David Campbell, Writing Security書評⑦

sunchan20042005-09-11

【Chapter 6. Writing Security】

第1章において、NSC-68を引き合いに出して冷戦期における「脅威の言説」が明るみに出されたが、本章ではより詳細に、冷戦期のアメリカ国内における、アイデンティティ/差異をめぐる「推論的経済」(discursive economy)が分析される。

19世紀後半に公式に「フロンティアの消滅」が宣言されたにも関わらず、アメリカにとって「フロンティア」はアイデンティティ形成の上で最も重要な概念の一つとしてその後も残り続け、その対象を海外、とりわけアジアとカリブ海地域へと拡大していった(134頁)。海外への帝国主義的拡張政策は、アメリカ・インディアンの抑圧の際に使われたものと全く同じ論理によって正当化された。すなわち、原始的で無秩序、野蛮な人々を文明化するためという論理である。「他者」が指す具体的な対象が変わっても、その他者の存在が浮き彫りになる表現の仕方は、アメリカにとってすでに慣れ親しんだものであった(135頁)。冷戦期のアメリカにおいても同様に、他者が脅威として描かれる「表現様式」(modes of representation)は複製され、ソ連共産主義の実体そのものに依存することなく、アメリカは自身のアイデンティティの(再)創出を成し遂げていった(137〜138頁)。また、これもすでに何度も本書で指摘されていることだが、脅威として描かれた他者を通して自身のアイデンティティを(再)形成する時、その脅威が客観的な事実に基づいている必要性は必ずしもない。国益にとっての必要性に迫られて、明らかに挑発的なソ連の行動に反応したという単純なものではなく、アメリカ自身の存在にとってもっと重要なことがその行動の背後に潜んでいると見なくてはならない(138頁)。Campbellの言葉を借りれば、ソ連の脅威とは「ソ連の軍事的能力とは別個に構成」(139頁)されたものと見ることができる。

冷戦期におけるForeign Policy(国家が生み出すいわゆる「対外政策」)が確立されるはるか前から、ソ連あるいは共産主義に対するforeign policy(あらゆるレベルにおける差異化の運動)の歴史が存在した。共産主義が説く完全雇用、給与の公平性、育児などといった理想は、アメリカには縁のない邪悪なものとして共産主義ソ連そのものと関連付けられた(140頁)。1920年には、ボルシェビズムをインフルエンザやコレラのような病気と見なす「社会医学的言説」も登場した(143頁)。こうした社会的・文化的・経済的・政治的なあらゆるレベルの差異化の動き(=foreign policy)が、第二次大戦後のソ連に対するForeign Policyの基盤となったことは明らかだろう。

イデオロギーと権力政治の両面においてソ連との対立が強まった冷戦初期に、アメリカ国内では思想的な純粋性を国民に要求する運動が勢いを増していった。典型的な例が、アメリカの「忠誠の誓い」(the Pledge of Allegiance)に「神のもとにある一つの国家」(“one nation under God”)という文言がアイゼンハワー政権期の1954年に加えられたことであった。これに呼応して議会も、南北戦争以来硬貨に刻まれている言葉「我らは神を信ずる」(“In God We Trust”)アメリカの公式の標語として制定した(149頁)。また、ハリウッド業界、または連邦政府や州政府で働く職員に対する忠誠心の審査のための公聴会なども頻繁に開かれるようになり、またテキサス州では、公立学校の教科書を執筆する者たちに対して、「公立学校におけるアメリカ史の授業は、素晴らしいアメリカの原則や伝統によって鼓舞された、賞賛と興奮に満ちた歴史を教科書の中で強調しなくてはならない」と要求する法律が制定された(150頁)。政府職員については、雇用または解雇の際の基準として思想や人格面における評価が加えられたのもこの時期であった(152頁)。この結果、11,000人以上もの職員がその職を失った(153頁)。こうしてアメリカは、フーコーの言う「安全保障社会」(society of security、151頁)の様相をますます強めていった。それは50年代前半に猖蹶を極めたマッカーシズムにおいてその頂点を見る。

このような視点から冷戦初期のアメリカのforeign policy/Foreign Policyを見た時、アメリカの対ソ戦略としてこの時期に市民権を得た「封じ込め政策」に対しても、異なった見方が可能になる。すなわち、それは外部に存在する脅威に対する「隔離政策」であると同時に、国内において脅威の特定とその周縁化を行う政策であったと見ることも可能であることを意味する(156頁)。例えば、同性愛や女性解放運動は、共産主義に対抗するための国力を損なうものとして圧力を加えられた(157〜158頁)。「社会医学的言説」によって共産主義を病気と同等のものと見なす政策が、国内でも同様に「病気」を見つけ出し殲滅を試みる政策として機能した。

60年代半ば以降、アメリカの国力の相対的衰退が始まり、ベトナム戦争の泥沼化と相まって冷戦リベラリズムの提唱する原則は次々に疑問にさらされていった。国内では若者を中心に「対抗文化」が形作られ、足元から冷戦コンセンサスを突き崩していった。他方で、そうした動きを無秩序と見なし、秩序の回復と道徳への回帰を訴える「新保守主義者」が登場し、国内における文化戦争の重要なアクターとなっていった(162〜163頁)。サミュエル・ハンティントンもこうした動きに呼応して、「“民主主義の過剰”は民主主義に対する最大の脅威である」(163頁)と主張し、60年代の過激な反対運動を指して「民主主義病」(democratic distemper、163頁)と呼んだ。国内と国外の両方における秩序の混乱を目の当たりにして、新保守主義者らは国外の脅威を強調することによって、「安定し、統一された社会の追求」と「国家への忠誠心と規律の創出」(164頁)を目指したのであった。権威と道徳の衰退を嘆く彼らにとって、国内における実に多くの問題が脅威と映った。(麻薬、強制バス通学、犯罪、福祉、税金、中絶、アファーマティブ・アクション、同性愛者の権利、死刑制度、幼児虐待、女性の権利、銃規制、離婚など。165頁)

現実とは符合しない脅威を言説によって創り出し、象徴化することによって、それを封じ込め周縁化させる動きは、時代を超えて共通するものであった。このような排除のメカニズムは絶えず対象がやってくるのを待ち構えていて、昨今におけるその最も典型的な例が「テロリスト」という語である。この言葉を定義し、脅威として認識する際の論理が、かつて共産主義に対して使われたものと酷似していることからして、やはりこの排除の論理はforeign policy/Foreign Policyの構築において普遍的な性格を有しているものと考えられるだろう。こうして過去において使われた脅威の言説が複製され、新たな対象を獲得して活性化されていく(160頁、166頁)。

以上のように見た場合、冷戦もまた、単なるソ連との政治的・軍事的対立という定義を越えた争いであったと見ることが可能だろう(167頁)。第二次大戦後のアメリカは、ソ連との権力闘争と国内のリベラルな運動の盛り上がりに伴う混乱によって自身のアイデンティティの曖昧化に直面し、その曖昧さが生み出す不安から解放されるために、アメリカ自身が冷戦を必要としたのであった。それは決して挑発的なソ連の態度にやむをえず対処した結果であったのではなく、アメリカ自身が積極的に関与した争いであった。

では、すでに「冷戦後」なる時代も終わったと言われている現在から振り返ってみて、冷戦が終結した時、アメリカはどのようにして自国のアイデンティティを再構築したのだろうか。次章では「脅威としての麻薬」を事例にして、アメリカがどのようにして自身のアイデンティティを書き換えた(Rewriting)のかを見る。