阿部潔『彷徨えるナショナリズム』書評

CampbellやNeumannが論じている「我々/彼ら(自己/他者)」の二項対立の軸を戦後日本の政治・経済・文化状況に応用したもの。とりわけ、90年代の日本において顕著になった「ナショナルなもの」の高まりを、「自己/他者」の対立軸によって説明することが本書の主たる目的である。

ミードの「他者の態度取得」(67頁)やクーリーの「鏡に映った自己」(68頁)といった概念を参照しながら、他者の存在を通して自己のアイデンティティを創造・強化するプロセスが、時間と空間を超えて人間の生にとって普遍的な特性であることを本書は示している。その特性が戦後日本にも確かに存在していることを証明するための素材として取り上げられている事例は実に幅広い。石原都知事の「三国人発言」、終戦直後から掲げられた「科学・立国日本」という日本のアイデンティティなどの政治・経済の分野における出来事から、特に70年代に人気のピークを迎えた「日本人論/日本文化論」、大衆向け雑誌の中に現れる「アジア・ブーム」、『電子立国 日本の自叙伝』や『プロジェクトX』といったTV番組、北野武監督による数々の映画、オリンピック種目であるシンクロの演技などといった社会・文化の分野における出来事に至るまで、実に広範な領域をその分析対象にしている。

そして著者がこれらの事例の中に見出す「オリエンタリズム」が、90年代も含めて、戦後日本のアイデンティティ形成を一貫して支えていたことは間違いのないことに思われる。「同一化すべき他者=アメリカ」と「差異化すべき他者=アジア」という二つの他者が(後者は前者ほどには自明ではないようにも感じるが)日本の自己認識を決定付けていたことも確かだろう。

「自己/他者」の二分法がアイデンティティ形成にとって普遍的な対立軸である一方、日本に顕著に見られるのは、アメリカが日本に対して持つオリエンタリズムの視点、すなわち「日本は異質」という視点をあえて受け入れ、むしろ逆手に取って自身のアイデンティティ形成に利用していることである。一般にオリエンタリズムは「自民族(自文化)中心主義」という形式を取ることが多いが、日本においては、吉野耕作の言う「自民族周辺主義」(ethnoperipherism、『文化ナショナリズムの社会学』105頁)となる。「日本は特殊である」とする前提を拒否することなく、むしろそれによって自身を他者から区別しているのである。著者はテクノロジーをめぐる日米の相互認識において、そうした日本の特徴を、アメリカが日本に対して持つ「テクノ・オリエンタリズム」と、日本自身が持つ「テクノ・ナショナリズム」との「奇妙な共存/共謀関係」(130頁)と表現している。

しかしながら、本書を読んで全般的に物足りなさを感じた。それにはいくつかの理由が考えられるだろう。

まず第一に、著者自身があとがきで認めているように、ここで論じられた「ナショナルなもの」をいかにして超え出ることができるのかについての具体的なビジョンが一切示されていないことである。確かに90年代の「彷徨えるナショナリズム」に見られる「アジア・オリエンタリズム」に対する著者の批判は正しいかも知れない。しかし、それを克服するための課題としては、「自己と他者が出会う場である公共圏を、新たに作り変えていくこと」(223頁)と述べるに留まっている。「「ナショナルなもの」と戯れている」(206頁)ことが具体的にどう問題なのか。それによってどのような具体的紛争が生じているのか。要するに、「何が問題なのか」の提示の仕方が具体性を欠いているのである。戦後日本の政治・経済・文化に潜んでいるオリエンタリズムを批判するだけではやはり不十分と言わざるを得ないのではないか。サイードが1978年に『オリエンタリズム』を世に出してからすでに30年近くも経っているのである。

第二に、著者は90年代における「ナショナルなもの」への欲望は、「「他者からの承認」の契機を欠いている点が特徴的である」(94頁)と述べているが、そのことは必ずしも「他者の不在」(95頁)を意味するわけではないということは注意を要する。確かに著者は、「「ナショナルなもの」が他者と全く無関係に成立していることを意味しない」(同)と断っているが、ここはもっと強調されて然るべきである。たとえ「他者からの承認」が放棄されようと(96頁)、「他者」が「忘却/隠蔽/抑圧」(95頁)されようと、「他者」は「自己」の確証のために必要な役割を維持するのである。その場合、「かぎりなく「他者」の姿が希薄」(208頁)とは必ずしも言えないだろう。NeumannがUses of the Otherの中でたびたび述べているように、「他者」というのは、現実においてその他者がどのようなものであるかという事実とは独立して存在しており、そもそも「自己/他者」の二項対立がアイデンティティを創造・強化する過程において、「他者からの承認」は最初から必要とされていないのではないかという疑問も生じてくるのである。承認がなくとも、そしてその「他者」像が全く不正確(キッチュなもの=まがい物、199頁)であったとしても、「自己」と「他者」の間の相互作用は継続されるのである。(例えば、欧米が好んで描く日本のイメージ――ヤクザ、芸者、ハラキリなど――は現代日本においてはもはや決して日常的なものではないにも関わらず、それは日本を象徴する重要な記号としての役割を保ち、「異質な日本」という幻想を作り上げることに寄与している。北野武の映画が欧米でウケたのも、そうした日本イメージの期待に応えて「日本らしさ」を自己演出したからだと著者は解釈している。185頁)

これに関連したことで、著者は「こうした他民族/他国家との出会いが、必然的に「ナショナルなもの」の高まりをもたらすわけではない」(40頁)と述べている箇所がある。にも関わらず、日本の「アジア・ブーム」は、「たとえ「アジア」への関心や興味が高まりはしても、結局のところそうした「他者」の意義は、「自己」を再確認する作業へと回収されてしまいがちである」(155頁)と指摘している。しかし、この「「自己」を再確認する作業」というのは、自己/他者という存在論的区別においては、程度の差こそあれ、アイデンティティ形成に常についてまわるものなのではないだろうか。

その他に細かい点を挙げるならば、「「日本人」ほど自分たちの「特殊性」にこだわる国民も珍しいのかもしれない」(54頁)などと述べているのは、直前で引用されている吉野耕作の本を本当に読んだのか疑いたくなってしまう(「日本人論を批判するジャパノロジストは、自民族の独自性に対するこだわりは日本の知的文化に特殊であるという前提のもとに議論したため、皮肉にも批判の相手である日本人論者と同次元の知的文化に拘束されてしまった。」吉野、53頁)。また、全体を通して片仮名の「ヨリ」が多用されているが(「ヨリ大衆レベルにおける関心の高まり」(134頁)など)、これは丸山眞男を真似たのだろうか。あまりに頻繁に出てくるため、個人的に読んでいてあまりいい感じがしなかった。

全般的には、オリエンタリズムのいろんな事例が出てきて、「なるほど、そんなところにも現れていたのか」と思わされることが多く、楽しい内容の本だった。あと、出版社の事情とはいえ、注がないのが非常に残念。