『国連財政―予算から見た国連の実像』書評

国連財政―予算から見た国連の実像

国連財政―予算から見た国連の実像

本書は、邦語では類書の少ない「予算から見た国連の実像」の学術的分析である。ほとんど注目を浴びない国連の予算について、組織と歴史の点から緻密な実証が展開されている。予算というどの組織にとっても「現実の生々しさ」が表面化する側面を分析することによって、国連が結局は主権国家の集まりであるという当たり前の事実をより一層浮かび上がらせることになり、またそこから見える国連というシステムの限界と、その限界をシステムそのものの崩壊に至らせないための制度的工夫が歴史的に確立されてきた様が本書では明らかにされている。

「主権そのものが権力資源」(254頁)である国連の場において、「拘束力のある集合的な決定である」(12頁)予算が主権原理と衝突するのは必然であり、そうした矛盾は、主権平等の原則に基づいて1国1票制をとる総会と、安全保障等に関わる重要な懸案について迅速かつ実効性のある決定を可能にするために、特権を与えられた主要国から成る安全保障理事会の間の対立にも反映されている。そこから来る国連の限界を指摘することは易しいが、そのような矛盾をはらんだ組織原理でしか成立できなかったというのが、冷戦下における国連の冷厳な現実であった。

国連の成立以来、国連を舞台にして高まった政治的対立は多々存在するが、そのような対立が国連そのものの崩壊に繋がるのを防いだ予算制度における工夫として、政治的対立が生じやすい国連活動への予算の別枠化が指摘されている点が本書の主要なポイントの一つとなっている。それが、「本来極度に政治的なはずの予算が、現実には淡々と採択されるのはなぜなのか」(15頁)という著者が本書で追求した問いへの一つの答えとなっている。具体的には、政治的対立の根源となりがちであったPKOの予算が、1956年のスエズ危機の際に設置された国連緊急軍(UNEF)と、1960年のコンゴ動乱の際に設置された国連コンゴ活動(ONUC)で一気に額が膨張し、分担金不払いの額も桁違いに増えたせいで国連は最初の財政危機に直面した。しかしながら、分担金不払いに対する罰則(総会における投票権の停止)を定めた国連憲章19条を主要国に適用できるほど、冷戦下の対立は柔軟なものではなかった。そこで初めて実現したのが、「PKO予算の別枠化」であった。

まず、PKOの経費分担は加盟国の共同責任であるが、それは通常予算ではなく、特別の勘定を設けて経費を管理するという点である。これによって、政治的な対立をはらむPKOの財政と、すべての国が原則として反対のない、国連の会議サービスとしての機能を分離することが一応の慣行として確立したことである。これは、冷戦のさなかにあってもすべての国が存続を望んだ、諸国のフォーラムとしての国連の機能を、政治的な争いからある程度保護する、という重要な意味を持つこととなった。またPKOの費用は、通常予算とは異なった比率で分担され、とりわけ先進諸国の自発的拠出が大きな役割を果たすことが、一つのパターンとなった。(52〜53頁)

さらに80年代に高まった反国連的雰囲気の結果として、最大拠出国のアメリカが通常予算の分担金支払いを拒否し、国連始まって以来最大の財政危機を引き起こした。それが別枠化できない国連本体の予算であっただけに、危機は深刻であった。最終的にはアメリカの意向に沿う形で収拾がつけられた。また、冷戦後には大国間の政治的対立がほぼ消滅したが、それに伴って国連に過剰な期待が寄せられ、その結果として「PKOを設置する決定が、財政的な責任を伴わずにあまりにも無責任に行われる」(186頁)事態を招き、新たな財政危機が現出した。こうした事態はますます「予算の分節化」(318頁)を促し、国連の個々の活動が加盟国の自発的拠出に依存する度合いを高めている。またそれによって個々の活動は自己完結性を強め、それぞれの活動相互のつながりが弱まる傾向にある。こうしたPKO予算の「受益者負担」について、著者は以下のように警鐘を鳴らす。

このような受益者負担が全面的にPKO予算をカバーすることになれば、PKOがあくまで国連加盟国の共同責任であるという原則からは、大きな乖離が生ずることになろう。(176頁)

主要国による分担金の滞納がいまだ続く中、国連の活動が予算外資金への依存度を高めるのは不可避である。そうした状況の中で、いかにして国連としての一体感を維持するかということが問われているのだと思う。国連という場でしか解決が望めない問題群が世界中に存在していることは万人の認めるところであり、多くの限界を抱えつつも諸国間のフォーラムの場としての国連の存在意義に疑いを抱く人はいないだろう。そこで著者は最後に、国連をより政治的な論争の場とすることによって活性化することを提唱するのである。

冷戦が終了し南北対立もかなりの程度脱イデオロギー化している現状では、国連が直面している危機は、政治的対立によって国連が崩壊することではない。むしろ、国連が対立を避けるばかりで意味のある決定を下すことができず、そのため国際社会にたいして影響力を持つ諸大国が、もてる政治的経済的な資源を国連に投入しようとしないことであろう。だとするならば、国連組織の再活性化のきっかけとして、予算を通じて加盟国の相違がある程度は表面化することの方が望ましいのではないか。(284頁)

つまり、冷戦下で顕著であった「政治的対立による国連の危機」よりも、現在においては「政治的無風の危機」のほうがより深刻だと考えられるということだろう。実際、国連はイランや北朝鮮の核開発の問題について十分「政治的論争の場」として機能しているし、なお反国連的雰囲気が強いアメリカでさえも、国連の存在意義に疑問を抱くことはない。より重要な課題は、機構改革とさらなる予算の効率化に加えて、主権原理と実効性のあるガヴァナンスの間の緊張関係を乗り越えて一歩踏み出すことができるかどうか、そしてできた場合、その一歩がどのような性格のものになるのか、ということだろう。国連が加盟国によって成り立っている組織であるなら、各々の加盟国に起きている大きな変化が直接・間接に国連の変化にも繋がるはずだろう。

本書が出版されたのは1996年なのですでに10年以上経っているが、内容は現在でも十分示唆に富んでいる。現在の国連の実像を正しく理解するためには、その活動を支える予算制度がいかなる経緯で今の形になったのかの理解(つまり、冷戦の影響で「プログラム予算」という形が政治的妥協によって生み出されたという歴史の理解)がなくてはならない。