をするための兵力動員ならばできるのに、難民キャンプの治安を維持するための兵力(あるいは文民警官)の提供はできないというのはおかしい。後者の方が危険が大きいと言うならそのとおりだが、自分たちにとってより安全な方法を選ぶことが人道的介入の種類と手段の選択基準ではないはずだからである。とくに、自分たちにとっては安全だが、関係のない人々にまで膨大な付随的被害をもたらすような方法は、介入する側にとってだけ人道的であるような「人道的介入」になってしまう。手段が安全かどうかは大切な要因だが、どちらが安全かという比較は、同じ結果を得るためにどちらが安全かという比較でなければ意味をなさない。(149頁)


■人道的介入は和解を促進するものでなくてはならない

冷戦終結後、人道的介入(特に狭義のそれ)の主張が一部で高まったのも、ある意味では紛争の和解不能性に対して部外者が苛立ちを高めたことが一因だった。それは最も好ましい形の介入ではない。介入が和解放棄の裏返しであってはならないのである。(中略)和解困難な紛争の非人道性に着目し、それを理由に介入する側も、介入することにより当事者たちの和解がいずれは促進されるよう、細心の配慮を払っていないことが少なからずあるのである。(中略)そしてその観点からするなら、たとえばユーゴ空爆は、コソヴォに住む人々の和解を手助けする、真に「人道的」なものであっただろうか。(196〜197頁)


■日本にとっての人道的介入

日本のような平和主義国家にとって人道的介入という問題は、これまでの平和主義を放棄しなければならないかどうかの問題ではない。むしろ、その平和主義の、これまで眠っていた部分をどう活性化させるかの問題である。(206〜207頁)


【コメント】
どんなテーマでも、キーとなる文献が存在する。「人道的介入」というテーマでは、間違いなく本書は必読文献である。人道的介入に関心を持つ初学者への導入として使うこともできるし、また国際関係を専門に学ぶ者にとっても議論の整理のために有効で、その意味ではオールマイティーな本である。

本書中のメッセージの中で、最も重要なものの一つが「武力不行使=非介入ではない」というもの。ユーゴ空爆などの派手な介入劇のせいで、あれこそが人道的介入の典型と見なす認識は改めなくてはならない。著者が言うように、「人権侵害をやめさせる目的で他国に断固として介入はするが、武力行使は極力避ける、という選択もありうるからである。」(123頁)いやむしろ人道的介入の本来の目的からすれば、武力行使を伴わない救援活動こそが、そもそもの人道的介入の姿であると捉えるべきである。

本書が持つ重要な意義の一つは、安易な国連不要論を峻拒する迫力を備えている点である。紛争への介入に際して、しばしば有効に機能できない国連(または安保理)を批判して、安易に国連不要論へと走る議論が巷に散見される。しかし、人権侵害国の意思に反して行うのが介入であるのだから、そこに入り込む各国の恣意的な思惑はできる限り排除されねばならない。たとえそれが完全には不可能だとしても、それにもっとも近い形にすることができるのは国連をおいて他にない。介入が不幸にして武力行使を伴わなくてはならなくなった場合も、それが「正当な例外」だと判断できるのも、国連だけである。

人道的介入とは、その美名とは裏腹に、危険で相当の覚悟を要求する手段である。敵の攻撃が届かない安全地帯から空爆だけして済むようなものではないのである。ユーゴでは、空爆が行われている間、虐殺はむしろ増加した。そしてユーゴ軍が撃退されたあと、今度はアルバニア系住民や「アルバニア解放軍」による凄惨な報復が始まった。結局、人道的介入の本質的な目的は達成されていなかったのである。人道を言うなら地上軍を派遣して、危険を覚悟の上で犠牲者の救援を行わなくてはならない。その覚悟もないくせに、奇麗事だけ言って爆撃したのでは、事態はますます悪化するのみであった。そう考える時、イラクへの自衛隊派遣に対する示唆も自ずと明らかになるだろう。


【本書を読んだきっかけ】
マイケル・J・グレノン「単極構造世界と安保理の崩壊」(『ネオコンとアメリカ帝国の幻想』)の中で、「国を平等に扱えば、個人を平等に扱えなくなる。実際、その他の諸国同様に、ユーゴスラビアに内政不干渉の原則が適用されていれば、その他の諸国の市民が手にしていた人権をこの国の市民は享受できていなかっただろう。ユーゴスラビア市民の人権は、外部からの介入があればこそ擁護された。」(206頁)と書かれている箇所を読んで、少し疑問に思ったのが直接のきっかけ。『人道的介入』を読み終わった今思うことは、確かにグレノンの言うことは正しいかも知れないが、空爆という手段が動機、手段、結果の全てにおいて人道的な要素を含んでいたとは到底言えないということである。確かに動機は人道的だったかも知れないが、空爆という手段、そしてそれが招いた結果はお世辞にも人道的だったとは言えない。むしろさらなる非人道的事態(空爆による民間人の被害、空爆時の「駆け込み」的虐殺、空爆後の報復)を引き起こした。こうした事実を考えれば、単純にユーゴ空爆擁護論を唱えることはできない。もし今後、より一般的に人道的介入を擁護するならば、それはユーゴ空爆の反省を経たものでなくてはならない。