神なき時代を生きよ―科学の神秘
「科学と宗教の関係」についてどのようなイメージをお持ちだろうか。一般には、この二つは対立する概念として見られているのではないだろうか。科学とは膨大なデータや事実を集めて、未知の世界を既知のものに変えていくプロセスであり、それは絶え間のない真理の追求を意味する。つまり、科学とは「疑い続けること」と言っていい。一方、宗教とは、科学では証明できないことを「信じる」ことを大前提としている。科学と宗教とは、一見、相互に否定しあう概念のように思われる。だから、オウム真理教が、宗教団体を名乗りながら科学技術を積極的に取り入れていたことに、多くの人が違和感を覚えたのである。
しかしながら、このように科学と宗教をはっきりと分けて考える思考枠組は、実は近代以降に顕著になったものにすぎず、その歴史は浅い。それ以前は、科学と宗教の一体性を疑う者は(ニュートンやコペルニクスも含めて)ほとんどいなかった。
近代以降、科学の圧倒的隆盛によって、宗教的発想は迷信やオカルトとして退けられ、科学的方法によって証明されたものでなければ、それは「知」として認められなくなった。科学は分析対象の幅を大きく狭め、科学で証明できないものは「取るに足りないもの」として排除された。
しかし、考えてみれば、世の中にはすでに科学によって明らかにされているものよりも、まだ解明されていないことのほうが圧倒的に多いのであって、そのような神秘的な現象に関心を持つことは、むしろ科学の発展に寄与するはずなのである。にも関わらず、現代科学は、科学では解明できないものを素通りしようとする。
その結果何が起こったか。科学者はますます専門分野に閉じこもって社会との関わりを希薄にし、一般大衆はますます科学に対して無関心になり、他方でオカルトや神秘現象ブームを巻き起こした。佐倉統教授は「わからないことがあるからこそ、科学で調べるのではないか。自然が神秘的であり謎だらけだからこそ、科学が面白いのではないか」と言う。しかし、そのような声もむなしく、科学と信仰の溝はますます深まっていき、その接点をほぼ失ってしまった。
科学と宗教が接点を失った結果、社会的自覚のない科学者と科学に無関心な一般大衆という分化が起こり、社会性を失った科学は抑制がきかずに一人歩きするに至った。その最悪の結果が、オウム真理教事件であった。
このことは、科学者と一般大衆の間に、科学についての共通了解を築くことの重要性を物語っている。科学者は科学についてわかりやすく説明する努力を怠ってはならないし、一般人は理科が苦手だったからとか、数学が苦手だったからというつまらない理由で科学を遠ざけてはならない、ということである。科学は、佐倉教授が言うように、「社会的インフラ」と見なされて初めて、社会の幅広い人々の幸福に寄与するものとなるのである。
要するにもう少し科学に興味を向けてみようということである。新聞や雑誌には神秘的で刺激的な科学についてのニュースがたくさん出ている。そういうニュースが専門家だけの話ではなくて、日常生活に密接に関連していることだと考える視点が必要である。それが「神なき時代」に生きる我々の取るべき姿勢であり、とりもなおさずそれが科学の暴走に歯止めをかけることにもつながるのである。
"Ecological Niche May Dictate Sleep Habits" Washington Post, Monday, Oct.31, 2005, A7
人生の3分の1は睡眠時間であると言われる。睡眠の意義については、いろんな説があり、精神的安定を得るため、体力を回復させるため、知能を高めるため、などなど様々である。ところがこれらの説を覆す証拠もこれまでにたくさん提示されている。それでは睡眠とは何のために存在するのか?
シーゲル教授によれば、睡眠とはそれ自体が重要な意味を持っているのではなく、それぞれの種が生きる環境によってその意味が異なってくると述べる。例えば、肉食動物、雑食動物、草食動物はそれぞれ睡眠時間が大きく異なる。また、襲われる可能性の高い生まれたばかりの動物や外的から身を守るための安全な場所に乏しい環境(海中など)では、動物の睡眠時間は極端に少なくなるという。(成長するにつれて睡眠時間が長くなる事実もこの「環境説」を支持している。)シーゲル教授は、「生物にとって何か重要な機能を可能にするのが睡眠なのではなく、環境における生態的地位(ecological niche)に生物を適応させるために睡眠があるのである」と主張する。
しかし体内時計についての論文を書いているセイパー教授は、種の間の睡眠習慣の違いにも関わらず、そこには神経システムにまつわる睡眠の普遍性がある、という。彼によれば、睡眠によって記憶が定着するのだという。「睡眠は、情報を記憶に変換するために必要な「休憩時間」(down time)を脳細胞に与える。」ゆえに、種それぞれ睡眠習慣が異なるのは、単に異なる認識上の必要性と関係があるにすぎないと彼は言う。「ハエが学ぶこと、クジラが学ぶこと、人間が学ぶことは全く異なる。ゆえに睡眠量も一日における睡眠の形態も種によって全く異なるのである」とセイパー教授は言う。
セイパー教授の主張に従うならば、睡眠不足の状態は記憶という点から見れば非常に効率の悪い状態だと言えるだろう。
"Meet The New Planets" TIME, Oct. 24, 2005, pp.56-8.
学校の理科の授業で太陽系の惑星を学んだのをまだ覚えておられるだろうか。おそらくそこには9つの惑星があると学んでいるはずだ。太陽から近い順に、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星、の9つ。ところが、近年、新しい惑星が次々と見つかっているらしい。また冥王星は本当に惑星と言えるのかどうかについても議論が起こっているというのだ。
2000年に宇宙物理学者のニール・タイソン氏が「冥王星は惑星ではなく、単なる氷の塊にすぎない」と発表して、国際的な騒動に発展した。ところがその後、タイソンの同僚であるマイケル・ブラウン氏が、「冥王星よりも大きいという点以外は、非常に冥王星に似た惑星を発見した」と発表するに及んで、冥王星は惑星か否かという論争は新たな展開を見せる。「もし冥王星が惑星であるなら、この新たに発見された物体も惑星であるはずだ」というのだ。この「惑星」は2003 UB313という名で知られ、当面のところ「Xena」というニックネームが付けられている。この「惑星」は独自の「月」も持っているという。その後も次々と「惑星」は発見される。Sedna, Quaoar, 2004 DW, 2003 EL61などがそうである。
最大の問題は「惑星(planet)」という語に科学的な定義が存在していないことであった。何度もその定義が試みられたが、結局コンセンサスは得られていない。「大陸(continent)」と同じく、公式の定義がないのだ。(例えば、オーストラリアは大陸か島か。)
直径が2000km(1250miles)以上を惑星と呼ぶことを提唱する人もいる。そうすれば、冥王星や「Xena」は惑星にカウントされるが、他のものは除外される。天文学者のアラン・ボス氏は「冥王星は歴史的に惑星と見なされてきた。我々が採用する定義はそれを含めるものでなくてはならない」と言う。いまさら冥王星をはずすことなんてできない、というのが本音だろう。
もちろん大きさを基準にすることに異議を唱える人もいる。「直径2000kmの物体が惑星で、直径1999kmの物体が惑星でないというのはバカげている」というわけだ。
ブラウン氏は、今後少なくともさらに2つか3つの惑星を我々は見つけるだろうと言っている。惑星の定義が何であるにせよ、太陽系は、我々が学校で習った事実以上に、実は混み合っているようだ。
"Getting Inside Your Head" TIME, Oct. 24, 2005, pp.94-97.
かつて、ノーベル医学生理学賞受賞者の利根川進は『精神と物質』(文春文庫)の中で、「たとえば、人間が考えるということとか、エモーションなんかにしても、物質的に説明できるようになると思いますね。いまはわからないことが多いからそういう精神現象は神秘な生命現象だと思われているけれど、わかれば神秘でも何でもなくなるわけです。」と言った。その予言が少しずつ現実のものになっているような気にさせるのがこの記事だ。
脳をスキャンできる画期的な装置fMRI(functional magnetic resonance imaging)の開発以来、脳の構造のみならず、脳がどのように機能しているのかまでがわかるようになった。それはfMRIが血液の流れを測定することで可能になるのだが、精神に何らかの動きが生じたとき、脳の特定の箇所が画面上で明るくなるようにできている。
例えば、被験者にコーラとペプシのどちらかを飲んでもらうという実験で、脳にどのような反応が起こるか調べた人がいる。被験者には飲んでいるのがコーラなのかペプシなのかかわからないようにしてある。ところが、コーラのロゴマークを見たとき、被験者の快楽期待をつかさどる脳の箇所が明るくなったという。ペプシのロゴマークでは同じような現象は起きなかった。これにより、コーラ社のブランド・マーケティングのほうが、被験者の選好に大きな影響を及ぼしていることがわかる。たとえその人が普段はペプシを飲んでいるにせよ。
このような新しい技術が新薬の開発に寄与する大きな可能性を持っていることがすでに指摘されているが、それにとどまらず、この技術が政治や経済に及ぼす影響も議論されているという。
クリントン政権の元上級アドバイザーであるトム・フリードマンは、fMRIの技術を政策決定の研究に使う会社を立ち上げた。この会社は、ブッシュ支持者とケリー支持者の間で、脳の働きがどう異なるかを突き止めた。また、彼らはリーダーシップの特性についても研究中で、ついていきたくなる人とそうでない人のイメージに人々の脳がどう反応するのかを探っている。これらの研究は、政治家が選挙でより効果的に投票者にイメージを売り込むのを助けるかも知れない。
また、企業もこの技術に熱い視線を送っている。「神経経済学」(neuroeconomics)においては、車の選択やランチで何を食べるかの選択を脳はどのように行っているのかを分析することにより、近代経済学の「合理的行為者モデル」ではとらえきれない人間の無意識な感情や人間関係のダイナミクスを突き止めることを目標にしている。それによって、企業が広告によってどう消費者に自社製品を売り込めばよいのかという疑問に大きなヒントを与えることができるかも知れない。
もちろん、このような新技術の利潤目当ての利用に批判的な声もある。テレビCMにおける「サブリミナル効果」が問題になったことはまだ記憶に新しい。脳内を他人に覗き込まれること、購買行動をコントロールされることに嫌悪感を表す人も多くいる。
大きな可能性を秘めているとはいえ、それは、使う側の意識次第で結果が大きく異なる諸刃の剣である。