『知る』→『わかる』→『さとる』
大江健三郎「伝える言葉 「知る」と「わかる」:反復し「さとる」足場に」(朝日新聞2005年11月8日朝刊)
あくまで個人的な印象なのだが、最近「議論できない人」が増えているような気がする。
「議論する」とは、自分の理解では、相手の意見を批判的に吟味し、かつ論理的に自分なりの言葉で意見を表明すること、またはそうした意見のやり取りを意味すると思う。ところが、最近は多少利口で物知りな人はいても、「批判的に吟味」してない人がほとんどであるような印象を受けていた。
そうしたことを考えていたところでちょうど大江健三郎のコラムに遭遇した。大江は「このところテレビ番組の「知る」ことを軸にしたクイズが若い視聴者から年配の人たちまでをとらえていると感じる」と言う。
「知る」ことが悪いわけではない。全てはまず「知る」ことから始まる。でもそれだけで終わっては、結局既存の知のシステムの縮小再生産しかできないのではないか。それではすでに確立されてしまっている知識をそのまま鵜呑みにする、一般的な言い方をすれば「暗記する」だけで終わってしまうのではないか。ここで言いたいことは、「知る」という過程のあとには、大江のいう「わかる」という過程が必要になってくるということである。
「知る」から「わかる」と進むことで、知識は自分で使いこなせるものとなります。
「わかる」とは、自分なりに言えば「なるほど、そういうことだったのか!」と合点がいくことを指していると思う。「知る」から「わかる」へ発展することを通して、得られた知識はその人の血肉となり、そして行動につながる。受身的な知識が、積極的に人を駆り立てる動機へと転換するのである。
ところが大江は、柳田国男を参照しながら、「わかる」の先にさらに「さとる」があるという。
それは知ったことを自分で使えるようにすることから、すっかり新しい発想に至ることです。
ここに至って、最初に得られた知識がすっかり覆される。「この知識は実は不正確だったのではないか?」「正しいかも知れないが、それはあくまで一面にすぎないのではないか?」という疑問がわきあがってくるのである。疑問が疑問を呼び、さらにそこから新しい「知る」という過程が始まる。
必死で勉強している割りには、血肉とならない「使えない」知識を貯め込んでいるだけのように見える人が多い中で、いかに既存の知識を「疑ってかかること」ができるか、そして現実を少しずつでも変えていく力の源となる「さとること」に対してどれだけ意識的でいられるかが、サイードの言う「社会の役に立つ知識人」と大江の言う「豆知識・人」を分ける境界線であるように思う。