国家主権と人権規範

J. Samuel Barkin, "The Evolution of the Constitution of Sovereignty and the Emergence of Human Rights Norms," Millennium, Vol.27, No.2, pp.229-252.

一般に人権規範と内政不干渉を前提とした国家主権システムは対立するものとして考えられている。そう見られているからこそ、ボスニアコソボで軍事介入をすることの是非があそこまで議論されたのである。国家主権は他国から内政に対する干渉を受けないことによって初めて成立する。たとえ国家を統治しているのが独裁者であれ単一政党であれ、国境内部の大部分を実効支配していてかつ国民の一定の支持を受けていれば、国連からは一国家として認められてきたのである。

本論文は、そのような国際政治の一般的理解に修正を施すものである。結論から言えば、人権規範と国家主権は矛盾しない。なぜならば、国家主権を構成する要素が時代とともに変化しているからで、現代では国家主権を成立させる重要な要素として人権規範が含まれるようになったからである。端的に言えば、「人権規範を守ることのできないような国は国家主権を制限されても仕方ない」ということである。それによって、人権侵害のあった国に対して介入することが、国家主権システム全体を無効にしてしまうわけではないという結論につながる。

本論文で著者が言いたいことは、「主権とは社会的構成物(a social construct、232頁)」(「主権とは国家間の相互承認システム(a system of mutual recognition among states、230頁)」)であるということである。主権を所与のものとして論じるから、主権と人権規範が対立してしまうのであって、主権の意味するものが時とともに変遷すると考えれば、そうした対立を前提にする必要はなくなる。著者は、主権とは絶対的なもの(an absolute entity)ではなく、常に主権を正統化する原則(legitimising principles)によって変化を余儀なくされる性質のものであると論じている(229頁)。(“sovereignty is not an attribute of the state but is attributed to the state by other states.” 232頁)

時代とともに主権を構成する要素が変化してきたことを、著者は、中世から現代に至るまでを5つに時代区分した上で説明している。主権の構成要素を大きく変化させるのは大きな戦争(またはそれに匹敵する事件)であり、そのような事件がこの期間内に4つあったと述べている。

まず第一の時代区分は、血みどろの宗教戦争を終えてウェストファリア体制が成立した時代における主権についてである。この時代では、主権を構成する最も重要な要素は宗教であり君主の存在であった。この時代においては君主=国家であり、のちの時代においては不可能であった君主間の領土取引や傭兵の利用が国際的な慣習として認められていた。この時代において、戦争はいわば「王様の娯楽」であり、国民の関与はゼロに等しかった(237頁)。

このような時代に終止符を打ったのが1789年に起こったフランス革命であった。この第二の時代区分においては、君主は絶対的な存在ではなくなり、議会制を通して正統性を付与されることとなった。君主は引き続き国家主権を構成する重要な要素ではあったが、既得権益を保持したい支配階層と政治への関与を要求する新たに勃興してきた集団との間でせめぎあいが起こり、紛争の解決手段として革命前は行われていた君主間の領土取引はもはや不可能となった。しかし、議会制を通して正統性を得た君主が、国内の過激な自由主義革命によって存在を脅かされた場合、他の君主国は危機に瀕した君主を救うために介入することができたし、またすでに君主が追放されてしまった場合は、君主を復活させるために介入した(239頁)。この時代においては、このような形の介入は国際的な慣習として認められていた。

第三の時代区分を特徴付けるのは、ナショナリズムの萌芽である。1848年にヨーロッパで広がった革命を契機に、君主制を前提にした規範は消滅していった。フランスはそもそも君主国であることをやめてしまったし、英国はますます自由主義的な価値に基づいた対外政策を追求するようになり、オーストリアは弱体化して重要なアクターでい続けることができなくなり、プロシアは対外政策の目標の達成には、君主制よりもナショナリズムのほうが有効であると考えるようになっていた(240頁)。

ナショナリズム1860年までには主権を正統化する重要な要素となっていたが、それが明文化されたのは第一次世界大戦後のことである。ウッドロー・ウィルソンによる「十四か条の平和原則」の発表(1918年)とヴェルサイユ条約の締結(1919年)によって、民族自決が国家の正統性の基盤であることが国際的に承認された(241頁)。

ここで注意しなければならないのは、ナショナリズムが主権を構成する要素として承認されたからといって、それが民主主義や自由主義的な権利を国家に要求することを意味したわけでは決してないということである。そこで要求されていたのは、単に「国家が国民を代表していること」(states represent nations)を条件にしているにすぎない(241頁)。

ところがこのナショナリズムを正統性の根拠にした主権概念は、紛争を大規模で譲歩不可能な性格のものにしてしまった(242頁)。とりわけ第二次世界大戦は、ナショナリズムを主権の正統性の根拠に据えることに対する反省を促した。それによって、ナショナリズムを根拠に他国の領土を自国に組み入れようとしたり、他国の少数民族政策を理由に他国に介入したりすることが、もはや正統なものとは見られなくなったのであった(243頁)。

冷戦が始まり、東西に別れて世界の政治を支配した二つの超大国は、自陣営の利益をナショナリズムによってではなく、イデオロギーによって定義した。二つの超大国にとって、ナショナリズムに訴えた地域紛争は望ましいものではなかった。そこで主権の正統化原理として生まれたのが、「領土の実効支配」である。政府が国境内の領土を支配下に置いていれば、その政府がいかなる形態のものであれ、一つの正統な主権国家として認知されたのである。これにより、紛争は国家間ではなく、国家の範囲内に収められるようになった。また、もし政府が領土の実効支配をできなければ、それは外部からの介入を暗黙のうちに承認することとなった。(244頁)

ところが、冷戦における東西対立が緩和してくるにつれて、領土の実効支配を主権の正統化原理と見なすことに対して、とりわけ欧米の民主主義国から異議が発せられるようになってきた。国家主権の正統性は、自由民主主義を体現した政治制度の存在によって与えられるべきだというのである。また、経済の規模がグローバル化し、相互依存が深化するに伴って、排他的な国境内の実効支配を主権の正統化原理と見なすことへの反発がますます強まっていった(245〜246頁)。

このような動きが決定的になったのが冷戦の終焉であった。領土の実効支配と内政不干渉は、種々の批判を浴びていたとはいえ、冷戦の間は大国間の戦争へとエスカレートすることへの恐れから、それらの正統性原理は保たれていた。しかし冷戦が終わると、冷戦期の主権正統化原理は崩れ始めた。著者によれば、領土の実効支配に取って代わった主権の正統化原理とは、人権(human rights)であった(246頁)。従って、人権侵害の著しい国に対しては、介入が国際的に認められるようになったのである。もちろん明白な侵害の場合にのみそうした介入は可能となるが、それでも10年前であればそうした介入は考えられないことであった(247頁)。また、90年代における戦争犯罪裁判の復活と国際刑事裁判所ICC)の是非をめぐる論争は、個人の権利が国家主権の正統性を構成する重要な要素であることを物語っている(249頁)。

著者が言うとおり、人権規範の重要性の高まりは、国境の意味がなくなったことを決して意味しない。人権侵害を理由に介入する場合でも、それが介入国の国益に沿ったものであるからこそ、介入するのである(250〜251頁)。人権規範がパワー・ポリティクスに取って代わったわけでは決してない。(ボスニアコソボには介入するが、中国には介入しない。)しかし他方で、人権規範が特に欧米諸国の国益を逆に構成しつつある側面を無視することはできない。人権を守ることが国益に通じるとする信念が、ますます強まっているのである。

以上からわかるとおり、中世から現在に至るまで、フランス革命第一次大戦、第二次大戦、そして冷戦の終焉という4つの国際的に大きな事件を契機として、国家主権を構成する要素は大きく変化を遂げてきた。それぞれの時代区分において、国家主権を満たすための条件が大きく異なるので、他国に軍事介入する際の理由もそれぞれの時代で異なることになる。

しかしながら、中沢力も指摘しているとおり、現状ではバーキンが言うほど人権規範が国際的に広く受け入れられているとは言いがたい。君主制ナショナリズムや領土の実効支配といった正統化原理に比べれば、まだ一般化の度合いは低いように見える。

より重要なことは、仮にバーキンが主張するように、人権規範と国家主権が矛盾しないとしても、人権侵害の基準をどこに置くのか、軍事介入の基準をどこに置くのかというより現実的な問題はなんら解決されていないということである。大津留(北川)智恵子が以下のように鋭く指摘している。

「問題は、国民の人権を守るという大義名分を掲げてであっても、外部から当該国家の体制転換を試みることが許されるのか、そしてそれは国際社会の一員としての権利なのか義務なのか、何を基準に体制転換の必要性が判断されるのか、という基本的な点に関して、現在の国際社会では明確な合意ができていないことである。」(「人権と体制転換―米国の対北朝鮮政策」杉田・平間編『北朝鮮をめぐる北東アジアの国際関係と日本』115頁)

人権規範と国家主権が両立することの理論的意味は大きいかも知れないが、それだけでは介入の可能性は論じられても、介入を「いかに、なぜ」行うかという問いに対してはなんら答えを与えない。現実問題としては、後者のほうがはるかに重要な問題であるように思われる。